第4話 ハルタ

 私はシュウと、この地の小児科と救急を請け負う病院を開いた。

 そばにはいつもシュウがいて、その優しさが水となり、花が空に伸びるように、導かれるようにしてここまで来た。


 ♦


 2月。

 吹雪いて前が見えないほどの大雪が降った。寒いと感じる感覚も、麻痺してしまったようだ。

 病院へ向かう道のり、シュウが体調を崩したので、珍しく私一人でラジオを聞いた。赤信号ではコーヒーを飲んだ。

 自宅から病院までは、車で15分。夏の間は涼しくて気持ち良い散歩道となるが、なにしろ夏が短いので、たいていは車を使う。


 病院について電気をつける。9時からの診察に備えて、つけっぱなしの暖房の温度を上げて、加湿器をセットした。

 シュウが体調を崩したときから、なにか違和感は感じていた。もやもやと引っかかる。あの時と、同じだった。何か、必ず大切なことを忘れてるのに、思い出せない。思い出せと本能が叫んでいるのに、手を伸ばしても、そこにたどり着けない。

 しばらくすると、その大切なことを‘‘思い出すこと‘‘も、わすれてしまった。


 9時少し前。扉が開いた。急患だろうかと駆けつけると、そこには高校生くらいだろうか。一人、男の子が立っていた。

 精悍な顔つき、いかにも頭のよさそうな。それでいて、人懐っこそうな。

 外は、ひどい雪なのに、彼の体には一片の雪もついていない。

 どうかしましたかと、聞くことができない。猛烈ななつかしさに襲われて、思わず口をついて出た言葉は、

 「ハルタ。」

 それはもう確信だったから、わざわざ疑問形にして聞く必要もなかった。なのに、それなのに、声が震えて止まらなかった。


 ♦


 突然彼は訪れて、私に微笑んだ。


 どこかで見たことのある口元だなと思ったが、そのままにしておいた。

  

 「元気にしてた?」

 彼は、ずっと私のそばにいたかのように尋ね、横に並んだ。


 ♦


 笑うとき少し上がる唇の左端。

 ずっとずっと会いたかった。彼が死んで、それは突然で、私の人生には何ももう残っていないと思うほど落ち込んで、少しづつ立ち上がって、ハルタのせいで医師になった。

 ハルタ。

 話したいことはすべて胸の扉にこだまして、落ちた。代わりに涙が頬を伝って、顔がくしゃくしゃに歪んだ。


 「どこにいたの。なんで今なの。ずっと会いたかった。」


 出てきた言葉を全部ハルタにぶつけて、少しでも反省すればいいと思った。


 「ずっといたんだよ。」

 「いつもそばにいるんだよ。」


 ハルタは弱く微笑んだ。そんな顔を見るのは初めてだったから、それからは何も言わないで、ただ、ハルタの言葉を自分の頭に、耳に、皮膚に、焼き付けようとした。



 ケイちゃんとおれは、何度も出会っているでしょう。

 

 例えば、おれが死んでしまって、ケイちゃんは自分が泣いていることに気づかないほど大泣きしていて。

 あの時、風を吹かせた。涙を、拭いてあげたかったから。

 あと、あの時。ケイちゃんが医学部に合格したとき。あの時俺はさくらになった。散って、ケイちゃんに触れたかった。

 シュウさんと出会った日、おれ、二人は結婚するんだなと思ったよ。すこし、悲しくて、この時は素直におめでとうを言えなかった。その代り、二人がここに病院を作ると知ったとき、頑張れって言ったんだ。

 このころには、ケイちゃんはもうおれに気づかなくなってた。


 それでも、ほら、何度でも出会っているでしょう?


 ケイちゃんの悲しみに、喜びになって、おれはケイちゃんの永遠で一瞬だった。


 流れる涙を拭いて、前を向く背中を押した。

 遠くから、近くから、ケイちゃんのことをみているよ。


 ♦


 私はすべてを思い出した。

 風が吹いた日、桜がひとひら、自分の肩に乗った日。

 目の前で嵐が起きたような、一瞬で時が戻ったような。

 実際、戻っていた。

 ケイちゃん、そう呼ばれるだけで。だって、ハルタだけが、私をケイちゃんと呼ぶ。このことに不思議な幸福を覚えていたではないか。

 いま、おおきな幸せの中に、私とハルタはいた。

 ハルタはもうどこにも行かない。見えなくても。実体がなくても。

 

 ハルタは、もう私だった。

 今始まったことじゃない。今までもずっと、ハルタは私の中にいた。


 顔を上げて、ハルタの唇の左側がくっと上がったのを見ると、どうしても涙が止まらなかった。それらの粒が、いくつも流れ出してきて、あごの先で大渋滞を起こしていた。


 「ケイちゃん、どうして泣いてるの。」


 あの日のように苦笑いするハルタに、私は触れて言う。


 「これからもずっと、私の中にいて、どこにも行かないで。」



 「もちろん。」


 優しく笑ったハルタの後ろから、強い風が迫ってきた。

 不思議と寒くない。なんだか、温かくて、ハルタに守られているような気がした。

 隣に座っていたハルタは少しずつ、少しずつ、消えて、

 わかっていても私は悲しくて。ああ、行かないでと言わないでおくのが精一杯だったから、何も考えずに涙をこぼした。


 雪に混じった早すぎる桜が、私の周りをふわふわ飛んで、優しく包む。


 今日は2月7日。ハルタがなくなった日。

 思い出した。


 私は元気だった。幸せだった。きっとこれからも。

 

 ハルタ。


 私は静かに意識を失った。

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ハルタ 深井 ゆづき @yudu-moon

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