第2話

 二、


 金の滅亡(一二三四年)から、南宋の滅亡(一二七九年)まで四十五年かかっている。国境侵入の目的が領土支配か一過性の略奪かで異なるが、西方遠征七年の体験をした名にし負う無敵のモンゴル鉄騎兵をもってすれば、四十五年はかけすぎだ。北から南に一気呵成に駆け抜けるだけなら、三年もあれば十分だろう。

 世祖チンギス・ハーンの時代なら、そうしたに違いない。事実、金滅亡の二十五年後(一二五九年)、憲宗モンケ・ハーンが攻めてきたときはその勢いだったから、これはとてもかなわんと思い正直いって観念した。それからだけでも十五年、南宋もこのわしも、よくぞ生きながらえてきたものだ。

「知らぬが仏」とはこのことだ。南宋百五十年などと能天気にうそぶいておるが、ひとつ間違えれば四十五年前に、南宋はホラズムと同じ運命をたどっていたかも知れぬ。それを免れ得たのは、あくまでモンゴル側の事情であり、世祖フビライの漢地経営構想の賜物たまものだった。南宋の力が勝っていたからではない。ましてわしには、あらがうだけの智慧も度胸もない。そのこと、知らぬでは済まされまい。歴史の真実として、やはり知っておくべきことだろう。

 ことに世祖とわしは、「密約」の当事者同士だ。墓場まで持ってゆくべき機密以外なら明かしてもよい。またわしは南宋末期に宰相を十六年勤めているから、裏の事情にも通じておる。それを伝えるのがわしの役目と心得、かように生き恥をさらして機会を窺うておった。


 モンゴル側の事情というのは、いろんな要素が複雑に絡み合っており、いわくいい難いものがある。わしもすべてを知っているわけではない。分っていることはただひとつ、これまで連戦連勝し、傍若無人に荒らしまわっていたモンゴル軍団が、ある日とつぜん掻き消すように、いなくなることだ。西方遠征のときもそうだったし、憲宗のときもやはりそうだった。理由わけが分らないから、はじめはあっけにとられ、策かと思う。数日して理由が分ったときには、もはやかれらは遥かかなたに去ったあとだから、追跡もできない。いや下手に追いかけて恨みでも買えば、いずれ戻ってきたとき報復されるから、ただ見守るだけだ。

 無力で哀れな農耕民族にとって、かれらの来襲は、地震や台風とおなじ天災と思って、あきらめるよりほかない。できれば矛先をかえて、他の地域を攻めてくれないかと願う。

 ハーンの死後、後継争いで内紛でもあればこれ幸いと、長引くのを待つ他力本願がすべてだった。事実、西征とはべつに、クリルタイ(後継者推戴集会)開催のための撤退が、南宋延命の契機になっている。やや煩雑ではあるが、それを少しく語ってみたい。


 チンギス・ハーンの第三子オゴタイが没した(一二四一年)あと、第四子トゥルイの嫡子モンケが即位するまで十年かかっている。オゴタイの嫡子グユクがオゴタイを承継したが、二年で亡くなったうえ、前後を皇后と母后が摂政としてつなぐという異常事態だった。

 太祖チンギス・ハーンの直系に、ジュチ・チャガタイ・オゴタイ・トゥルイの四王家があり、皇位をめぐり対立したのだ。もともとハーンの交代はクリルタイを開いて指名することになっているが、あくまで慣例であり、法律によって明確に決められているわけではない。原則的には末子相続だから、統治能力の許容範囲内であれば、問題はない。これが幼児であったり、極端に能力不足が指摘されたりすれば、紛糾する。

 太祖の没後(一二二七年)、モンケの即位まで二十四年たち、四王家の一部は孫の代になっている。太祖の意を受け、それぞれが大モンゴル帝国の一翼を担うハーン国を分立し、世界帝国を形成していた。東から西に、オゴタイ・ハーン国、チャガタイ・ハーン国、少しあとにフラグのイル・ハーン国、そしてキプチャク・ハーン国だ。かれら諸王と功臣らがクリルタイを構成する。とうぜん利害関係もあれば、親疎の別もある。抗争が生まれて不思議はない。

 ただ太祖の末子トゥルイだけが、分国の恩恵に浴していない。末子相続の前提で太祖の所領モンゴリアを用意してあったが、ハーンが領有する原則だからオゴタイが継いだ。トゥルイが権利を放棄し内紛の危機は免れたが、帝国の矛盾は表に出た。のちにその解決は、トゥルイの四子、モンケ・フビライ・フラグ・アリクブガに託される。「東征か西征か、支配か略奪か、遊牧移動か農耕定住か、統一帝国か連合国か」、いずれも二者択一の難問だ。


