第3話 ケイのこと
大学に合格した春、ケイは一人暮らしを始めた。
一緒についていきたいと言った母のことはおいてきた。自分の物差しで、頑張ろうと決めたからだった。
それでも、残り物でご飯を作ること、洗濯物をためないこと、見えないうちに行われていた家事をこなすことは、ケイにとってはじめての困難だった。
自由にともなう責任は新たな壁だったが、その忙しさが、唯一故郷へ帰りたいと突然沸き起こるさみしさを打ち消すものだった。
♦
夏の終わりかけの風がケイを包み、すこし肌寒い。長袖を出そうか、最近雨もよく降るな、
秋風が町に馴染んでゆくなかで、シュウと出会った。
シュウは同じ学年だったが、1年浪人していた。たまに見せる年上の雰囲気は何ともいえぬ落ち着きを持っていた。
見上げるほど背が高く、よく笑う人。悲しいことがあると、ためらわず泣く人。感情の起伏があまりないと思っているケイにはうらやましいと思えるほどに、毎日が騒がしい人。
ケイが悲しいこと、うれしいことすべてを大切にひろい上げて、代わりに涙を流しているのかなと思う日もあって。そうして毎日、気づいたら、シュウといるのが当たり前になった。自分が、大事にされているのが分かる。守られていると感じる。
声が耳に残る。ざらざらした声。話しかけるとき、すこし前かがみになるから、曲がる背中。気にかけない服の袖はいつも伸びていて。
何もかもがシュウで、あふれそうでもう離れたくないと思った。
「二人でずっといようか。もう、ケイの苗字は神崎じゃなくなっちゃうけど、いい?」
言い方が、シュウらしいと思った。なにそれ、と笑った。頬が熱くなって、じんわりと足元がぼやけた。
「ケイ。泣いてるよ。」
今日のシュウは嬉しそうにケラケラ笑う。予想外に泣けてきて、少しむくれた。
外は寒くて、風が強くて、けれど温かくて。
ケイは泣いた。
うれしくて、けど、もう本当に、完璧に、ハルタと別れ別れになってしまうことが悲しくて。
そしてそれを今一番に望んでいるのだということに、驚いて。
シュウと知り合って、5回目冬だった。
ハルタのことを思い出すのは、そして泣くのは、今日で終わり。
♦
シュウとは研修医になる前に結婚したので、それからは忙しく、めまぐるしく時は流れた。ケイは医学部に入学した当初から、小児科に、と進路を決めていたから、研修でも小児科を重点的に回った。シュウは救急医になる道を選んだ。
毎日は、音楽にのって踊るように、時には走るように。息が切れそうになって、倒れてしまいたいと思う日があって。手を取り合って、認められない日があって、それでも離れなかった。夢ににじんだ涙なら、どれだけ落としても構わないと、歩いてでも前を見た。
2年が過ぎた。
「ケイが小学校時代を過ごしたところで、働かないか。」
そう言うだしたのは、まっすぐにケイを見たシュウだった。
なんでと聞こうとは思わなかった。ケイがあの土地を嫌っていることは、シュウにはさんざん話したし、シュウが理由もなく嫌がることをするとは思えなかったからだ。
「ケイはさ、あそこが嫌いっていったよね。」
淡々と語り始めたシュウの目は、目的をもってまっすぐに、深かった。
医師が足りないところに行きたい。
意見はそれだけ。
確かに、私が住んでいた地域は過疎化に高齢化が進み、医師不足は言うまでもない深刻な問題だった。喜怒哀楽の激しいシュウは、正義感も持ち合わせていたし、決めた道は踏み外さない。
ああ。と思った。
もう何を言っても、シュウと一緒にあそこに戻るんだなと、胸の中で悟って、ふっと声がこぼれた。
「行くよ、大丈夫、私ももう子供じゃないんだよ。」
少し不安そうにケイの顔を見たシュウは、その言葉が本心だと気づき、大きく笑って見せた。彼のこの笑顔が見れたらいい。忙しさの中に生まれる幸せで、生きていける。
ケイは、強くなった。
「頑張れ。」
春のかぜが吹いて、強く吹いて。
ケイにそれは届かなかった。もう、届かなかった。
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