2022.03.31 #1
「ねえ、本当に明日でいいの?」
どれだけあたしが明日を楽しみにしているか知りもしないで、ハルはトーストに乗せた目玉焼きをぺろんと舌を出したみたいにくわえていた。
昔のあたしなら「どうして分かってくれないの?」なんてスネて口を利かなくなるところだけれど、出会って6年も経つと怒ったりすることもない。
丸くなった。いや、どっちかと言えば諦めた気持ちのほうが近い。
「明日じゃイヤなの?」
だから努めて、なんでもない風を装って味噌汁を飲みながら尋ねる。
トーストに味噌汁。よく考えればちぐはぐな取り合わせだけれど、それが我が家のルール。ちぐはぐなあたしたちらしいなんて言えば聞こえはいいけれど、実のところは味噌汁の方が遙かに安上がりだから。
お金は大切だ。明日からお財布をひとつにして生きていくワケだから、切り詰めるところはしっかり切り詰めたい。
「だって記念日になるんだよ? それが4月1日なんて」
「ウソみたいって?」
「そう!」
ハルは駄々をこねる小学生の女の子みたいに眉を曲げていた。
自他共に認めるリアリストのあたしと違って、ハルの脳内はその名の通り常春だ。ぽかぽか陽気かスギ花粉のようにふわふわと漂っては、世間のしょうもないウソやくだらない世間体に振り回されている。
この間「ワクチンって大丈夫かな?」なんて怯えながら話してきたときは、さすがのあたしもブチギレた。集めに集めた理論と正論、最後は感情論で殴り倒したのはハルの名誉のためにも黙っておいてあげている。
「じゃあハルはいつがいいの?」
「えー。いつって言われるとなあ……」
そして、これである。
ハルの優柔不断は出会った6年前から変わらない。むしろ余計にひどくなっている。初対面ではあんなに頼れるお姉さんだったのに、一皮剥けばこのザマだ。だらしのない、今年31歳になる女児がいる。
晩ご飯何が食べたいか聞くと「なんでもいい」なんて言うくせに、いざパスタを作ろうとすると「他のものがいい」なんて駄々をこねるのは二度三度じゃない。
あたしはあんたのお母さんか。
「希望がないなら4月1日。ウソみたいな出逢いだったんだしいいじゃん」
「しおちゃんはそれでいいの? ウソみたいでも」
「あたしはウソだと思わない」
言うと、ハルは口をぽかんとあけて目を潤ませていた。途端「しおちゃ~ん」なんて、猫型ロボットに泣きつくメガネの少年みたいな声を上げながら、ちゃぶ台の向こうからすり寄ってくる。
あたしの婚約者、支倉遙香はすっかり31歳児だ。
「食べてる時に抱きつかないでって言ったよね」
「しおちゃんクール! だがそこがいい!」
「そろそろオトナになってよ」
なんてつれないフリをしながらも、あたしは心のどこかでこの温もりを求めている。
本当はあたしの方こそ、甘えられたいコドモだ。だけど、それを口にできない、したくないあたしの気持ちを汲んで、ハルは女児をやってくれている。
きっと、ハルのほうが遙かにオトナなのだ。8年の差は埋められない。
どこまでいってもあたしはハルに追いつけないのかもしれない。
「ああッ、時間ヤバい! ごちそうさま!」
そして、ドタバタとやかましい一日が始まる。
令和4年、3月31日。
それは学生最後の日にして、あたしが母さんの名字――村瀬――でいる最後の日。
*
支倉遙香は、息せき切って池袋駅徒歩数分のオフィスに飛び込んだ。時刻はギリギリだ。
遙香の仕事である水商売――飲料水の訪問販売――は、その仕事柄テレワークも時差通勤も無縁だったが、ご時世に反して以前よりも売上を伸ばしていた。
理由としては簡単だ。おうち時間が増えれば、飲料水の需要も増える。飲み水ばかりか料理や酒の割材と、業績も契約者数も右肩上がりだ。
ついで、お年寄りや自宅療養者向けの買い物代行事業も開始したことで、きららウォーターのバンは都内を所狭しと走り回っている。
だが、現在。遙香が車を飛ばすことはない。
「……以上、個別宅配事業は順調に契約ドライバーを増やしているところです。弊社の強みである配達事業に相乗りすることで輸送コストを大幅に抑え、新鮮な野菜をその日のうちにお届けできるようになります」
きららウォーター池袋支店会議室で、遙香は説明を終えた。
商談の相手は、産地直送の有機野菜を販売するアグリビジネスのベンチャー企業だ。水商売と買い物代行のノウハウを生かし、農家からの納入と契約者への配達を無在庫で行う新事業のプレゼンである。
今回の意中の相手、ベンチャー代表の女性はキラキラした目でレジュメと遙香の顔を往復しながら大きく頷いていた。
