サクラ、一片。

第1柱

 澄んだ霊気に氷の気配を纏わせて、少女巫女が柏手をひとつ打つ。巫女装束を翻し、鋭く。袖に結われている緋色の紐がしゃらりと揺れる。パァン、と大きな柏手により、瘴気に充ちた空間が一息に晴れ、場には冬の朝焼けの清涼な空気と椿の芳香が漂い、先ほどまであった息苦しさが凡て祓われた。少女巫女は柏手を打った手を静かに降ろし、白銀にどす黒い闇を灯した瞳で無感動にその場を見つめる。彼女は細く息を吸って、祈る様に、消え入るような声で呟いた。


「貴方達が、冬の茨に乗って、還れますように。茨が、少しでもお手伝い出来ますように。」


 せめてもの手向けに、花を編もう。水の霊気で、氷の霊気で。美しい花と、儚くて強い蔦を編もう。祓われた彼らが再び迷わぬように。苦しまぬように。


 そっと手を差し出し、ぽつりと祝詞を唱える。すると春の目覚めの光が零れ、きらきらとした氷の花々が綻んでいく。雪の手のひらから零れた花は終わりのない天をめがけてするすると伸びていく。いつしか、それに追随する形で祓われた瘴気だったものたちが光となって召されて行った。


 少女巫女の名は十夜茨。ヒトの子であり、ヒトならざるモノ。ヒトと神の中間に座す、神の眷属であり妖たりえる存在。水と氷の霊力を持つ、かんなぎ兼退魔師である。


 *   *   *   *   *


 その後茨が修祓を終え、緋袴の穢れをぱたぱたと払っていると、どこからか軽薄な、それでいて澱みを纏っているテノールの嗤い声が降ってきた。


『流石だねえ、我が巫。今回の瘴気、A級って迦具土命サマ言ってたんだけど。お前ならこのくらい造作もなかったかぁ。やっぱ、俺の“氷の巫女”なだけあるねぇ。』

「…ミツハ様。任務、終了しました。」

『うんうん、ご苦労様。今回も美味しかったよぉ?あねさまの水と同じくらい素敵だ。』


 嘲笑交じりに褒め称え、ふわりとまるで見合わない春風の如く、茨の背後に降り立つ。そのままノーモーションで禍々しい闇を茨へとけしかける。茨は振り向きざまに霊力を氷柱に変え、”ミツハ様”と呼んだ己の仕える神に振りかぶる。だが襲い来る氷柱を、ミツハは造作もなく蒸気へ変え、逆に己の水をかぶせる。しかし黙ってやられているほど茨も愚図ではなく、咄嗟に分厚い氷の結界を周囲に張る。ミツハは「へぇ?」と感心するやいなや着流しの袖を翻し、刀の様に水を変換させ茨へと刺し穿った。茨はその白銀の瞳を驚愕に見開き、結界を一点集中型へと変化させる。ギィィィィッ、と鈍く擦れる音が静かな空間に響き渡り、またそれが終わりの合図だった。茨は肩で息をしながらミツハを諭す。


「ミツハ、様。お戯れは終わりになさって下さい。それと、ハノメ様と同列に扱われてはハノメ様に失礼で御座いましょう。」

「ふふふ、腕を上げたんだねぇ、茨。いい子いい子、上出来だ。もう只の付喪神風情や退魔師、陰陽師連中に負けることはないだろうねえ。それに、俺とのこの“戯れ”でも風穴が開くようなこともなくなった。素晴らしい進歩だよ。ま、それでもまだ、無駄な動きが多いかなぁ。」


 何事もなかったかのようにミツハは茨を称賛し、欠点を指し示す。その瞳には愉悦と悦楽の色があり、蒼の双眸はいっそう笑みをかたどる。それに茨は反応を示さずこくりと頷き、目を伏せる。

