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矢口 水晶

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 男が死んでいると通報を受けた時、モーリスは夜勤を終える間際だった。早朝の街は睫毛が凍りつきそうなほどの冷え込みで、朝日がマンハッタンのビル群を青白く浮かび上がらせていた。

 男の死体が見つかったのは地下鉄を結ぶ連絡通路の一角だった。下水の臭いがはびこり、落書きとゴミだらけのその場所で、男はうずくまるような格好で倒れていた。男の顔は赤黒く腫れ上がり、片目は潰れ、骨の一部が陥没したひどい有様だった。他殺体であることは誰の目にも明らかだった。

「いつからいたかなんて分かりませんよ。このあたりはよくホームレスが宿代わりに入り込むもんで、寝てると思ったんですよ。え? だから、怪しい奴なんて見てないって……」

 通報した駅員の証言はひどく投げやりで、捜査にはほとんど役立ちそうになかった。寝不足気味のむくんだ彼の顔には、早くこの目障りなものを片づけてくれという態度がありありと浮かんでいた。

 男は顔を失い、着る物はみすぼらしかったものの、誰にもない大きな特徴を持っていた。彼の肌にはまっさらな部分など存在しなかった。

 首筋から胸や背中、足首に至るまで、男の身体にはタトゥーがびっしりと刻み込まれていた。それはまるで服の下にもう一枚服を身につけているような密度で、ダウンタウンをうろつくチンピラもたいがいは身体に彫り物をしているが、ここまでの改造を施す者は珍しかった。

 例えば、右腕。手首から肘の先まで濁った青緑色に染まっているが、よく見ると微細な編み目模様が刻み込まれ、それが魚類か爬虫類の鱗を再現していることが分かる。左の足首をぐるりと囲っているのはラテン語による古い詩の一節をデザイン化したものであり、片方の乳首を囲っているのはアフリカの少数民族に伝わる魔除けの紋様だ。首筋では小指大のスズメバチが飛翔し、肩胛骨の上には漢字の『修』の字が刻印されている。他にも、ひび割れのように広がる蔦模様、プロレス団体のシンボルマーク、瞳を象った紋章……

 ひしめき合うタトゥーの群は、さながらアラベスクのように神々しくもあり、同時に死体に群がる蛆虫のようにグロテスクでもあった。男は自らを素材にして何を表現したかったのか、そのためにどれだけの痛みを代償にしたのか、想像すると気がおかしくなりそうだった。

 その中で、最も大きな面積を占めているのが、背中全体に広がる炎だった。

 微細に彫りこまれた黒炎の波模様は男を抱きすくめるように広がり、彼が死んだ今もなお、残された肉体を焼き尽くそうと怒り狂っている。そして背中を丸めるような形で横たわる彼は、猛火に蹂躙されて悶え苦しんでいるようだった。もしかしたら、彼は殴られて死んだのではなく、炎のタトゥーに焼き殺されたのかもしれない。

「イカれてるぜ」相棒は男の衣服をまくり上げ、独白するように言った。モーリスは何も答えなかった。

 現場を殺人課の刑事に引き渡し、同僚への引き継ぎを終えた頃、夜明けのまっさらな空気はきれいに拭い取られていた。地上はオフィスへ向かう会社員や肉体労働者で溢れ、いつもの素っ気ないNYの顔を見せている。ビルの隙間から差し込む朝日がモーリスのむくんだ目を刺した。

 顔も住所も持たない男が一人死んだところで、世間はちっとも気にしていなかった。バスのアナウンスは淡々と行き先を告げているし、となりに乗り合わせた老人が抱えるラジオは、遠い戦地での出来事を報じている。モーリスは自分がひどくちっぽけで孤独に思えた。

 アパートに帰宅したものの、そのままバスルームにも寝室にも行く気になれなかった。とりあえず煙草を一本吸って、テレビをつけ、すぐに消した。カウチの周りを歩き回り、窓辺のサボテンに水をやった。滴をまとったサボテンの肉はつやつやとして、か細い針を精一杯広げて虚勢を張っている。

