後編
最寄りの駅から電車に揺られること二時間。私たちが大切に大切に心に閉じ込めてきた思い出の地は、案外すぐに行ける距離だった。
段々田んぼと畑だけになる窓の外に、すごい場所だなと隣に座る兄は苦笑している。
どうして今日まで来なかったのだろう。流れていく景色をぼんやり見ながらそう考える。ノートの中ではあれが懐かしいこれがもう一度見たいと散々言い合っていたのに。その気になればいつだって来れるその場所に、けれど今まで避けてきたのはやっぱり怖かったのだろうか。大切な宝物のような場所に、土足で踏み込んでしまうのが。
――土足?
私は今の自分を汚れた靴だと思っているのだろうか。現世と前世は違うのだと言い聞かせてきたつもりだったけれど、いつの間にか理沙を押し退けてまゆこが本体になっていたのだろうか……
「まゆこ、次で降りるよ」
兄の……いや、誠一の声で我に返る。駅に着いたら私達は、今日一日だけ昔のままの恋人同士だ。
やがて改札もない、こぢんまりとした無人駅に降り立った私は、震える唇でああ、とため息を洩らした。
懐かしい。なんて懐かしい。私がまだまゆこだった頃、毎日のように利用していた馴染みの駅だ。
「すごい。なんにも変わってない。全部あの頃のまま、ね……誠一」
涙ぐむ私を甘やかな瞳で見つめ、誠一はそっと手を差し出す。一瞬ためらいつつも、私は手を伸ばしてそっとそれに重ねた。
「じゃ……行こうか」
ひと回り大きな温もりが私を包み込む。
ああ、帰ってきた。やっと帰ってきたのだ、私達の愛しいあの時間に。私の歩調に合わせてゆったりと歩く長い足も、見上げればいつも柔らかい微笑みをくれたその眼差しも、この胸のときめきも、何もかもが……
「ああほら、まゆこ。この道覚えてる?」
「覚えてる。高校の通学路だ……」
一言一言噛み締めるように言葉を返す。駅を出て細い一本道を真っ直ぐ行くと、踏切の向こうに急な坂道が現れる。毎朝誠一と自転車をうんうん押しながら登っていたそのてっぺんに、私たちが通っていた高校があった。
「わあ、変わっちゃったなあ……」
フェンスの向こうの白い校舎は、記憶していたものと随分姿が違う。
と、おもむろに誠一は例のノートを取り出すと、ページを開いてクスクスと笑い出した。
「ああ、確かに変わっちゃったね」
覗き込むとそこには私の描いた高校の絵。
「あー! それもうやめてよー!」
「ははは、さすが画伯。相変わらず腕は落ちてないようで」
取り上げようとした私の手をかわして彼が笑う。昔もよくこうやってじゃれ合うように喧嘩してたっけ。美術の時間なんて、いつも隣に来てはからかって……
「うわっ」
思いっ切り伸び上がった瞬間、足首ががくんと崩れた。バランスを失って身体が傾く。
「おっと」
思わずギュッとつぶった目をゆっくり開くと、力強い腕に肩を支えられていた。思いがけず近づいたその距離に、どくんと心臓が跳ねる。
「まったく……そういうドジな所も、変わってないな」
「ご、ごめん……」
慌てて体を引いたその瞬間、目の前の顔が何かに耐えるようにグッと歪むと……肩を引かれ、そのまま温かい胸に強く強く抱きしめられた。
「せ……誠一……」
私の呼びかけに応えるように、より強く腕に力がこもる。ドクン、ドクンと彼の鼓動が押し当てた耳から私を震えさせる。
……これは終わりの旅だ。
前世の恋を終わらせる旅。私は腕を彼の背に回して抱きしめ返す。
昨夜部屋の前で目を合わせた瞬間から、ちゃんと分かっていた。分かっていて、ついてきた。
「誠一」
ねえ、私やっぱりドジだね。あれだけ生まれ変わったらまた会いたいって願ってたのに、妹なんかに生まれてきちゃって。だいたい私の方が先に死んだんだから、せめて姉だろうに。きっとあの世でぼんやり待ちくたびれているうちに、先に誠一が生まれ変わっちゃって慌てて後を追いかけたんだわ。ほんとに、ドジにも程があるね……
泣き笑いの言葉は、けれど声にはならず、私はただ黙って彼を抱きしめ続けていた。
