海に落ちる
進藤翼
海に落ちる
その人を見かけたのはチェーンのコーヒーショップだった。カウンター席で背中を丸め、注文したらしいアイスコーヒーにガムシロップを二つ注ぎ、氷をかちゃかちゃいわせながらストローでその中身をかき混ぜていた。私はその左隣に座ってホットラテをテーブルに置いている。熱すぎて飲めず、冷めるのを待っていた。
お昼を過ぎたお店はいくつか空席があったものの、おおむね賑わっていた。どのテーブルからでも笑い声が聞こえている。窓際に並んだカウンター席はその賑わいから外れて、それぞれが自分の思うままに過ごしていた。
ところが彼の座る席だけ、その周囲とはなにかが違っていた。少しばかりその原因を考えると、案外早く答えがわかった。空気の輪郭が違うのだった。ノートを広げて勉強をしている学生風の男性も、雑誌をめくっている若い女性も、まとっている空気はきちんと周りのそれと馴染んでいた。けれども彼だけ、うまく溶け込めずにいるような感じがあった。それは、コーヒーに最後まで溶け切らずカップに残ったままになった砂糖のようだった。
彼はコーヒーをすすりながらなにをするでもなく、正面のガラス窓から店の外を眺めているだけだった。ときおり思い出したようにまたグラスの中身をかき混ぜて、そのたびに氷が音を立てた。
しわのないスーツを着ていた。どこのブランドかはわからないけど、高いものだとわかるものだった。指は一本一本が長く、手の甲に浮いている血管も太く力強さを感じさせる。きれいな鼻筋をしていた。すっと一本の線が流れるように伸びている。左のほほにほくろがある。形のよい耳をしていて、その付け根からあごにかけてのラインも美しかった。
しかし何よりも私がひきつけられたのは目だった。窓の向こうを見ているその目にはなにも映っておらず、かといって物思いにふけるようなわけでもなく、そう、ただ目をひらいているだけだった。それはたとえるならまだ誰にも見つかっていない星のような目だ。
そのことに気づいたとき私はなぜ彼が気になったのかわかった。その目のことは、よく知っていたからだ。
空いていた彼の右隣の席に大柄な客が座ると、彼はそそくさと散らばっていたガムシロップの容器やおしぼりを自分のほうに寄せ、丸まっていた背中をさらに丸めた。
大柄な客はそのことに気づきもせず、大きく肘を広げてカバンから取り出した書類を眺め始めた。
ずっと同じページを開いていた文庫本をしまって、
「あの……」
私は声をかけた。
彼は私のほうを向いて少しだけ驚いた表情をして、「そうか、僕だけじゃなかったんだな」と言った。そしてそれで十分だった。
夢の中で彼は深い海を泳いでいる。海の中には魚もサンゴもなく、遠くまで黒みがかった青が続くばかりだった。でも彼の周囲だけは奇妙に明るくて彼のことはよく見えた。彼は重力を感じさせないような軽やかな動きを私に披露して、何度も宙返りをした。着地するたびに海底の砂が高く舞い上がった。細かい砂粒はわずかに差し込む光を浴びてその身を輝かせ、彼のことを覆い隠した。
夢の最後で、彼は私に向かって右手を伸ばした。それは彼がいつも私を呼ぶときにする、「こっちにおいで」という手招きだった。
でもそのときに限って彼が見えない。舞い上がった砂が彼を隠しているからだ。だから私は彼がどんな表情をして私を呼んでいるのかわからなかった。
私たちの間に言葉は不要だった。連れだってコーヒーショップを出ると、そのままホテルに入り身体を重ねた。それはお互いの隙間をようやく埋められた喜びに溢れていた。
行為のあと、彼は私の目を見て、
「森の中で誰よりも美しく鳴く小鳥のような目だね」
と言った。
それからすぐにいっしょの部屋で過ごすようになった。そこにはあたたかい秋の午後、毛布にくるまって眠るような安心感があった。
白い本棚にはそれぞれが持ってきた本が並んでいる。その上のほうにあるフクロウの写真集や、天体の本などは私のもので、下にある海外の作家や昆虫について書かれた本は彼のものだった。
「アリとハチっていうのは同じ仲間で、彼らは巣をつくり、ひとつの社会を形成して生活していくんだ。人間みたいなやつらなんだよ」
「どうしてそんな本読むの? 私たちには関係のないことなのに」