「御指導、御鞭撻、光栄の極みに御座いまする。されど茨ごときの術では、貴方様の―――龍神、闇御津羽神様の御足元にも至りませぬ。」


 息を整えた茨は手を胸の前で組み、独特の崇拝の構えでミツハの足元に傅く。ミツハは、そんな茨を当然のように見降ろし、端正な口元を薄らと三日月に歪める。

「俺を龍神とあまり呼ぶなって言ってるだろ。あっちは好きじゃないんだ。―――任務も終わったことだし、帰ろうか。俺たちの社に。」





 ミツハ―――神名を闇御津羽神くらみつはのかみというこの神は、伊弉諾尊いざなぎのみこと迦具土命かぐつちのみことを殺した際に誕生したと言われる神だ。伊弉冉尊いざなみのみことが迦具土命を出産した際、彼が火の神であったために伊弉冉が焼死してしまった。それに酷い憤りを感じた伊弉諾が神剣、十束剣とつかのつるぎで迦具土命を斬り殺したことによって闇御津羽神を始めとしたさまざまな神が誕生した―――、有名な日本神話の一節だ。一般的に書籍となっている古事記及び日本書紀でカウントをすると大体十六柱と言われているがそこは割愛する。


 ともかく、その十六柱のち一柱、闇御津羽神ことミツハは水や雨を司り、貴船神社の主祭神である高龗神たかおかみのかみ、その側面である闇高龗神くらたかおのかみらとともに日本三大龍神、更に丹生川上神社の主祭神の罔象女神みづはのめのかみを加えた四柱で日本の主な水神として祀られている。


 また、闇とは谷間を意味し、中にあるのは”混沌”と呼ばれる暗闇。人界の善悪も、神界の善悪も、何もかもすべてを飲み込む龍穴の闇。ミツハや、闇高龗神は同時にそれらも司り、他の神々よりも汚染や汚濁と言った力が強い。


 こうした経緯からミツハら約十六柱の神々は迦具土命の身体から生まれた。いわば迦具土命の分身であり兄弟であり子供であり模倣体コピーであり眷属である。また多賀の幽宮に籠る伊弉諾を除く神の中で最高位の神である、所謂三貴子――天照大御神あまてらすおおみかみ月詠命つくよみのみこと須佐之男命すさのおのみことの三柱を始めとした様々な神にに迦具土命は厭われているため、瘴気の修祓などの“裏”の仕事が神としての仕事である。


 神とは、神としての定義や其れにまつわる伝承、信仰が無ければ力を失う。いくら名が人世に広まっていたとしても力が無ければ消滅してしまい、存在は忘れ去られる。其れを恐れ、或いは厭い、神々は力を増すために働く。ある神々は四季を執り成し、またある神々はその季節の変わり目、五行を執り成し、またある神々は四海を執り成し、その神髄を活性化させている。また、土地神や付喪神と言った力の弱い神々は人に奉られ、信仰され、畏れられ、使われることでその力、存在を保つ。そうして神道が廃れ科学が発展した現代で、神々は尚も力を保ち続け、存在し続けているのだ。



 *   *   *   *   *



「っふーぅ、ただいまーっと。」


 慌ただしく降り立ったそこは大きな土間。前回の帰還時に室内に降り立ったのをやめてくれと進言したのを覚えていてくれたのか此度はちゃんと土間だ。(そもそも神域なので汚れはすぐに祓われるのだが気持ちの問題だ。)ミツハはぽいぽいと下駄を脱ぎ捨て、自室へと帰ってゆく。茨は無残にも脱ぎ捨てられた下駄をきちんと揃えて、自分の下駄も揃えて部屋へと上がる。


「ミツハ様、茨は本日もへ報告が御座います故、少々失礼させて頂きたく存じまする。」

「ああ、そういえばお前、向こうでは役人だっけ?いいよぉ、行ってきな。でもさっさと帰って来てよ?」


 先程までの神々しい恐ろしさは何処へやら、精悍で端正な顔をぷうと膨らませて茨を送り出す。茨は「有難き。」と簡易的な礼をし、そそくさとミツハの前から去る。ぱたぱたと足早にやって来たのは茨が自室として与えられている十畳の部屋。襖をぱたりと閉め、簡易結界を張り――神域では電波が狂ってしまうため、それを防止するための結界だ――、懐から携帯電話を取り出す。平たい携帯はから支給される最新のタブレット端末だ。若干不慣れな動作でロックを解除し、通話画面を開き、登録されている所定の番号にダイヤルをする。二、三コール後に『はい、宮内庁御霊部、修祓課、担当の綾乃です。』と聞きなれた女性の声が電子音交じりに聞こえてくる。今日も無事に電話を掛けられたことに安堵し、「もしもし綾乃さん、茨です。」と名乗りを上げた。


