権臣伝

ははそ しげき

第1話 

 一、


 わしが賈似道かじどうだ。

 奸臣だ、権臣だと、ひとを札付きのようにいうてくれるな。

 ただの賈似道でよかろう。

 もっとも、南宋の後期、理宗・度宗たくそう・恭帝と三代の皇帝に仕え、いずれの代にも権勢をふるったことは事実だから、権臣とよばれるのはまあ許せる。だが、南宋をモンゴルに売った売国奴だの、十六年間宰相の座を独占して専横をきわめ、政権をわたくしした大奸臣だのと、極悪人のようにいわれるのには抵抗がある。弁解するつもりはないが、国を売った覚えはない。かえって滅亡寸前の南宋を二十年ちかく延命させたのは、このわしだといいたい。

 おや、どうされた。いささか、得心の行かないごようすじゃの。

 これまで悪玉の代表のようにけなされとったゆえ、どんな悪党づらが出てくるか、みなで賭けでもしておったか。それがこんなに優しげなおきな顔がでてきたのでは、興醒きょうざめもしようというもの。ひとこといっておくが、ゆめゆめ世間のいうことなど、鵜呑みにするものではないぞ。じぶんの目で見、おのれの頭でようく考えてから、ことの善悪を推し量れ。

 ほんに、すまんことよのう。ことに還暦を越してからはトンと意気地がなくなって、好々爺こうこうやさながら日々呑気のんきに暮らしておるで、権勢のことなどとうの昔に忘れてしもうたわい。ましてやこの歳で、モンゴル相手に戦の采配など、思いもよらぬことじゃて。

 いまさら言い訳がましいが、わしほどの愛国者で君主思いの忠臣は、歴代の王朝を見わたしても、そうはいまい。などと自画自賛しても、白けるだけか。いや、ちといいすぎた。わしとてもう長くはない。この世の名残に、ひとつわしのかたを語って聞かせようかの。なあに、気張るつもりはない。じじい戯言たわごとと思うて、聞きながしてもらえればよい。


 わしは南宋寧宗の嘉定六年(一二一三年)、台州(浙江)の寧海で生まれた。

 父親は賈渉かしょう淮東わいとう制置使という北辺防備軍の長官を勤めていた。淮東は淮水と長江にはさまれた江蘇の一帯で、南京の北東側にあたる。わしが十一のときに、六十三で亡くなっているから、わしは五十二のときの子ということになる。まあ元気なものじゃて。

 そのころの中国は、東は淮水、西は陝西せんせいの大散関をむすぶ線を境界にして、北の金国と南の宋国とに分かれていた。契丹キタイ人の遼国を亡ぼして南下した女真ジュルチン族の金国に侵犯され、上皇徽宗きそう・皇帝欽宗きんそう以下三千人の官僚や技術者を拉致されて北宋は壊滅した(一一二七年)。

 首都開封かいほうを逃れた宋朝の宗室は、長江の南に避難した。江南の杭州を臨安府とよんで仮の皇居(行在あんざい)として国の南半を統治することになった。これが南宋だ。中原回復といって、いずれは旧都開封へ戻るつもりだったから、行在にこだわったのよ。

 南北対峙の形勢だが、戦ばかりやっていたのではない。ことわざに「上有天堂、下有蘇杭」(天には極楽浄土があり、地には蘇州・杭州がある)というくらいで、天国に見紛うほど杭州は蘇州にならぶ風光明媚の地で江南は豊饒の楽土だったから、農業生産が著しく発展し、南宋の経済は以前に増して好況だった。戦さえなければ国も人も、豊かな消費生活を満喫できたのだ。だから面子メンツを捨てて金に臣下の礼をとり、歳幣として銀二十五万両、絹二十五万匹を贈与する条件で、講和を結んだ(一一四二年)。

 それからなんどか会戦し、和議の条件を変更することはあったが(一一六五年と一二〇八年)、わしが生まれた年、一方的に中止するまで、ときに支払いが遅れることはあっても、中断の時期をのぞき歳幣の贈与はほぼ七十年間つづいた。平和を金で買ったようなものだったが、明らかに軍事費用の支出は抑えられ、残った分は民需の拡大助成にまわされたから、一部の主戦派以外には、おおむね好評だった。

 平和か誇りか、どちらかを取れといわれれば、わしも平和を取る。誇りで人の腹は膨れん。平和であればこそ人は知恵をはぐくみ、生きる糧を見出し、先祖を祀って、家族ともども泣き笑いして過ごせるのではないか。戦のなか、殺しあって生きるなぞ真っ平だ。