好感触だ。思わず顔がほころびそうになる。今すぐにでも商談の返事が聞きたいけれど、急かしてはいけない。しれっと、それでいてにこやかに遙香は尋ねる。
「いかがでしょう?」
「いや、びっくりしました。ここまで考えてくださったなんて。このスキームは支倉さんがお考えになったんですか?」
顧客が褒めてくれた。苦労が報われた。もっと褒めてほしい。嬉しいから。だけれど立場上、オトナにならなければいけない。本当は「ええ私が考えました、イチから!」と言いたいところをグッとこらえ、遙香は周囲に視線をやる。
「いえいえ、営業部全体です!」
「なるほど……。やっぱりきららさんに頼んで正解だったかもしれません」
荷物をまとめ、社長が立ち上がった。さすがにフットワークが軽いベンチャーと言っても。スムーズに契約締結とはいかない。これから会社に戻って社内で調整するのだろう。
ぜひいい感じで調整してほしい。遙香は営業スマイルなどではない本物のほくほく顔で、社長が乗り込んだタクシーが見えなくなるまで深いお辞儀で見送った。
この数年のうちに、遙香は水商売の配達バンを降りることになった。ご時世を読んで買い物代行事業を立ち上げた功績と、ドライバーを契約社員に切り替えたことで、プロパー社員はデスクワーク中心になったからだ。
遙香の今の肩書きは、営業部企画室長。部下2名を従える立場に出世したのである。給料はさほど変わらず、責任だけが増えたが。
いつものように会議後のいがらっぽい喉を白湯で鎮めていたところで、デスク上の内線が音を立てた。ナンバーディスプレイに映る文字列から、相手が誰かはすぐに分かる。
「はいはい、何? 神崎さん」
『パイセン暇っすか?』
時計をちらりと見て、スケジュールを確認する。
今日は朝イチのプレゼン以外、珍しく仕事はない。それに室長ともなれば、何かと理由はつけられる。責任が増えた分、抜ける時に手を抜くのは上長の権利だ。
「営業? どこ行くの?」
『いつもの中野区ルートっす。話聞いてほしいんすけど。蓮華ヶ丘で!』
やれやれ。部下ではないけれど後輩の頼みなら仕方がない。
「それは大事な商談だね。私が行った方がいい?」
『商談とかウケる! 結衣パイセンと茶飲むだけっすよ?』
「うんうん、任せて! 行く行く!」
あの神崎まどかが頼んできた、これは仕方がないことなんだ。
そんな風に言い訳をつきながら、遙香はホワイトボードの自分の名前の隣に、「外回り」「直帰」と書き込んだ。部下以外にも聞こえるよう、なるべく大げさに大ウソをつきながら。
そして、ハルはすぐさま荷物をまとめて、機嫌良くオフィスを立ち去った。
もちろん、残された2名の部下は真相をなんとなく知っている。「分かりやすい人でよかったよね」というのが、部下の共通認識だった。
*
「学生時代最後の日に会おう」なんてロマンチックなことを言い出したのは両方で、ディズニー映画の王子様とお姫様の掛け合いみたいに「私も同じこと考えてた」と言い合った。
彼女とは、あのクリスマスの日にハッキリと一線を引いた。
それでも一緒にいるのは、どうしようもなく気が合うからだ。
「まだちょっと冷えるね」
なんて、しれっと背後から聞こえた声にあたしは振り向いて、「今日はまたすごい格好だね」なんて呆れ半分の笑い声を上げた。
彼女――日比谷優姫は高校からの仲。大学も学部こそ違うけれど、どちらから言い出すでもなく連れ立ったり、もしくは離れたりしている。
会いたいタイミングも、距離を置きたいタイミングも変わらない。もちろん好きな食べ物は違うし、ファッションだって合わせたりしない。カラオケの十八番も将来の就職先も何もかも違うけれど、その違いすらも楽しめる。
「最近、コスイベ全然行けてなくてー」
残念そうに肩を落とす優姫の趣味は、コスプレだ。あの手のイベントは軒並み中止や入場制限に追い込まれているらしく、彼女のような趣味人は成果をお披露目する機会が限られている。
そこで優姫が目をつけたのが、私服をコスプレにしてしまうことだった。初めてメイド服姿を見た頃とは比べものにならないほど垢抜けた――というかウィッグとカラコンでほぼ別人――優姫の身を、いかにもSFですというような光沢素材が包み込んでいる。首にはずいぶん大きなヘッドフォン。カラコンも不思議な色合いだ。
ただ不思議と似合っている。センスはいい。
「一瞬誰かと思った」
「日比谷優姫です」
「これはこれはご丁寧に。村瀬詩織です」
「しおちゃんって呼んでいい?」
「その服、カッコいいじゃん」
「あ、話逸らした?」
「へえー……。この生地の感じ、すごい……」