 モーリスは壁に向かってサボテンの鉢を叩きつけた。隣人の怒声が壁の向こうであがった。またすぐに静かになった。

 自分が怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも喜んでいるのか、よく分からなかった。それは彼が人生で初めて味わう種類の感情で、手渡された他人の赤ん坊と同じくらい、扱いに困り果てていた。もうどうしようもなかった。

「人生の苦痛って、こういうもんかな……」

 モーリスは黒い土の中に横たわるサボテンに向かってつぶやいた。その姿は、打ち捨てられた死体に似ていた。




  *  *  *




「どこかの哲学者が言ったらしいけど、人間は人生の苦痛から逃れるために芸術を求めるんだって。だから、俺たちのようなアーティストが必要なのさ」

 酒が入って少し気分が良くなると、ティムは繰り返しそんなことを語った。素面では控えめで口数の少ない彼だったが、饒舌な時に吐き出す言葉はひどく観念的で、何を言わんとしているのか分からないことが多かった。だから仲間たちは彼がおしゃべりになると「またアーティストの独り言が始まった」と顔をしかめて四方へ散ってしまうのだった。

「人生の苦痛くらい知ってる。金がないとか学校が退屈とか、そういうのだ」

 モーリスは言った。ビール臭いげっぷが一緒に漏れた。

「それは苦痛と呼ぶには安すぎる」

「あんたは知ってるっていうの」

「子どもの君よりマシってくらいにはね」

 何だそれ、とモーリスが唇をとがらせると、ティムは情けなさそうに苦笑した。彼が表情を変えると、左顔面に彫られたヘビが可笑しそうに身をよじった。

 ティムは絵を描くタイプのアーティストだった。彼の絵筆は顔料を含ませた電気針であり、カンバスは人間の皮膚だった。

 彫師が練習やファッションとして自身の身体にタトゥーを施すことは珍しくないが、ティムのそれは異常だ。肉付きの薄い肌は全身の隅々まで図形や模様で覆い尽くされ、極彩色に彩られている。その密度は服の下にもう一枚、薄いタイツを身につけているかのようだった。街中を歩く彼の姿は、さながら人界に迷い込んだホラー映画の怪物のようであり、すれ違う人々はたいてい彼を振り返り、あるいは眉をひそめた。

 彼に施されたタトゥーは電気針と目が届く範囲はすべて自分で彫り込んだという。だから、彼自身が一個の芸術作品だった。その密度もさることながら、図形の一つ一つが精密かつ繊細で、例えば首筋に彫られたスズメバチは今にも飛び立ちそうな生命力を宿しているし、足首を取り巻く唐草の輪は小指の爪ほどの葉っぱにも細かな葉脈が走っている。理性を越えて、狂気とも呼べる美しさがあった。だから彼の作品はアウトローたちの間では評判がよく、施術を依頼する者が後を絶たなかった。モーリスもまたその一人だ。

「だから何度も言うけれど、君にはしてあげられない。君には必要のないものだ」

 言って、ティムはクラフト・ビールの瓶をあおった。二人が挟むテーブルの上は食べかけのピザやスナック菓子が散乱し、殺人現場のような様相を呈していた。

「そう言わずにさ、こういう目立たないところに、ちょっとでいいから」

 モーリスは右手首の内側を指さした。未踏の皮膚は裸電球の下で、陶器のように白々としていた。

「ちょっとなんてつもりでやるなら、意味ないじゃないか」

「いいだろ、別に。何か入れてたほうが、かっこいいじゃん」

「嫌いだな、そいういうの」ティムは頭痛をこらえるようにぐりぐりと人差し指でこめかみを押した。

「俺のタトゥーはファッションや見栄のためにあるんじゃないんだけどな」

「あんたがどういうつもりか知らないけど、タトゥーはタトゥーだ。ねえ、入れてよ。あんたのはウケがいいんだ」

「目立たなくていいって言うなら、あれに入れてやろうか」

 急に無言になったモーリスに、ティムはくくっと肩をよじらせるようにして笑った。ちなみに、彼のタトゥーが柔い内腿の皮膚や性器にまで及んでいることをモーリスは知っている。

 十五歳のモーリスにとって、この彫師が唯一心を許せる人間だった。当時のモーリスは母親の再婚相手と折り合いが悪く、窮屈な学校にも居場所を見いだせないでいた。だからダウンタウンのバーや遊戯場をうろつくようになったが、かといって同じような境遇の少年たちとも馴染めなかった。彼らの卑屈な顔に、自分の姿を見るような思いがしたからだ。

 二人は深夜のクラブで知り合った。彼のエキセントリックな姿に惹かれてモーリスから声をかけたのだ。だいぶ歳が離れていたし、好きな音楽や趣味が合うということもなかったが、彼のそばにいると居心地がよくてつるむようになった。ティムも鬱陶しがる風でもなく、弟のようにモーリスをあしらったり甘やかしたりしていた。

 モーリスが気に入っていたのは彼が醸し出す独特の雰囲気だった。彼には森の中でじっと何かを考えているような、誰にも侵しがたい静けさがあった。そして、その中に憂鬱や劣等感を押し隠し、道の端っこを控えめに歩いているような人だった。モーリスが知る大人たち――義父やダウンタウンにたむろするチンピラたちが威張り散らし、虚勢を張っている中で、彼のそういう気弱とも映る姿勢はモーリスを安堵させた。それに、彼の伏し目がちな目や、所在なさげに組まれた指先を見るのも好きだった。

 ティムの仕事場は河口付近の工業地帯にあった。元々建築会社だった古いビルの一部屋を借りて仕事場兼住居として構えていた。近くには大きな造船所があって、昼夜を問わず金属を打つ音が聞こえた。海からは絶えず潮混じりの風が吹きつけてくるものだから、窓は白っぽくくすんでいた。

 部屋の四方には書き殴った図案が張り付けられ、金属ラックには顔料の瓶や工具にも似た施術用の器具が無造作に押し込まれている。コンクリートむき出しの床は蜘蛛の巣のようなひび割れが走り、薄汚れた天井からは黴臭い湿気が染み出していた。決して寝起きするには適切な住環境ではなかったが、モーリスはこの部屋がどこよりも居心地がよかった。

「つまりさ」モーリスはソファから身を乗り出した。

「ティムのタトゥーは現実逃避のためにあるってわけ」

「現実逃避と言われてしまうとな」ティムは困ったように眉尻を下げた。目尻のしわが蛇の腹にまで及んでいた。

「だってそういうことじゃん」

「そういうことかな」

「また増えた?」モーリスはTシャツから伸びるティムの腕を指さした。右腕の鱗模様はさらに密度を増し、左の手の甲に彫られた獅子の横顔には陰影が付加されていた。彼は自身の腕を見下ろして、「うん」と蚊の鳴くような声で言った。はにかんでいるようだった。

「前から思ってたんだけど、痛いのを忘れたくて痛いことをするのは矛盾じゃない?」

「そんなことないよ。むしろ痛みは一番効き目のある鎮痛剤だ」

 そう言いながら、ティムは慈しむように手の甲を撫でた。陰影を与えられた小さな獅子は、今にもぐるぐると喉を鳴らしそうだった。

「それに、忘れるというのとは、ちょっと違うよ。むしろ記録するんだ。タトゥーと一緒に、苦痛を見える形で刻みつけておくんだ。矛盾しているように思えるかもしれないけれど、それが一番いいんだよ」

 はあ、とモーリスは返答ともあくびともつかない声を出した。また訳の分からないことを言い出したな、と思った。

 窓の外はとっくに夜の闇がはびこっていた。はずれかけたカーテンの向こうで、造船所のクレーンが首をもたげている。薄ぼんやりとした造船所のライトが鬼火のようにぽつりぽつりと灯り、クレーンの影に儚げな情緒を添えていた。

「――時々」冷え冷えとした部屋の空気に、ティムの声は湖面に落とした小石のように響いた。

「時々、自分がどうしようもなくなる時があるんだ。どうしようもない気分になって、いてもたってもいられなくなるんだよ」

 手のひらを見つめて彼は言った。手のひらはまだ彫り物の侵食を受けておらず、裸電球の光を受けて青白く輝いていた。

「それってどういうこと?」

「うまく説明できないけど、それは急に来るんだ。バスタブに湯を張っている時とか、雑誌を切り抜いている時とか、髭を剃っている時とかに、ね」

「新聞の勧誘みたいだ」とモーリスが言うと、「そうだね」とティムが笑った。

「そう、新聞の勧誘みたいにそれは急にやってきて、俺をどうしようもない気分にするんだ。怖いとか悲しいとか、腹が立つとかじゃない。足もとに急に大きな穴があいて、そこにゆっくりゆっくり落ちていく感じ。そういう気分なんだ」

 彼がクラフト・ビールを干したタイミングで、モーリスは新しい瓶の栓をあけた。彼が喉を鳴らすのにあわせて、スズメバチの羽がほんのりと染まっていった。

「やっぱり、うまく説明できないな」

「うん。全然意味が分からない」

 モーリスは肩をすくめた。

「つまりあれだろ、授業中に女の子が急に手首切っちゃうやつだ」

「女の子には女の子の事情があるから分からないけど」と、ティムはテーブルの端に両足を投げ出して天井を仰いだ。ピアスで縁取られた耳たぶが、すでに真っ赤になっていた。

「そんな時、自分が彫師でよかったと思う。そういう、どうしようもないって気分は言葉じゃ説明できないけど、タトゥーでなら表現できる。人間って、とりあえず表現したらすっきりする生き物だから。……そうじゃなかったら、俺は今も君と飲んだりしゃべったり、できなかったかもしれない」

 ああ――ティムは嗚咽ともため息ともつかない声を上げて、ソファの背もたれにのしかかるようにして天井を仰いだ。

 だいぶ酔いが回ったのか、そのまま何もしゃべらなくなった。時折つばを飲み込むのに合わせて、とがった喉仏がひくりと動いた。

 モーリスは自らにタトゥーを施すティムを想像してみた。

 深夜、スタンドライトを灯した部屋の中で、彼はごつい万年筆のような電気彫り用のマシンを握っている。息を詰めて自分の腕に編み目模様を彫り込みながら、時々痛みに顔を歪ませ、あるいは脱力したようにほうっと息を吐く。集中と絶頂を繰り返すその姿は、自慰にふけっているようにも見えた。ただの頭の中の想像なのに、モーリスは見てはいけないものを見てしまったような気がした。

 部屋に漂う冷たい空気を、微熱を伴う二人の吐息が温めていた。ピザの油で濡れたティムの唇が、軟体動物のようにぬめっている。難破船の中に二人だけ取り残されたような、とりわけ寂しい夜だった。

「でもさ」モーリスは干したグラスを置いてティムを見上げた。「タトゥー彫るより、もっといい方法がある」

 言うや否や、モーリスはテーブルを乗り越え、ティムの首筋に噛みついた。色づいたスズメバチが、くぐもった悲鳴を上げた。



「モーリスはきれいな背中をしているね」

 ティムが言った。海から吹きあげる風に乗って、鉄をたたく音が聞こえる。森の奥で、誰かを呼ぶような音だった。

「そうかな」

「うん。なめらかできめが細かいから、きれいに色が乗ると思う。彫師の好きな肌だよ」

 首の付け根の骨にティムの鼻先と唇の温度を感じる。触れあった二人の肌はじっとりと汗ばみ、このままバターのように溶けて混ざり合ってしまいそうだった。

 スタンドライトの貧弱な光が、男の苦痛と狂気に彩られた皮膚をぼんやりと浮き立たせていた。筋肉質という表現からはほど遠い彼の肉体は骨が浮き、筋張り、若々しい艶と張りはすでに遠ざかっていた。けれども、そこに刻まれたタトゥーたちは活き活きとしてモーリスの目と肌を楽しませていた。

 この肌と一体になれたら、どんなにいいだろう。彼と肌を合わせるたびにモーリスはそれを夢見ている。彼のタトゥーの一部になった自分を想像すると、いつにも増して昂揚するのだった。

「さっきあんなに頼んでも彫ってくれないくせに、そういうことは言うんだ」

「それとこれとは別問題さ」

「ティムが俺の背中に彫るとしたら、何がいい?」

 そうだな、と背骨に顔をすり付けられる。伸びかけた髭がざらりと肌を撫でる感触に、背筋が震えた。

「何かきれいなものがいいな。鳥とか星とか……東洋じゃ、ギャングが牡丹や桜の花を彫ったりするらしい。そういうのがいいな」

 何それ、とモーリスは苦笑した。

「そんなの弱そうじゃん。だったら、ティムと同じのにしてよ」

「え」とティムは顔を上げた。

 ティムの身体に彫られたタトゥーはどれも見事なものだったが、その中で最も目を引くのは背中を覆う黒い炎だった。

 背中を抱く炎は何を表現しているのか分からないが、言葉を越えた狂気や気迫めいたものを感じさせた。炎の揺らぎを表現する黒い波模様のひとつひとつが繊細な曲線を描き、同時に暗い生命力のようなものを発散させていた。だからモーリスは彼の背中を抱きしめたり、舌で愛撫したりするのが好きだった。彼の言う人生の苦痛そのものを抱きしめている感じがしてよかった。

「ティムのタトゥーはみんな好きだけど、背中のやつが一番好き。いつかティムに彫ってもらえることになったら、それにしようと思ってる」

 モーリスはそう言ったが、ティムからの返答はなかった。代わりに、うなるような声が聞こえてきた。

 不審に思って振り返ると、彼は顔を伏せるようにして笑っていた。痩せてとがった肩が、小刻みに震えた。

「何がおかしいんだよ」モーリスは顔をしかめた。

「ごめん、そうじゃないんだ」ティムは首を振った。「ただね、こんなの君には似合わないよ。君には似合わない」

 腹に巻き付けられた腕に力がこもる。奇妙な暗号や波模様に彩られた腕に抱きすくめられていると、異界の生物に捕らわれているような錯覚に陥った。

「……これはね、ベトナムから帰ったときに入れたんだ。俺が初めて入れたタトゥーなんだよ」

 一瞬、モーリスは言葉を見失った。

 当時のモーリスはまだ分別もつかない子どもで、現地でのことを生々しく語ってくれる近親者もいなかった。だから、モーリスはあの頃の陰鬱な空気も敗戦の痛みも、何も知らない。大人たち何かにつけて敗戦の記憶と悔恨を子どもたちに知らしめ、同じ苦痛を共有させようとしていたが、やはりモーリスにはテレビの向こう側での出来事以上には実感を持てなかった。そのせいか、彼が本物の経験者だということをすんなりと飲み込めなかった。アニメーションの登場人物が現実にひょっこり現れたような、そういう感覚だった。

「……ティムがベトナムにいたなんて知らなかった」

「だろうね。誰にも言ってないことだから」

 顔は見えないが、彼がまたいつもの情けなさそうな苦笑を浮かべていることが分かった。湿っぽい鼻息が、首筋の産毛を揺らした。

「ベトナムって、どんなところだった?」

 恐る恐る問いかけてみると、「ひどいよ」とティムは苦笑混じりに言った。その声には、どことなく自嘲めいた響きが含まれていた。

「俺が配属された基地のあるところは、ジャングルと痩せた畑ばかりで、他に何もなかった。とにかく暑くてさ、じっとしてるだけでパンツの中が汗でびしょびしょになるんだ。それに何でか知らないが、いつでもどこにいても、肉が焼けるような、つんとした嫌な臭いが漂っているんだ。まあ実際、ちょっとジャングルの中に入ると、黒こげの死体がごろごろしてるんだけど」

「……いっぱい人が死んだ?」

「そりゃあね。死ななきゃ戦争じゃないから」ティムは横たわったまま、器用に肩をすくめた。「敵も味方も、どちらでもない奴も、いっぱい死んだよ」

 ティムは一ミリの隙間も許さないというように、モーリスをきつく抱きしめていた。彼の湿った脇毛と陰毛が、二人の肌の間で張り付きもつれ合っていた。それらは汗と情欲を発散させて、シーツの中をむせかえるような密林に変えていた。

「なあ、モーリス、君は知らないだろう。ああいうところにいると、誰もまともじゃいられないんだよ。いっぱい殺したり殺されたりしてるうちに、頭がねじれてくるんだ。人間を人間と思えなくなるんだよ」

 造船所の音がやけに近かった。重機の軋む音が、夜の底を徘徊している。

「そういうところで、俺はひどいものをたくさん見たよ。一緒に訓練して助け合ってきた仲間が、ベトコンの死体と一緒に記念撮影したり、子どもの前で母親を犯したり、そんなことを平気でやるんだ。そんなことが当たり前になるんだ、あそこじゃ」

「寝物語には向かない話かな」一瞬、夢から覚めたようにティムは言った。モーリスは黙ったままその先を促した。

「……でもね、みんな国に帰ると、自分たちがそんなことをしてきたことなんて、きれいさっぱり忘れてしまうんだよ。とんでもなくひどいことをしてきたのに、誰も話さないし、誰も聞こうともしないんだ。全部悪い夢にしちまうんだぜ……それが何だか嫌だったから、俺はこいつを入れたんだろうね」

 それきり、ティムはふっつりと黙り込んでしまった。もう造船所が鉄を打つ音も聞こえず、本物の静寂が二人を包み込んでいた。

 彼の中では、ベトナムの光景が今も煙を上げて燃え続けている。子どものモーリスには彼の味わった苦痛を理解することはできないが、彼がその中でずっと彷徨っていることは感じ取れた。

 彼のこの手も、誰かを殺したのだろうか。さっきまで自分を喜ばせていたこの腕が、誰かの血で濡れたことがあるのだろうか。そう思うと、ひやりとしたものが胃を通り過ぎていった。

「……ティムも、いろいろあっただろうけどさ」モーリスは何度も唇をなめた。さっきまで声を上げていた喉はからからに乾いて、舌先は思うように動かなかった。

「俺がどうこう言えることじゃないだろうけど……仕方がなかったんじゃないかな」

「仕方がない?」ティムが譫言をつぶやくように言った。「仕方がないって?」 

「だってそうだろ。ティムも、仲間もひどいことをしたかもしれないけどさ、きっとそうしなかったら、まともじゃいられなかったんじゃないかな。戦争ってたぶん、そんなものなんじゃないかな」

 それにさ、とモーリスはつとめて明るい声を出した。

「もう終わったことなんだ。ティムばっかりいつまでも、ぐずぐずしなくてもいいじゃないか。そうだよ、きっと」

「だからあんまり思い詰めるなよ」とモーリスは身をよじり、ティムの鼻先にキスをした。

 人殺しをするティムは想像できないが、それをして傷ついている彼は容易に思い描くことができる。グロテスクな外見に反して、彼が繊細な神経の持ち主であるということを、モーリスはよく理解していた。たとえそれが生き残るためで、誰かの命令だったとしても、彼はひどく自分を責めただろうし、あるいは別の人間がそうしているとき、それを黙って見ている自分のことだって許せないのだ。

 彼はそういう人間だ。モーリスは彼のそういう性質を面倒くさいとも思うが、同時に愛しかった。

 最初は石のように硬かったが、唇をなめたり頬を甘噛みしたりしているうちに、彼は求めに応じてきた。どんなに鬱々としている時でもキスや愛撫を交わしていれば、いずれ気がほぐれる。モーリスはそう思っていた。

 しばらく汗ばんだシーツの中でもつれ合っていたが、不意にモーリスが声を上げた。ティムの手が背後からモーリスの物を強く掴んでいた。

「ティム、痛いって、ティム」モーリスは笑いながら彼の手を引き離そうとした。

 しかし、彼は力を緩めるどころが、根本からねじ切ろうとするように指を食い込ませてくる。じっとりとした焦りがモーリスの背中を流れた。

「本当に痛いんだって。ふざけてんの?」

 懸命に首をひねって、モーリスは背後の男を見た。彼の顔は血の気が引いて、まるで蝋でできているかのように青白かった。

 左腕をねじ上げられて、モーリスはうつ伏せに押し倒された。モーリスの声は枕に吸い込まれて、くぐもった嗚咽にしかならなかった。

 今まで彼と何度も楽しんだが、こんなやり方は初めてだった。首元を押さえつける力が、不穏な予感を告げていた。

「なあ、モーリス、君は知らないだろう」ティムが耳元で囁いた。「彼らはとても味がいいんだ。食っている物が違うせいかな、肉がしっとりしているんだ。とても甘くていいんだよ……」

 いつものティムの声なのに、彼の声だと思えなかった。知らない男のその声は、熱病にかかったようにじっとりと湿り気を帯びていた。

「違う、違うよ。仕方がないなんてこと、ないじゃないか。俺は君に慰められるような人間じゃない。俺も他の連中と同じだ。俺は戦争のどさくさに紛れて、君のような子たちを犯したんだ。何人も何人も何人も……」

 こんな風にさ、と膝で足を割ってティムが押し入ってきた。恐怖で強ばった体内に押し入られても、引きつれるような痛みしか感じなかった。その場からは気怠く甘ったるい空気はとっくに過ぎ去り、凍えるような熱気が支配していた。

 こんなティムは知らない。モーリスの知る彼は気弱で、物静かで、焦れったくなるような愛し方しかしなかったのに。地の底から噴出するような男の感情に、モーリスは慄いた。

「俺はしっかり楽しんだ。みんなと同じように、俺もたっぷり戦争を味わった。あんなに楽しいことなんて、知らなかったんだよ」

 知らなかったんだよ、知らなかったんだよ――彼は譫言のように繰り返し、力任せに腰を打ち付けた。彼の苦痛と狂気に犯されている。モーリスはそんな錯覚を抱いた。

 枕に押しつけられたモーリスの瞼に、ベトナムの光景が浮かび上がった。

 ベトナムの密林は夜の暗闇に包まれている。椰子の木々から染み出す空気は煮詰めたように濃い。その熱気といつ現地のゲリラが襲い来るか分からない緊張にさらされて、兵士の肉体と精神を限界まで磨耗させていた。

 熱病患者のようにさまよい歩く彼の前を、小さな影が横切った。それはぼろぼろの笠を被り、みすぼらしい身なりをした少年だった。近くの村に住む子どもだろう。お使いの帰りか、空っぽの編み籠を抱えていた。まだ脛毛も生えない足は肉付きが薄く、肩幅も小さく、頬の輪郭にはあどけなさが宿っていた。

 彼は「食べ物をあげる」とでも言って優しく少年をおびき寄せただろうか。それとも銃やナイフを見せつけて、脅しつけただろうか。いずれにしても、彼の前では少年は無力で、安易に木陰へと追いつめられ、自由を奪われてしまった。

 少年は涙をためた目をいっぱいに開いて、彼には分からない言葉で許しを請うた。密林の秘密めいたざわめきが彼を高ぶらせ、恐怖と理性から解放した。

 少年はモーリスだった。兵士はもたつきながらベルトを外した末、昂揚を殺した声で言った。「さあ、やってごらん」

 モーリスの口腔を犯す男のやり方は乱暴だった。相手への遠慮も慈愛もない、今この瞬間に暴力を楽しみたいが為のやり方だった。力一杯髪の毛を掴まれ、喉の奥まで塞がれながら、モーリスの意識は次第に遠のいていく――

 ティムの動きが止まった。彼は手足を突っ張らせるようにして低く呻いた。痙攣がモーリスの中にも伝わってきた。

 モーリスは腕を引きはがし、ティムの下から逃げ出した。そのとき、後頭部を彼の鼻先にしたたかに打ちつけて、ベッドから転げ落ちた。彼は「うっ」と声を上げてうずくまった。

 荒い呼吸が寝室に満ちていた。モーリスは床に転がったままティムを見上げた。彼は鼻血のついた手のひらを呆然とした顔で見ている。黒ずんだ血が鼻の穴から止めどなく溢れて、皺だらけのシーツを汚していた。

 逃げなければ。そう思うのに、モーリスはとっさに動くことができなかった。まだ彼が荒々しく律動する感触が、口の中に残っていた。

「……時々」

 ティムは手のひらを見つめて言った。彼の全身はバケツの水をかぶったように汗でぐっしょりと濡れていた。彩色を施された肌はぬらりとした光を帯びて、不気味な軟体生物のようだった。

「時々、思うんだ。俺が彫師じゃなかったら、表現する方法を知らなかったら――」

 とっくに君を殺していたかもしれない。ティムは血塗れの顔を覆って、泣き声とも笑い声ともつかない声を上げた。

 その時、モーリスは肉の焼ける臭いを嗅いだ気がした。




  *  *  *




 以来、モーリスがティムに会うことは二度となかった。彼の仕事場はもちろんのこと、彼と立ち寄ったバーやレストランにも近付く気になれなかった。

 それから間もなくして、モーリスは両親によって田舎にある全寮制の高校に転入させられた。そこでモーリスは憑き物が落ちたように大人しくなった。

 学校の友達は少なかったが、人並みに勉強とスポーツに励み、それなりに苦労して警官になった。そうして今では不良少年だったことなどすっかり忘れた顔をして、駐禁を取り締まったりスリを捕まえたりして日々をやり過ごしていた。

 男を殺した犯人はまだ捕まっていない。防犯カメラも機能していない地下での犯行だ、犯人を見つけだすのは困難だろう。第一、彼が死んだことなど新聞の片隅にちょっと報じられただけで、犯人の逮捕を待ち望む人間もなく、刑事たちも他の事件に追われて捜査に本腰を入れているとは思えなかった。遺体は引き取り手がなく、今も安置所に放置されているとのことだ。

 あの夜のことは悪い夢だと思ってすっかり忘れたつもりだった。かつてティムという彫師の男とつるんでいたことも、彼を本当に愛していたような気がしていたことも、すべてなかったことにした。すべては悪い夢だったのだ、と。

 それなのに、彼の死体が見つかったとたん、どうしようもなくなっている自分がいた。怒りとも悲しみともつかない感情に戸惑い、おろおろとする自分の姿は、ひどく滑稽だった。何ということはない、モーリスも彼と同じで、過去を見捨てて知らんぷりする器用さも狡さも、持ち合わせていなかったのだ。

 夕刻の教会は懐かしい匂いがする。子どもの頃から教会にはろくに通っていなかったのに、そんな風に感じるのだから不思議だった。薄く雲の垂れ込める空は泥のような色に染まり、その下で糸杉の木々がもたれ合うように揺れている。影絵のように黒く切り抜かれた聖堂は、無口な老人の顔を思わせた。

 近頃、モーリスは仕事終わりに教会へ立ち寄り、木陰のベンチに座ってぼんやりすることが多くなった。その寂れたベンチに誰かが座っていたことは一度としてなく、いつもモーリスだけを待っていた。

 まっすぐアパートへ帰る気になれないものの、かといってお祈りする気にもなれない。何にすがればいいのかも分かっていない自分を本当に馬鹿だと思う。そこで煙草を吹かしていると造船所の鉄を打つ音とか、事務所の湿っぽい臭いとか、そんなものばかりが思い浮かんだが、どうしてもやめることができなかった。立ち去る踏ん切りがつかないまま、短くなった煙草を落としてスニーカーの底で踏みつぶした。

「こんにちは」

 ふいに、聖堂から出てきた老女が声をかけてきた。

 老女は灰色の地味なワンピースを着て、薄汚れたエプロンをかけていた。家政婦のような格好をしているが、この教会のシスターだということをモーリスは知っていた。編み目のようなしわに埋もれた目は、真っ黒な小鳩の瞳を思わせた。

「あなた、最近よくここに座っていらっしゃるのね」

 痩せた鶏ガラのような喉なのに、老女の声は少女のように透き通っていた。冷たい風の中で、解れた白髪が揺れた。

「迷惑でした?」

「とんでもない、そうじゃないのよ」

 と、老女は慌てて手を振った。彼女の手は木肌のように荒れていたが、白くて清潔な匂いがしそうだった。

「好きなだけいてくれていいの。あなたがそうしたいのならね」

 そうですか、とだけ返事をして、モーリスは最後の一本に火を点けた。老女はその行為にも特段感情を表さなかった。

 老女はしばらくモーリスの様子をうかがいながら、その場に立ち尽くしていた。エプロンのしわを伸ばしたり、手にしていた布巾を畳んだりしていたが、モーリスが何も話す気がないと分かると立ち去ろうとした。モーリスはその背中に「ねえ、シスター」と声をかけた。

「人を殺した人間は、死んだらどこへ行きますか?」

 老女は白い眉を寄せた。一瞬、彼女は逡巡するように視線を彷徨わせると、

「……その罪が悔い改められることがなければ、しかるべきところへ行くでしょう」

 と答えた。モーリスは「そうですか」とだけ言った。

 よかった。最後の独白は風にかき消され、老女には届かなかった。

 安置所の冷たい穴蔵の中で、彼は安心して地獄の夢を見ているのだろう。そう思うと、モーリスは少しだけ気が楽になった。


〈了〉

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