 事実、豊かな経済力に支えられた杭州は人口百五十万、すでに開封の繁栄を抜いていた。


 金国との最初の和議は、抑留を解かれて帰国した秦檜しんかいの主導で進められた。はじめ金国の手先か間諜かと思われた秦檜だったが、前後二十年間、宰相の座にあって専権をふるった。講和に反対する者を弾圧、歴史書を改竄かいざんし、民族主義の高揚を禁止した。この間、救国の英雄岳飛が犠牲になり、民族の誇りが地に落ちた。その報いを一身に浴び、のちに秦檜は奸臣・売国奴と罵倒されることになる。

 二回目の和議は、原因を作った金国側が譲歩した。金国皇帝海陵王が盟約に違反し、南宋に侵攻したのだ(一一六一年)。改定条件は、君臣関係が叔姪しゅくてつ(おじおい)関係に緩和され、歳幣の贈与額が二十五万両匹から二十万両匹に減額された。国境線は動かなかった。

 それから四十年太平がつづき、平和の有難味ありがたみがだいぶ薄れてきている。南宋に韓侂冑かんたくちゅうという野心家が現われ「中原を回復して、国辱をそそぐ」と広言し、開戦をあおった。皇室と姻戚関係があり寧宗の即位(一一九四年)に功があったかれは皇帝に取り入り、「平章軍国事」という軍政・国政の最高責任者となって、対金討伐戦をはじめた(一二〇六年)。応戦した金軍は、各方面とも優勢裏に展開し、淮南・大散関など南宋側の国境の一部を占領した。

 奇しくもこの年は、全モンゴルの諸部族を統一したテムジンが、モンゴル皇帝チンギス・ハーン(元の太祖)を名乗り、周辺地域にたいする軍事行動を開始した時期にあたる。

「大モンゴル国」と称する新たな遊牧民連合国家の最初の餌食となったのは、金に隷属する西夏だった。その前年にはじまり(一二〇五年)滅亡するまで(一二二七年)、モンゴルは数度にわたり執拗に西夏を攻略した。宗主国の金は、西夏に援軍を送らなかった。矛先が自国に反転することを恐れたからだ。モンゴルの金への攻撃は、まだはじまっていない。

 このうえは、一刻も早く宋との戦を終わらせるにくはない。和平交渉を急いだ金は、韓侂冑の首級を交渉の前提として要求した。しかし、韓侂冑が同意するわけはない。宋側で金との和平を希望する礼部侍郎(文部副長官)史弥遠しびえんの一派が、韓侂冑を暗殺、首級を差し出し、和平交渉の席についた。この暗殺に際しては、事前に寧宗の内諾を得ていたというが、敵の指図で味方の大将を殺すというのは、いかがなものか。わしならやらん。

 改定条件は、金軍が占領した地域からもとの国境線まで撤退する、歳幣の贈与額を最初(一一四二年)に約定した二十五万両匹から三十万両匹に増額する、戦費賠償金を宋は金に賠償する、というものだった。戦勝国が下した戦敗国への和議条件だ。平和を望むなら、飲むしかあるまい。それが戦というものだ。負ける戦はやってはいかん。

 暗殺した韓侂冑のあとをうけて、史弥遠が宰相の座についた(一二〇八年)。それ以降、寧宗の代に十七年、寧宗崩御後、謀略をもって理宗を擁立した功により、引きつづき九年、都合二十六年間宰相の座にあった史弥遠は、国政をほしいままにし、専横のかぎりをつくした。死んではじめて宰相の座を手放したのだから、しぶといものよ。それが、南宋とモンゴルが宋蒙連合を組んだ年で(一二三三年)、金が滅亡する前年のことだ。

 秦檜・韓侂冑・史弥遠、わしと似たような理由で後世に汚名を残した奴ばらの事歴を、ここで語ったには、わしのおもんばかりがある。「似て非なり。わしは違う」と、さきに断っておくので、さよう心得られよ。


 モンゴル人にとって、馬に乗って草原を駆ける遊牧民族は、地に這いずりまわって作業する狩猟農耕民族よりも優位に立つ民族に思えた。ところがその狩猟農耕民・女真ジュルチン族の金国によって、多年にわたってモンゴリアは蹂躙じゅうりんされてきたのだ。新生モンゴル国の屈辱の思いは、仇敵金国にたいする「血の復讐」となって、金蒙国交断絶の年(一二一〇年)からはじまった。 

 翌年のチンギス・ハーンによる親征もふくめ、金国攻撃は毎年のように行われた。河北・山東・山西につづき東北も制圧、首都中都(北京)を河南の汴京べんけい(開封)に遷都するまでに、金国を追い詰めた(一二一四年)。そのまた翌年、北京陥落。金の官民はいっせいに河南へ逃避し、がら空きの黄河以北にモンゴル軍が居座った。黄河をはさんで一触即発の両国だったが、金国の劣勢は否めない。もともと西夏の犠牲で、命拾いしていたに過ぎなかったのだ。