『あら、茨さん。お疲れ様です。任務は終了しましたか?』

「は、はい。本日の結果報告を致します。迦具土命様からの御指令通り、Aランク相当の霊威を修祓致しました。本体は死後数百年程度…おおよそ江戸後期から明治初期にかけての遺骸で、重度の蠱毒です。それに怨念や土地の地縛霊等が群がり大きな怪異、霊威と変化しておりました。担当巫女は当該霊威を修祓、後に召し上げました。今頃、天照大御神様の元で最終浄化を受けているところでしょう。」

『はい、記録致しました。…それにしても、Aランクって。女の子一人にやらせるものじゃないわよね…。しかも蠱毒でしょう?怪我とかはしていないかしら、茨さん。』

「大丈夫です。…正直、修祓よりもその後のミツハ様の御戯れの方で擦過傷が少々…。」

『はぁ?まったく…、何やってんのよあの邪神サマはっ!ねえ茨さん、本当に嫌だったら風穴開けてやりなさいね?あのカミサマならその程度ほけほけ笑って許してくれそうだし。』

「あはは…。ですが、ミツハ様の御戯れの御陰と言いますか、せいと言いますか。お仕え始めた当初より、ずっと力は増したように思います。」

『それは感覚がマヒしてるって言わないかしら。いえ、強くはなってるのでしょうけれど。』


 報告を終え、いつもの綾乃の心配に始まり、憤りに終わる軽口。茨はこの時間が結構好きだ。まともな人間と会話できる唯一の時間。そこに神や妖、神秘のモノは何も入ってこない。


「…ふふ、では今日もお疲れ様です、綾乃さん。お仕事頑張って下さいね。」

『ありがとうね、茨さん。貴女もお仕え頑張って!』


 最後にそう言葉を交わし、通話をきる。時間にして約五分、少し長かったかもしれない。この空間にあまり時間の概念はないけれど、感覚的概念は存在する。神域に戻れば途端に甘えたがりになる主の元へ急いで馳せ参じなければ。滅多に動かない表情筋を笑みの形に柔かく変え、結界を解除して部屋を出た。




 *   *   *   *   *




長い廊下を音もなく歩み、見慣れた鷺の描かれた襖の部屋へとたどり着く。膝をつき、「失礼いたします。」と一言述べればひとりでに開くというシステムになっている。最初これを見た時は自動ドアみたいだ、と思った。開いた襖の奥、奥座敷にミツハはだらしなく寝ころんでいた。


「ミツハ様。ただいま茨、貴方様の元へと馳せ参じ申し上げました。大変、お待たせいたしました。」


手本のような三つ指をつき、謝罪の言葉を述べ上げる。一拍置いた後、「遅いぞ、茨ぁ?」とぶうたれた子供のような口調で茨に文句を言う。茨はくすりと笑い、「申し訳ございませぬ。」ともう一度謝罪した。ミツハはがばりと勢いよく起き上がり、がしがしと頭を乱雑に搔いた。


「ったく、役人も大変なものだね。報告義務だっけ?そんなの人の言う一週間に一度、書簡にまとめ上げて投げればいいのにぃ…。俺の娯楽の時間が無くなるじゃないかぁ。迦具土命サマも毎日のように仕事投げて来るし…。休みが欲しーい!」


子供の様にだだをこねる目の前の神に、茨は今度は苦笑を零す。


「仕方ありませぬ、ミツハ様。人世でも、仕事をせぬものは生きる価値が御座いません。精々塵芥となるが身の定めでしょう。茨はそうはなりたくありませんし、ミツハ様にそうなってほしくもありません。」

「まぁねぇ…。この俺が、有象無象の塵芥などと同然にされたら堪んないし。茨の為に動いてやりましょう。という訳で、茨。膝頂戴。」

「畏まりました、仰せのままに。」


そういうと、茨は絹ずれの音をさせながらミツハの元へと歩み寄る。丁寧に頭を抱えあげ、自身の膝の上に置き、膝枕の状態にする。これが最近のミツハのお気に入りだった。闇と水を司る身なれど、求めるのは皆同じ。春の木漏れ日と、温かな慈愛、そして柔らかな枕。この三つが揃えば皆入眠してしまう。まさに春眠、暁を覚えずだ。神域の気候はある程度その神域の創造主に委ねられるため、快適な気候を保つことは造作ない。その中で包み込むような茨の唄と、頭を撫ぜる小さな柔かい手が、ミツハを甘い時間へといざなうのだ。



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サクラ、一片。 @Fram_0723

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