通行人のジロジロとした視線に、誠一はようやく私を解放した。
「ごめん、そろそろ行こうか。日が暮れちゃうな」
「うん……」
離れていく温もりが寂しい。ゆっくりと歩き出した私たちの間で揺れる指先が、一瞬微かに触れて離れて、それからどちらからとも無く絡め合った。
毎晩のやりとりの中、二人で書き込んだ地図を見つつ、遊園地を目指す。坂を下って暫く行けば、懐かしいはずの町並みは随分と様子を変えていて、私たちは目印となるものを探してウロウロとさ迷った。
「見て誠一、こんなところにスーパーなんてなかったよね? 前は何があったんだっけ」
「さあ……もう忘れちゃったな」
歩けば歩くほど知らない町だ。心細さに、私はしがみつくような思いで繋いだ手に力を込める。あの頃の思い出を探しに来たはずなのに、私たちの拠り所に帰ってきたはずなのに、まるでがらんどうに二人きり、放り出されてしまったようだ。
「たしかこの先のバス停から乗り込んで五つか六つ行ったところだったと思うんだけど……参ったな、どこ行きに乗ればいいんだか」
「大学病院……」
呟くのは、私が死んだ場所。
「あの日バスに乗りながら、ああ、次にこれに乗るのは入院する時なんだなあって思ったの、よく覚えてる」
やがてやって来たバスに乗り込んで、一番後ろの席に並んで座る。手を繋いだまま、私たちは黙って窓の外を見つめていた。
二人の目の前は行き止まり。けれどそこにはもう一つ別れ道がある。今の理沙と智樹を捨てて、永遠にこのままでいること。ノートを介して愛を語り合い、人生が終わるその時まで二人きり、過去だけをなぞっていくこと。
まるで心中のようだ。
「ねえ誠一、遊園地についたらいっぱい乗り物乗ろうね。観覧車にも乗ろうね」
「ああ」
生きていながら、共に死ぬこと。
それはなんと甘美な夢なのだろう。これから乗る観覧車のように、閉じられた世界に二人きり、宵の中にキラキラと光って……
私はそっと目を閉じる。あの日のきらめきが瞼の裏に広がって、いつまでも輝き続けていた。
嫌な予感は目的の停留所についた時からしていた。歩いても歩いてもテーマパークがあるような気配がないのだ。
「バス停、一つ間違えたかな」
誠一は苦笑するけれど、あれだけ大きな観覧車がどこにも見えないのはおかしい。
と、見覚えのあるドームを見つけた。たしかこの向かいに遊園地があったはず。けれどどう見ても、目の前にあるのは巨大なショッピングセンターだった。
「あの、すみません。この辺に遊園地があったはずなんですけど……どこか分かりますか」
誠一が通りすがりの女性に声をかける。たちまち怪訝な顔が返ってきた。
「遊園地? もしかしてドリームランドの事ですか? それだったらとっくの昔に無くなっちゃいましたよ。ほら、あのショッピングセンター、あれが代わりにできてね……」
目の前が真っ暗だ。色を失った世界を、ただ誠一の手に引かれるままとぼとぼ歩く。私たちは互いに何もかける言葉を見つけられず、ひたすらに口をつぐんで自分の影に目線を落としていた。
行くあてもなく、しかし戻る気にもならず、知らない街をうろうろと彷徨い歩く。あれだけ晴れ渡っていた空も橙に霞み、気がつけば辺りは深い藍に染まり始めていた。
と、爪先に感じた痛みに私は立ち止まる。私たちの繋がりがくんっと引っ張られ、目の前の彼も足を止めた。
「どうした?」
「……足が痛い」
「ああ、一日中歩きっぱなしだったもんな。ちょっと座るか」
脇道にそれたところに小さな公園が見える。水道とブランコしかない、ひっそりとした秘密基地みたいな空間だ。
長いこと誰も揺らしていないだろう錆びたブランコに私を座らせると、誠一はその足元に跪いた。
「見せて」
痛む右足をツイと差し出すと、大きな手が靴下を脱がせる。少しばかりの恥ずかしさに、私は顔を逸らした。
「ああ、ちょっと擦りむけてる。まゆこ、絆創膏持ってるか?」
私から受け取ったそれを貼る手つきはどこまでも丁寧で、なぜだか鼻の奥がツンとする。
「ごめんな、気づけなくて」
黙って首を横に振る私に、誠一は悲しげに笑いかけると、キイ、と軋んだ音をたてて隣に座った。長い沈黙。
「……ごめんな」
最初に口を開いたのは誠一だった。
「どうして謝るの?」
「観覧車、乗せてやれなくて」
約束したのにな、と呟く声が寂しい。
「仕方が無いよ、なくなっちゃったものはどうしようもないもん。それに今日ここに来たのだって、元々……」
うん……と静かな頷きが闇に溶ける。口に出さなくても分かっていた。私たちの恋が今夜ここで終わることを。この小さな公園が、旅の終着点。
「誠一、私ここに来れてよかったよ。そりゃ随分色々と変わっちゃってたけど、私たちが過ごした思い出の場所なんだし。これでもう」
悔いはないよ。続く言葉は、けれど喉の奥に詰まって息を塞いだ。代わりのように涙が溢れて止まらない。
決心してきたつもりだった。けれどバスの中で夢見た甘美な世界はあまりにも幸せで、あまりにも離し難くて。あまりにも……
ガシャン、と鎖のぶつかる音が響く。
「嫌だ、別れたくない。好き、誠一、大好き。大好き……」
衝動のままに誠一の胸にすがりつく。彼は一瞬体を震わせて……強く強く力のこもった腕で私を抱きしめ返した。
確かにここに私たちは存在するのに。こんなにも昔のまま。けれど私たちの帰る場所はもうないのだ。二人きり閉じこもる場所も、共に死ぬ場所も、もうどこにも。
どうにもならない現実に、二人声を上げてただ泣き続けた。そういえば前世でも、こうやって身を寄せあってよく泣いたっけ。「まゆこの死」という現実に。
私がいなくなった後も誠一は一人ぼっち、こんな風に涙していたのだろう。
全てが終わる今、二人一緒に最後の時を迎えられるのは、人生越しの願いがひとつ叶ったと言ってもいいのかもしれない。
そっと身体を離す。流れ込んできた冷たい空気が、涙に濡れた頬をひんやりと撫でていった。
「最後に言わせて」
柔らかに滲んだ鳶色の瞳が私を見つめる。
「大好きだよ、まゆこ。ずっと、ずっと愛してた」
大切な言葉を閉じ込めるようにゆっくりと瞬きをして、私はこくりと頷いた。
触れるか触れないかで額を擦り合わせると、それを最後に私たちはそれぞれのブランコに座り直す。
と、何気なく見上げた夜空に私たちは同時にわあ……と息を飲んだ。
頭上には満天の星が広がっていた。澄んだ漆黒の空に、まるで息づくように星々が瞬いている。
「すごい……」
「うん、綺麗だね。まるで星が降ってくるみたいだ」
ああ、あの時と同じだ。あの日の帰り道、二人で同じ空を見上げた。同じ会話をして笑い合った。
……やっと見つけた。微笑んだ頬に涙が伝う。
やっと見つけた、二人の思い出。もう二度と帰ることはできないけれど、それでも最後に見られてよかった。この、まるで降るような星空を……
「そろそろ帰ろうか。母さん達が心配する」
兄が腰を上げてこちらを振り向く。
「そうだね」
頷いて、それから私はあっと声をあげた。
「ねえ、あのノート貸して」
受け取ったノートの表紙を一撫ですると、さっきまで座っていたブランコの脇にそっと置く。弔うようにしゃがんだままの私を、兄がじっと見ていた。
「もういいの?」
やがて立ち上がった私に兄が問いかける。
「うん。これは持って帰れないからね」
「そうか」
ごみ箱に捨てる勇気は、まだ持てないけれど。
「行くか」
「うん」
ゆったりと歩き出す兄の後ろについて公園を出る。
「そういえば理沙、お前優太の事どうするんだよ」
「うーん、ちょっと考えてみるつもり」
「そっか……まあちょっと抜けてるとこあるけど割といい奴だからさ、アイツ」
「うん、知ってる」
歩みを進める並んだ足が、今日の一日を上書きしていく。
駅まで戻る道すがら、兄妹として止まった時間を埋めるように、私たちはいつまでもいつまでも話し続けていた。
もう、手は繋がなかった。
星が降るようで 咲川音 @sakikawa_oto
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