「それでも、切っても切れないものはあるさ。あ、ご覧、また庭にいつもの野良がきたよ」
庭は彼が手入れをしているおかげで、それなりに見栄えした。小さな鳥や昆虫だけでなく、こうして野良もよく訪れる。野良はいつもひとりでやってくる。それも、とても堂々としてだ。低姿勢でむっつりとしたよく見る類の野良ではない。脚の一本一本を置く動きやそれに伴ってしなやかにうねる腰、伸びる尻尾、身体全体から自信が感じられた。またその表情も立派なものだ。この世のすべてを知っているといわんばかりの得意げな顔をしている。その野良から放たれる圧倒的な力は私を感心させるばかりだった。
「なにかあげられるもの、あったかな」
私は台所へ向かったけれど、探している間に野良はどこかへいってしまった。立ち去る姿さえ、貫禄があった。
「ねえ」
と彼に声をかけられる。ソファに座った彼が手をこちらに伸ばして、親指以外の四本指を繰り返し折り曲げていた。それは私を呼ぶときに彼が使う仕草だ。「おいで」と、私を呼んでいる。手招きをされると私はたちまち嬉しくなって、いつもすぐに彼のところへ向かうのだった。
彼はいつもソファの右側に座る。左側が、私の場所だ。腰をおろすなり彼に肩を抱かれた。強いけれど痛くないほどの力だった。その長い指は、私の心をも捉えて離さない。
「サンテグジュペリは?」
彼は反対の手で本棚を指さしていた。その先には、『人間の土地』と書かれた背表紙が見えた。
「夜間飛行なら」
「星の王子さまは?」
「ああ、ウサギが大事なことを教えてくれるやつね」
「違うよ、キツネだ。でも僕が言いたいのはそこじゃない。主人公と王子様が初めて会ったとき、王子さまは彼の描いた絵を一目見てすぐになにを描いたのか当てたろ?」
「蛇に飲み込まれたゾウだっけ」
「そう。僕はね、君と出会ったとき、そのときの主人公の気持ちだったよ」
私は必死でそこがどんな場面だったか思い出そうとするけれど、ずいぶん前のことで、とうとう思い出せなかった。けれど彼が笑っていたから、素敵なシーンなのだろう。
「じゃあ私はあなたにとっての王子さまってことね」
「そう言われると語弊があるな」
今度は困ったように、彼は笑ったのだった。
ジグソーパズルの最後のひとかけらを見つけられた今、私にとって怖いものはなにひとつしてなかった。
彼が交通事故で亡くなってから、毎夜夢に彼が現れるようになった。
いつも夢は同じところで終わる。私は彼のもとに戻らなければならない。なぜなら、彼が私を呼んでいるからだ。
遊泳禁止の看板と、ロープを張っただけの簡単な立ち入り制限なんて、あってないようなものだ。
この先に彼がいるのだと私はロープを超えたけれど、砂浜には誰の足跡もついていなかった。
夕暮れの海は穏やかだった。何もかもを飲み込むほど大きいのに、それを威張ることなく、むしろ気を遣うかのようにひっそりと、波の音だけを鳴らしていた。遠くのほうで太陽が沈もうとしている。海が橙色に染まっていた。
靴を脱いで踏む砂浜の砂はちょうどよい熱を帯びていて、私の足の裏を心地よく刺激した。
砂浜には様々なものが埋まっている。流木、タイヤ、片方のくつした、破れた浮き輪、ペットボトル、ひからびたヒトデ、ビニール袋。私はそれらのひとつひとつを眺め、そこに物語を想像する。彼らはどのようにして、ここに来たのか。それを考えると、ここにある全てのものが輝きを取り戻すように思えた。
波は静かに、私の足首を襲う。波が引いても大小様々な大きさの泡が残り、でもすぐに割れていった。私はその波の引いたほうへ歩いていく。ペトリと足跡を残しても、すぐに新しい波が来て、私がいたという形跡を消していった。
そして海はあっという間に私の膝を、下半身を、胸をのみこんでいった。
夜が来た。海は闇を混ぜて、私を沖まで運んでいく。波が生じるたび、私の耳に海水が出たり入ったりをして、感覚を鈍らせていった。
夜の海は想像していたより優しかった。高波を立てず、底に引きずり込もうともせず、ただ静かに私の体力が尽きるのを待っている。
しかし私はこれほども恐怖していなかった。もうすぐ彼に会うことができるというのに、怖がる必要なんてどこにもない。
空に月が浮かんでいた。手を伸ばせば触れそうなほど近く、巨大だった。街灯がないせいかいつもよりも明るく見える。その身を白く輝かせながら、月は何も言わず私のことを見ていた。
「あなたはずっと昔から、私のような人を見てきたはず。そのときあなたはいつも何を思っているの?」
言葉にしたつもりだったけれど、口がうまく動かなかった。寒さで口が凍りついてしまっていた。
「哀れだとか愚かだとか、そういうことを思ったのでしょう。でもあなたにこの気持ちはわからない。だってあなたは恋をしたことがないから」
だから、と言おうとして、口の中に海水が入り込んできた。時間は近い。もうすぐ彼のところへ行ける。
「だからあなたに何かを言う権利なんてない。ただ黙って私のことを認めていれさえすればそれでいい。私は間違ってなんかない。間違ってない」
音がなくなった。くっきりとしていた月の輪郭がぼやけるのと同時に、感じるその明るさが薄らいでいった。ゆっくりと私の身体は落ちていく。
海中にも激しさはなかった。ひどく緩慢とした流れだけがあって、それはむしろ私に安らぎを与えた。ときおりどこからが泡がのぼってきて、私を通り過ぎ、海面へと向かっていった。
落ちていく時間が緩やかだ。それに、あたたかくもある。なんて心地の良いことだ。夢を見ているような気分だった。
やがてなにも見えなくなる。それは光がなくなったからなのか私が目をとじたからなのか判別がつかなかった。でもそんなのはどうでもよくて、私にとって大切なことは、この先に彼がいるということだった。
彼は深い海を泳いでいる。海の中には魚もサンゴもなく、遠くまで黒みがかった青が続くばかりだった。でも彼の周囲だけは奇妙に明るくて彼のことはよく見えた。彼は重力を感じさせないような軽やかな動きを私に披露して、何度も宙返りをした。着地するたびに海底の砂が高く舞い上がった。細かい砂粒はわずかに差し込む光を浴びてその身を輝かせ、彼のことを覆い隠した。
彼は私に向かって右手を伸ばした。それは彼がいつも私を呼ぶにする、おいでという行為だった。
でもそのときに限って彼の顔が見えない。舞い上がった砂が彼を隠しているからだ。だから私は彼がどんな表情をしているのかわからなかった。
私は彼へ近づこうとする。足を動かし、手を動かす。舞い上がった砂をかき分けて、彼の右手をつかみ、その表情を見ようとする。
彼は私を手招きなどしていなかった。伸ばした右手を左右に振っていた。
そして彼は、困ったように笑っていた。
私は彼を抱きしめようとしたけれど、大きな波が起きて私たちを引き離そうとする。つかんだ右腕も剥がされてしまった。私は彼の名前を呼ぶ。何度でも呼ぶ。でも口からは泡が出るばかりで言葉にならない。彼は黙ってその場に立っているだけだ。でも、笑っていた。
距離が開いて小さくなっていく彼を見ながら、でもその表情に安心した私は意識を手放した。
気がつくと、砂浜だった。髪の毛も衣服も濡れていた。けれど寒気はなかった。しっかりと身体に血液が巡り、温度をもっている。
思わず立ち上がる。現実だった。波のぎりぎり届かないところに靴が揃えられたまま置かれていた。私は戸惑いながらも、その靴をはいた。そのとき、くつしたが片方だけなくなっていることに気づいた。
私は砂浜を歩きだす。穏やかな波だった。沖でも浅瀬でも、波はおとなしい。
彼の手は、私を呼んでいなかった。伸ばした手はさよならと言っているようにも、こっちに来てはいけないと忠告しているようにも見えた。
どういうことなのかは、まだよく整理ができない。でも何か不思議な力が働いて、今私がこうしているのだとしたら、それは彼のおかげということなんだろう。
月が私を見ていた。間違っているよ、あんた。そう言って優しくほほえんでいた。
そうか、私は間違っていたのか。
星がいくつも瞬いている。街の光があるとまぶしくて見えないだけで、空にはこんなにもたくさんの星がある。きっと見える星のどれもに名前があるはずだ。彼らはそれを誇らしげに光っている。でもどこかに、まだ見つかってない、肩を丸めたように小さな星があるはずだ。私はそれを見つけて、また手招きされるまで、そっと下から眺めていようと思う。
海に落ちる 進藤翼 @shin-D-ou
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