「でしょ。いまサイバーパンク来てるから!」
優姫の言う「来てる」が、どの層に来てるのかなんて、あたしには一生かかっても分からないし、分かろうとも思わない。だけれど、優姫はいっこうに理解しようとしないあたしを気にしない。
ある意味、どうでもいいのだ。お互いにお互いをなんとも思っていない。さすがに不潔な格好で隣に立たれたりすると思うところはあるけれど、それ以外なら構わない。
束縛されたくないあたしには、優姫くらいの温度感と距離感がちょうどいい。お互いに都合がいいからだ。
だから彼女はきっと、一生モノの唯一の親友になる。そうありたい。
なんて思っているのは、あたしの方だけかもしれないけれど。
「どこ行く?」
まったく同じことを言い合いながら、蓮華ヶ丘時代に足繁く通ったサンシャイン通りを目指して自然と足が動き出す。
別にどこへ行きたいワケでもない。ただ目的なく歩く。その間も会話は絶えることはないけれど、中身なんてない適当なことばかり。お互いの現状の話だとか、何度となくコスり倒したハルのコスプレエピソード。瀬名先生から届いた年賀状の話、そして、実は未だに神崎まどかの暴挙を根に持っている話をしたり。
ボケて、ツッコまれて、笑って。「わかる」なんて言い合って。気づいた時には、サンシャイン通りの端っこまで出てしまった。ホントに一瞬みたいに感じられて、いよいよ目的地を決めようなんて話になる。よく考えればこの流れも昔から変わらない。
直後「新刊が出たみたい」とはしゃぐ優姫に連れられ、何度となく通った乙女ロードへ足を向けた。
まあ、あたしは別に興味ない。けど、優姫が薦めるから仕方なく。
薄い本やらコスプレ用品の買い物に付き合って、あたしたちは結局いつものマクドナルドに落ち着いた。春休みで珍しくひとけの多い池袋の街で、入れそうな場所がここしかなかったからだ。
高い椅子に座って、歩き疲れた足をぷらぷらさせていると優姫が先ほどまでとは違う口ぶりで話し出した。
「結局、留学やめることにしたよ」
優姫が留学を考えていることは2年前から聞いていた。海外でコスプレ文化を広めるべく、語学やら何やらと勉強したいという話だ。その夢が潰えた理由は考えるまでもない。
あたしたちの大学生活の後半2年間は虚無だ。肩から上の姿しか見たことのない教授なんて何人もいる。
ただ、優姫は――これは本当に最近知ったことだけれど――かなり、やんごとなき家系だ。
「就職どうするの?」
「まあ、うん。ちょうど秘書課が空いてるらしくて。いちおう、職場訪問もしてね。『変な人が多いんだよ~』っていちばん変な人に言われた」
「変?」
「なんかふわふわしてるハーフの人。仕事の話より、飼ってるウサギがカワイイって話のほうが多かったくらい」
クセが強すぎる。いや、そんな話じゃなくて。
「優姫、秘書検定とか持ってたっけ?」
「その辺はほら」
優姫は親指を握るジェスチャーとともに力なく笑って、ため息をついた。
日比谷優姫。その名から分かるように、彼女は日本を代表する一流商社・日比谷商事の関係者だ。聞くところによると伯母が現社長を務めており、優姫の父親も関連会社のトップにある。
なんとなく察しはついていたけれど、聞いた時は驚いた。まさかそこまで血筋が近いなんて。
正直に言えば、あんなに精神を消耗する就活をしないで済むのはうらやましい。だけれど、日比谷の人間には日比谷の人間なりの想像し得ない苦労がある気がする。かえって胃が痛そう。
「やっぱ微妙な気持ちになるもん?」
「微妙だって……。コネ丸出しじゃない、名前が名前だし……」
「偽名とかで入社できないの?」
「村瀬優姫って名乗っていい?」
ハッ、なんて乾いた笑いが出た。
ただ、なんとなく切り出せなかった話に助け船を出されたような気がして。
「なら今すぐ籍入れなきゃね。明日、村瀬がひとり減るから」
「えっ!? 明日結婚するの!?」
本気で驚いた優姫の声が、店内に反響していた。おかしな格好をしているところまで含めて、注目が集まっている。視線が痛い。
静かにして、と促すべく声のトーンを落として、トレーに撒いたポテトを摘まみながら教えてあげた。
「学生の仕事は勉強だ、って母さんに言われてさ。自分は学生結婚してあたし生んでるくせに」
「だからって4月1日付けで結婚する!?」
「え? そんな変?」
「変って程じゃないけど……」
なんて言いながらも、優姫の表情は明らかに「お前はおかしい」と語っていた。
そんなにおかしいことなのだろうか。もしおかしいことだったとすれば、ハルがあんなに優柔不断になっていたのも頷ける。
あれ? あたし常識ないのか?