 だから憲宗モンケ・ハーンは即位した(一二五一年)のち、ただちに帝国の一元支配の方向性で、ハーン直轄地の拡大をめざして東征を選択した。フビライを漠南漢地大総督とし、南宋包囲作戦を敢行したのだ。ゴビ砂漠の南、漠南と漢地を攻め取る作戦だった。

 四川から雲南に侵攻、大理国を壊滅(一二五二年)。チベットを攻略、ラマ教政権を帰属させ(一二五三年)、フビライは凱旋する。遠征地に残留した将軍ウリャンハタイは、さらに南方(北ベトナム)の交趾こうしを攻めて安南国を服属させる(一二五七年)。朝鮮半島の高麗は(一二三一年以来)多年にわたる侵攻で、降伏寸前だったから、華北の背後の憂いもなくなり、南宋にたいする全包囲網は短期間で完成した。モンゴルは「違約懲罰」を名目に十万と号する大軍で、三路から南宋の領内に侵入した(一二五七年)。

 憲宗みずから本隊をひきい、甘粛・陝西せんせいから四川にはいり合州ごうしゅう(重慶)を囲んだ。狙いは長江の下流にある。フビライ軍は河北から河南を縦断、漢水に沿って南下する。ウリャンハタイ軍は安南から広西をへて湖南の潭州たんしゅう(長沙)を抜けて北上する。三軍は鄂州がくしゅう(武昌)で合流、長江を一気に下り、南宋の首都臨安を襲うという計画だ。計画通りにことが進めば、南宋に勝ち目はない。正直、わしは震え上がり、宮廷では遷都が取り沙汰ざたされた。


 この時期(一二五八年)、わしは四十六歳で両淮宣撫大使を拝命した。両淮は淮南の東西両面で、かつて防備した京湖の東につづく国境延長線上の重要な防御地域だ。身は前線におきながら、待遇は中央政府の閣僚なみで、その威光は宰相丁大全についだ。ことに人事面では別格で、大臣であろうとわしの合意なしには、進退を決められなかった。

 京湖で孟珙将軍の後任を勤め上げたあと、参知政事や枢密院事など国政や国防の要職を歴任、それまで三~四年ごとだった異動が、このころには年中行事になっていた。異動し昇任すれば職務も重要度を増す。姉の七光でここまできた高級官僚への道程だったが、その姉もいまは身罷った。しかし理宗の信頼はゆるぎない。責任の重さは感じるが、押しつぶされるほどやわではないし、実力でこの地位を得たと思うほど、わしはうぬぼれていない。

 フビライの軍が襄陽での戦を避け、迂回して漢陽方面に南下したとの一報を受けたわしは、モンゴル勢が淮東・淮西の路を選ばなかったのを確認したうえで、重兵をひきいて漢陽に向かった。鄂州救援のためだ。長江をはさんで北に漢陽、南に鄂州がある。しかし漢陽に到着したときにはすでに遅く、フビライ軍は長江をわたり、鄂州を包囲していた。

 モンゴルの三軍が合流すれば、万事休すだ。

 ――はて、どうしたものか。

 わしは長考した。

 ――肝心なのは、いざというときの対応と決断です。

 亡き姉が耳もとで励ましてくれる。

 友軍の到着を待つためか、フビライの包囲軍は鄂州を遠巻きにしたまま、動く気配はない。ならばわしもあえて戦を起こす必要はない。緒戦で兵を損じる愚は避けたい。

「短期決戦をねらう憲宗に比し、フビライはことのほか動きが慎重です。なにかあります」

 物見が戦況を報告する。わしは長江の流れに着目した。上流には憲宗の本隊がいる。流れに乗って殺到されたらそれまでだ。

「流れにさおさせるな。くいで止めろ」

 長江の鄂州への上陸地点手前に、防御柵を打ちつけ、自由な運航をさえぎったのだ。全面的に経済封鎖すると民の生活に影響するから、交易船の通航に不便のないよう片側は空けてある。軍船が通過すれば、一目瞭然だから、絶好の標的にできる。いつ来襲するか分らぬ敵に備え、突貫工事で完成し、長江の両岸に石弓部隊を配備した。得物が柵にかかれば、いつでも討てる。

 南宋側の意気が上がった。一方、フビライ側の退路をったわけではない。浮き橋に使う小船や筏は、岸辺にまとめて寄せてある。フビライに背水の陣をとられてはかなわぬので撤去せず、これみよがしに置いてある。逃げ道があると知れば、だれでも命が惜しくなり、戦闘意欲を失うものだ。だからこれは、温情などではない。紛れもない戦術だ。

 それを知ってかどうか、フビライが、わしの緊急対応を過分に評価したと聞かされた。

「将兵の心の機微をみごとに捉えている。この才ある将を、わが陣営によべないものか」

 このはなしを持ってきたのは、全真教の道士だった。

 全真教というのは道教の一派で、河北中心に布教伝播している。開祖王重陽おうじゅうようの教えを受けた長春真人が、チンギス・ハーンの容認と庇護を得て普及した。かのチンギス・ハーンに、「敬天愛民戒殺」を認めさせたという。

「天を敬い、民族は異なっても人をいたわり、殺戮を戒めよ」。この教えをもとに、フビライはモンゴルの改革を志していると、その道士はわしに告げた。

 城を焼き、略奪しつくし、抵抗すれば皆殺しにする。モンゴル鉄騎の凄まじさは巷間、つとに喧伝されている。

「恐怖をあおるため、あえて誇示したところもあるが、チンギス・ハーンが生き抜いたのは、まさにそういう時代だった」

 と、道士は否定しない。噂とは往々にしてそうしたものだ。勝手にひとり歩きする。わしについてまわる悪名もまさにそれだ。

 フビライの特使としてわしに遣わされた道士は、同時にこうもつけくわえた。

「敬天愛民戒殺はその反省のうえに立って生まれた。フビライはこれを深く信奉し、ときに略奪をともなう遊牧生活から、漢地に農耕定住する平和的移住を真剣に考えている」


 モンゴルが金にかわって華北を支配し、二十五年になる。モンゴル支配下の漢地はどうなったか。果たして城市は焼きつくされたか。人は殺され逃散したか。鉄蹄に踏みにじられて田畑は崩壊したか。農地は放牧地にされてしまったか。

 答えは、否である。

 宋蒙盟約のおり、孟珙が携えていった米三十万石は、モンゴル兵を飢餓から救った。漢の大地が穀倉であり、江南が豊饒の米蔵であることを、モンケはオゴタイから教わった。そしてフビライは、耕地が一過性の略奪の何層倍もの価値のあることを、モンケから学んだ。

 わしは「漢地経営構想」というフビライの考えを、以前から注目していた。

「モンゴルを出て、漢地に定住する。漢人の知識と経験を学び、高度な農耕技術にもとづく経済運営で、より豊かな繁栄をモンゴルにもたらす。漢地の統治は漢人にまかせる」

 道士はフビライの構想を代弁した。本気か、わしは耳を疑った。

「穀物が実ったころに現われ、根こそぎ奪って北に去る」のが、これまでの遊牧民族だった。しかしそれではただの盗賊で、国家ではない。力のあるうちは通用しても、相手が力を持てば好き勝手はできなくなる。ましてや飢饉や逃散で、穀物が残っていなければ、みずからも飢えることになる。このくりかえしでは民族の誇りも伝統も、生まれようがない。

 漢人に倣い農耕技術を覚え、みずからの食い扶持は、みずから作ってゆくべきだ。そのためには馬から下りて、みずからすきくわを手にし、土地に定住することだ。現に、河北では少しずつはじまっている。前代の金に倣い、モンゴル人も定住しだしたという。

 無人の地なら問題ない。だが先住者がいればどうなる。追い出すのか、共生できるのか。こう訊ねると、道士はへいぜんとして答える。

「漢人の対応次第だ」

 わしは頭を抱えた。


 モンケがフビライを漠南漢地大総督に任じたのは、この考えを認めたからに違いない。モンゴリアンに食糧を補給する漠南漢地は、フビライに任せようと判断したのだろう。

 だとすれば、モンケも同じ考えか。いや、モンケの野望はもっと大きいはずだ。それは、他の三王家のハーン国の勢力を弱め、大モンゴル帝国を一元化し、正統派トゥルイ王家の大ハーンとして、群小のハーン国に君臨することだったのではないかと、わしは見る。

 末弟のアリクブガに任せてあるモンゴリアンの地には、アリクブガ・ハーン国をつくる。

 三弟フラグには西方に新たなフラグのハーン国を持たせる。だからこそ、南宋包囲作戦を敢行した同じ時期、フラグに命じてペルシャに遠征させたのだ(一二五三年)。それから五年かけてフラグはバグダードを陥落するが、モンケ崩御の知らせを受けるや、即、本国に帰還している。フラグにもハーンの推戴を受ける資格がある。結局、フビライ・ハーンの誕生で、フラグは西方に戻り、イル・ハーン国を建て、自立する(一二六〇年)ことになる。


 このモンゴル相手では、南宋はとうてい太刀打ちできない。戦に敗れ、農地は取られる。

 戦を前に絶望的予感が脳裏をよぎる。動揺を覚られまいと、ひっしに素知らぬていを装っていたわしに、天からの救いをもたらすように、道士は驚くべき事実を告げたのだ。

「じつは四川合州の釣魚ちょうぎょ城で憲宗モンケが流行り病で急死した。モンゴルの本隊は兵を引き、本拠地の和林カラコムルへ向けて撤退している」

 わしは絶句した。フビライは憲宗の死を知ったうえで長江をわたり、鄂州を確保していた。友軍のウリャンハタイ軍を見捨てなかったのだ。この信義の厚さがモンゴル軍の強さを象徴している。とても敵わぬ。

 少時おいて気を取り直したわしは、ようやく返事した。

「で、わしにどうせよと仰せか、フビライどのは」

「湖南の潭州から北上中の友軍の到着をまって、フビライ軍も撤退する。後継の大ハーンを推戴するクリルタイに出席しなければならぬ。急ぎ戦をめて和議してもらいたい」

「クリルタイに出席できなければどうなる」

「末弟のアリクブガが推戴され、大ハーンになる。モンゴリアンの守旧派が大勢を占めることになり、チンギス・オゴタイの昔に戻る。略奪と破壊で、漢地はふたたび蹂躙される」

「和議の条件は」

「宋金和約に準ずる」

「断れば、どうなる。四川からの本隊が撤退したいま、宋蒙の兵力は互角に戦える」

「モンゴル軍が決死の覚悟で戦えばどうなるか、想像に難くない。長江沿岸の城鎮は焼き払われ、住民は皆殺しにあう。なぜ悲惨な戦をあえて行う必要があるか。南宋の命運はすでに尽き、遠からず滅びる。ここはフビライを北へ帰し、大ハーン位に就けるのが得策だ。そして南宋が滅びたあとの漢地の経営を託すのだ。百年、漢地を百年モンゴルにお預け願いたい。決して悪いようにはならぬ。百年たてば、馬を下りたモンゴルは、戦を忘れる。その手に鋤鍬を持たせれば、しぜんに武器を捨てる。百年後にモンゴルは、漢人に同化されるか、追われて黙って北に去るだろう。これがフビライからお主へ宛てた伝言だ」

 いずれにしてもフビライがやろうとしている大元帝国(一二七一年建国)は、太祖チンギス・ハーンがつくった大モンゴル帝国とは、明らかに異なった道を歩もうとしていることだけは分かる。国土こそ征服されるが、漢地の民族と文化は生き残る。フビライは、占領される漢人にとっては、他のだれよりも歓迎できる相手だといえるのではないか。


 事態は一刻を争う。密約といわばいえ。わしは独断で停戦を選び、フビライと講和することに決した。歳幣の条件は、銀二十万両、絹二十万匹。宋は臣と称し、領土は長江で国境線をひく。双方ともに王朝の代表ではないから、あくまで拘束性のない、仮の草案にすぎない。宋蒙両軍が停戦状態となり、モンゴル軍の撤退が無事に済めばよいのだから、形式にこだわる必要はない。前線の全権を委任されているわしは、戦を収める駆け引きのひとつだと承知し、臨安の理宗にも確認していないが、別段、不都合はない。

 一方、フビライは調印こそ保留したが、和議の提案を受け入れ、全面撤退を了承した。宋蒙両軍は戦闘を中止し、実質的な停戦にはいったのだ。

 そうこうするうち、ようやくウリャンハタイ軍の消息がもたらされた。フビライは撤退作戦を敢行した。長江に小船をつないで浮橋を架け、北岸へわたるのだ。渡河中に攻撃されたら目も当てられない。信頼できればこそ、フビライはあえて背中をわしにみせたのだ。

 わしもまたフビライを信頼し、南宋崩壊後の漢地百年の経営をフビライに託そうとした。

 フビライの全軍が長江をわたりきったころ、間に合ったウリャンハタイ軍があとにつづいた。殿軍しんがりの一隊が、捨石となって攻撃された。死傷者零では報告もできぬで、わしの腹心たる水師(水軍)の夏貴にいいふくめておいたのだ。最後尾百七十余名の犠牲者を残し、戦場からモンゴルの総軍が脱兎のごとく姿を消した。

 いずれフビライは大ハーンとなって戻ってくる。わしの脳裏に確信に近い予感が湧いていた。たとえモンゴルに征服される運命にせよ、自滅したのでは身も蓋もない。自浄努力で延命もしたいし、抵抗もしてみたい。

「われらが宋軍の威力に恐れをなし、蒙古軍は北に逃げ去った。いまこそ勝利を祝え」

 もぬけの殻の戦場で、わしはあえて豪語してみせた。

 みやこ臨安にむけた演出である。南宋は、このあと二十年延命する。


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