 青息吐息の金を見て、これ幸いとばかりに南宋は、歳幣の提供を止めた(一二一三年)。さきに述べたとおり、わしが生まれた年のことだ。その四年後(一二一七年)、歳幣未払いを理由に、金は南宋攻撃を開始した。金に反発した西夏が南宋側につき、挟撃作戦を提案した(一二一九年)。金・蒙・西夏・南宋が入り乱れる戦国の様相だ。金のが悪い。

 しかし寧宗の嘉定十二年(一二一九年)、チンギス・ハーンはとつぜん西方に兵を転じて七年におよぶ西征に向かう。当初、わけが分らず、だれもが戸惑った。

 あとで知ったが、中央アジアを支配するホラズム国のオトラル太守が、モンゴルの平和的通商使節を殺害し、積荷を奪うという事件が起きたのだ。報復に燃えるモンゴルの討伐軍はホラズム各地を席捲、敵対する城市はことごとく破壊しさったという。ホラムズ王ムハンマドを追ってモンゴル軍は、西に向かってなおも進撃をつづけ、見知らぬ異国の数々を、奪いつくし、焼きつくし、殺しつくしていったというすさまじい戦況が、伝えられていた。ともあれモンゴルの西方遠征で、金は窮地を脱し、ひと息ついた。


 七年後(一二二四年)、チンギス・ハーンは凱旋し、中断していた東征を再開した。寧宗が崩御し、弱気になった史弥遠は金の申し出を受け、停戦に応じた。西夏もこれにならった。

 しかし、西夏を滅ぼした年(一二二七年)の八月、稀代の英雄チンギス・ハーンは、甘粛の黄土高原を北から南にはしる山脈の主峰六盤山ろくばんさんの麓で急逝した。享年六十六。

 二年後、三男のオゴタイが推戴されてハーン位をつぐ(太宗)。その翌年、太宗オゴタイは、軍をひきいて山西を南下した。チンギス・ハーンの遺詔を忠実に守り、金が固守する潼関を避け、黄河をわたって河南に侵攻、首都開封を包囲した。皇帝哀宗は蔡州(河南汝南県)に逃れた。モンゴル側の要請で宋蒙盟約が結成され、宋の将軍孟珙もうきょうが兵二万人、米三十万石をもって加勢した。直接会うことはできなかったが、この孟珙こそわしの軍学の大師匠だ。

 哀宗は自決し、金朝は建国百二十年で崩壊した。北宋滅亡から百七年経っていた。滅亡した金に代わりモンゴルが、国境の北側を支配した。支配といっても定住するわけではないから、略奪された都城はすぐに荒れ果て、空城となる。


 理宗の端平元年(一二三四年)、金滅亡の年、わしは二十一歳になっていた。

 ――唇滅びて歯寒し。

 金が敗れたいま、次の標的は宋になる。慎重に行動すべきであった。しかし南宋の官民は久々の戦勝に浮かれ、モンゴルの合意をまたず失地回復を急いだ。空城どうぜんの旧都開封・洛陽・帰徳(河南商丘)に侵攻、悲願の三京さんけいは収復したが、反撃したモンゴル軍によってすぐに奪還された。宋蒙盟約は金の討伐が目的だ。金の滅亡後は速やかに撤退すべきなのに、かえって進撃した。宋の盟約違反をなじったモンゴルは、国境を侵犯、江淮・漢水流域(湖北)・蜀(四川)など、おもだった国境線が突破された。その後、和議は結ばなかったから国境では四十年も戦争状態がつづく。ときに太宗オゴタイの死(一二四一年)などで、モンゴルが兵を引くこともあったが、首都臨安では戦などどこ吹く風の他人事だった。偽りの平和に酔いしれ、つかの間の安楽に身をゆだねていた。


 いまでこそ老いぼれたが、そんな時代にこのわしは、花々公子ホアホアコンズ(プレーボーイ)とよばれ、紅灯のちまたに浮名を流しておったものだ。どうだ、いまでもその面影は残っていよう。

 あるとき理宗皇帝に、こういって皮肉られたことがあった。

「賈似道よ、昨夜は西湖で遊んでおったろう。真夜中だというに、風に乗って音曲が流れ、湖が昼間のように照り輝いておった」

 それは確かに前の晩の深更、わしが遊んだ花舫かぼう(遊覧船)の明かりに違いなかった。

 まだ若かった。帝のおことばに反省するどころか、かえってこうお答えしたものじゃ。

「つぎには臨安府中を真昼のごとく煌煌こうこうと明かりに照らし、夜の闇を吹き飛ばしてご覧にいれましょう」

 異母姉の賈貴妃が帝の寵妃だったから、弟のわしもずいぶん目をかけていただいた。

 父親を早くに亡くしたが、恩蔭おんいん(父の功労報奨)があり金に不自由しなかったから、少年のころから好き放題の生活を送り、放蕩のかぎりを尽くしておった。賭場には出入りする、無頼の遊侠とは交友するで、ひとなみ変わった経験があり、下世話の話題には事欠かなかった。おまけに多少弁が立ったから、面白がられたのであろう。よくお声がかかった。

 このころすでに書画の蒐集をはじめていて、逸品が出るたびわしのほうからも、お目通りを願っていた。賭場では遊ぶ金ほしさに掛け軸などよく持ち込まれるが、その目利きを頼まれているうちにわしの目も肥えてきた。ときに北宋の内府に秘蔵されていた国宝級の書画と出会うこともあり、身の内がとろけるほどの喜びを隠すのに往生したものだ。やがて収蔵欲も沸いてきた。ミイラ取りがミイラになった典型だ。


 そんな折、いつまでも遊びほうけていてはだめだという姉のすすめで、科挙を受験することになった。進士に及第すれば、任官に便宜を図ってもらえる。恩蔭のあてがい扶持ぶちの卑官で満足するなという姉の叱咤しった激励だ。わしもその気になってはみたが、科挙というのは膨大な量の学識が前提になっているから、二十五歳のわしが一朝一夕でかなう相手ではない。

「高祖劉邦は無学で、文字も書けなかったそうですが、漢を建国しました。枝葉末節はどうにでもなります。いざというときあやまたず対応し、決断できる能力があればよいのです」

 さすがに姉は肝が据わっている。帝に談じ込んで、免解という特別措置をとってくれた。

 これだと予備試験なしに殿試を受けられる。皇帝臨席の殿試に不合格はなかったから、わしはなんなく及第して進士になった。

 さっそく儀礼・祭祀を司る「太常丞」や武具の製造修理を司る「軍器監」を拝命、次いで湖南省澧州れいしゅうの知州(地方行政長官)に昇官するという出世街道を、とんとん拍子で駆け走り、内心、忸怩じくじたる思いはあったが、勇んで任地に赴いた。

 姉が皇帝の寵妃だということは、黙っていても知れわたっている。上下を問わず、阿諛追従の輩が寄ってくる。もとよりこのわしは、物おじしたり、遠慮したりする性格ではない。どの役所、どこの土地へ行っても対応はかわらない。寄ってくる取り巻き連中をひきつれ、賭場通いとくるわ遊び、料亭を借り切ってのどんちゃん騒ぎがついて回った。

 地方官をいくつか歴任したあと、三十四歳で京湖制置使に任命され(一二四六年)、わしは湖北に赴任した。五十二歳で亡くなった名将孟珙の後任である。さすがのわしも緊張した。生前、勇名を馳せた孟珙から軍事の要諦を学びたいと、常々願っていた。

「気にすることはない。おぬしは闘蟋とうしつ(コオロギ相撲)の上手と聞いているが、戦もあの要領とかわらん」

 国境の丘に立つと、孟珙将軍の声を聞いた気がした。あながち妄想とも思えなかった。

 闘蟋とは蟋蟀しつしゅつ(コオロギ)格闘のことだが、勝負を賭ける博打ばくちの一種で、わしの十八番だ。まず負けたことがない。養盆で育てたコオロギ戦士を闘盆のうえで格闘させ、優劣を競わせる。体格別の格闘競技だから、どれとどれを戦わせるか、頭を使えば勝負を左右できる。敵を知り己を知る沈着な情報分析、なだめすかし、あおってはやす用兵の妙。ときに擬態や謀略で敵味方を撹乱する。金を賭けるから熱が入る。なかには家屋敷を抵当に入れるものさえいるが、冷静さを欠いたら負ける。戦場を知らないわしにとっては、この闘蟋だけが唯一、戦の経験だった。

「闘蟋の賭け勝負を、モンゴル相手にやってみるか」。

 わしは孟珙に倣い、闘蟋流の戦法を実際の戦場におきかえてみた。四川から湖北にかけての国境線は、モンゴルが南下する侵攻路にあたるが、孟珙が城を築き、強固な防御線を敷いていた。守備兵の食糧も屯田で賄っており、わしが継いでも十分機能していたから、敵は攻めあぐんでいた。




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