「待って。詩織のトコの入社式っていつだっけ?」
「明日だけど……」
優姫と違ってコネはないけれど、あたしはあたしで就活をどうにか終えていた。第一志望だった水道橋の出版社には入れなかったけれど、そことも取引のある編プロにどうにか引っかかったのだ。
要は明日、あたしに配られる名刺には編集者・支倉詩織と書かれることになるはず。
「入社式のあと、書類書くでしょ? 契約書とか、給与口座とか。あの名義どうするの?」
「支倉詩織って書くだけでよくない?」
「会社側にそれ伝えてる?」
「あ」
そこまで言われないと気がつかなかった。
就職先からのメールは毎回、「村瀬様」で届いている。内定式代わりに送られてきた資料も、村瀬様だ。必然、会社は村瀬詩織が入社するものだと諸々の準備をしているはず。
「住民票の書き換えは? 免許証や保険証も。あと、銀行口座の更新も必要だよ?」
何ひとつ、やっていなかった。
とにかく4月1日に籍を入れる。村瀬から名字を変える。そのふたつしか頭になかったのだった。
どうしよう。何から手をつければいい。あと一日しかないのに、こんなところでポテトを摘まんでいていいのか? あたしは。
「え、もしかして何も考えてなかったの?」
「ヤバい……どうしよう……!」
口から出た言葉がバカみたいに震えていた。優姫は「言わんこっちゃない」みたいな顔をしながら、即座にスマホで検索を始める。
一方のあたしも何か調べようとして、指先が動かない。何を調べればいいのかまったく分からなくて、長年こびりついたクセのままにハルのLINE画面を開く。
だけど、ハルには相談できない。
あんなにクールに明日入籍と言った手前、どう伝えればいいのか。ていうか伝えたらハルに絶対呆れられる。「オトナです」みたいな顔して振る舞ってるコドモだってバレてしまう。
優姫が口を開くのを待っていると、「うーん」と唸る声がした。
「事情を説明すれば、まともな会社なら対応してくれるかなあ」
「だ、だよね?」
「だけど、会社にはまともなヤツじゃないって思われるかもよ? 入社式で名字変わってるなんて前代未聞だし」
「あ、あたしが前例作ればよくない?」
「試用期間にそんな冒険して大丈夫?」
それはその通りかもしれない。もちろん仕事は真面目にやるけれど、会社の印象はマイナススタートになりかねないからだ。
「じゃあ、どうする……?」
「入籍を延ばすとか?」
「それはイヤ! もう決めたし!」
「なら別姓は? 村瀬のまま」
「それも……」
「イヤなんだ? どうして?」
言いたくはないけれど、言わなきゃいけない雰囲気だ。というより、ちゃんとアドバイスをくれる優姫にウソはつきたくない。
「名字変わったほうが、結婚した感あるから……」
優姫は鼻で笑った。この野郎。
「いいじゃん別に! 名字変えたいのそんなおかしい!?」
「私は何も言ってないよ?」
「言ってるも同じじゃん!? バカにしたでしょ!」
「バカにはしてないよ~。かわいいなって思っただけ」
ダメだ、完璧に手玉に取られている。落ち着かないと、優姫にすらコドモだってバレてしまう。
「でも、方法がないワケじゃないよ?」
「何!?」
くつくつ笑う優姫に詰め寄って、あたしは吠えた。
「
優姫はどこかへ電話し始めた。
もう恥はかきすてだ。明日、支倉詩織になれるならなんでもいい。
あたしは深々と頭を下げた。真っ赤になった顔をこれ以上、優姫に晒すワケにはいかないから。
誰が聖夜に笑うのか パラダイス農家 @paradice_nouka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。誰が聖夜に笑うのかの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます