秘された皇子と幼妻の不器用な求愛ー春宵香ー

藍川竜樹

序章 春宵の出会い

 

 夜の城市は、桃源郷もかくやな花の香気に包まれていた。

 眠たげな桃花が恥じらう乙女めいて灯籠の紅に染まり、月下で微睡む酔客が酒杯の夢にほんのり唇をほころばせる、そんな春の宵。

 芳しい夜気を引き裂くように魂ぎる声が響き渡る。

「ぎゃあああ、化け物っ」

 野太い叫びとともに、〈玄妙観(げんみょうかん)〉と扁額のかかった道門から転がり出たのは、肝試しにとやってきた酔漢たちだ。

「出たっ、口は裂け角が生えていた、物陰から不気味な声をかけてきたっ」

「〈化け物道院〉の噂は本物だ、追ってくる、早く逃げろ逃げろっ」

 酔漢たちは門前で待機した仲間に口々に言うと、後も見ずに逃げていく。

 その背が遠ざかった、しばし後。

 荒れた門内の茂みから、小さな影が一つごそごそと這いだしてきた。

「……誰が、口裂け化け物よ」

 低くつぶやいたのは、美しい少女だった。

 柳の若枝めいたほっそりとした肢体。月に照らされた相貌は白玉のように内からやわらかく輝き、紅の唇はしっとりと濡れた椿の花弁のよう。咲き初めた白梅そのものの可憐さだ。だが。

「百歩譲ってここは〈化け物道院〉。怖がって逃げるのは許すけれど、せめて金目のものはおいていってほしいのだけど」

 紅の唇からこぼれる言葉は、かなりせちがらかった。

『まあまあ、白鈴(びゃくくれい)、落ち着くがよい』

 憤りに肩をふるわす少女に、風のそよぎのような不思議な声がかけられる。

『そなたの頑張りは認めるが、こうして逃げられるのは何人目だ?』

 どこからともなく問いかけてくるのは、傍らに立つ榎の巨木が発する声だった。

『これだけ声をかけて成果がでぬのは、夜に物陰から話しかけるのがよくないのではないか。人とは恐がりな生き物ゆえ』

『あら、ちょいと待ちなよ、榎の古老』

『そうよ、白鈴は花仙とはいっても、私たちの声を聴く他は何もできないのよ?』

 榎の言い分に、他の木々も人には風のざわめきにしか聞こえない声で応じる。

『物陰から話しかけるのがよくないったって、白鈴は仙としてはこんなに無力で小っちゃくて。お前さんが言うように人前に出でもしたらなめられて、誰も言うことを聞いてはくれないよ。それどころか逆に捕まって身ぐるみはがされちまうわよ』

『そうそう、白鈴はこんなに弱っちいのに必死の思いで声をかけたのよ。さっさと逃げだす人間のほうが悪いのよ。肝試しに来たくせに根性がなさすぎるわ。白鈴は見るからに仙としても未熟なのに。馬鹿じゃないの』

「……う。未熟、弱いとはっきり言ってくれてありがとう」

 自分のいたらなさが素晴らしく悔しい。白鈴は、くっ、と唇をかみしめた。

 木々たちが言うように、白鈴は人ではない。花仙、だ。

 この道院に住まう、白梅の花の精である。

 とうに廃院となっているが、玄妙観は若くして逝った娘を偲ぶ花の寺として有名だった。娘を亡くした親たちが美しい花の苗木を寄進して境内に植え、娘たちの幸せな来世を願う、そんなところだったのだ。

 それがいつの頃からか親たちの切ない想いが凝縮し、娘の魄が土には還らず花木に依り、花の精として生まれ変わるようになったのだ。

 といっても白鈴にも、姉にあたる他の花仙たちにも前世とやらの記憶はない。

 このことは〈人〉には秘密だし、新たに別人として生まれ直したというほうが正しい。

 それでも元が人の娘の転生した姿だからか、ここに住まう花仙は人と変わらぬ姿を取る。

 それだけではない。花から生まれた花仙はか弱く見えても仙のはしくれ。人には聞こえない木々の声を聴き、姿を霞のように消して花に依り憑くことができるなど不思議な仙力がつかえる。本体の花木さえ無事なら、食物や水を摂る必要もない。

 だがそれだけだ。他は人と変わらない。

 多少、人より身が軽いが本体の花木から遠く離れれば体が薄れて消えてしまうし、本体を切られたら死んでしまう。

 しかも人の間には花仙を食べれば不老不死になれると怪しい噂が出回っていて、正体を感づかれては捕らわれてしまうというおまけつきだ。おかげで身を隠して暮らすしかない。当然、戸籍もない。

(せめて自由に外へ出て職につくことができたなら。ここを立て直す手立てを探せるのに)

 ため息をついて、白鈴は辺りを見まわす。

 白鈴が生を受け、他の木々と暮らす道院は無人でぼろぼろだ。物陰から人を脅すまでもなく、化け物道院そのものだ。艶々と輝いていた甍も、絢爛たる花鳥が描かれていた欄干も、今では色あせ、蔓草が巻きついている。

「……昔はあんなに楽しく美しいところだったのに」

 白鈴の瞳に浮かんだ寂寥の情を見て、榎や他の木々が同意のざわめきをもらした。

『たった数年でこんなになってしまうとはな』

『栄枯盛衰とはいうが、何故にこうなってしまったのか……』

 この道院が娘を偲ぶ親やその姉妹で賑わい、それを目当てに男たちも集まって、供養だけでなく縁結びにも効くと人であふれかえったのは過去のこと。

 いつの頃からか参拝客が減り、時の道主が起死回生の改築を試みて失敗した。借金を返すためにさらに無茶な投機をおこなって、土地の権利は悪徳商人の手に渡ってしまった。 道主たち住人は庭師も含め皆、逃げだした。おかげで庭も建物も荒れ放題だ。

 だが、地に根をはる木々は逃げようがない。

 どうしようとおろおろしている間にも市街の一等地という好条件が災いして、建物を庭ごとつぶして更地にしようと地主が人夫を送り込んでくる。

 自分たちを置いてきぼりにした道主を恨んでいる暇もない。切り倒されるか否かの命の瀬戸際だ。

 工事を始めようと人夫がくるたびにお化けのふりをして白鈴が追い返しているが、それも限界だ。最近では斧をかついだ地上げ屋と呼ばれる破落戸までやってくる。

 一刻も早く何とかしなくては。

 だが地主と交渉するにも金がいる。

(そんな大金、私たちが持っているわけがない)

 霞を食べて生きる仙人と同じく俗世と関係なく生きてきた白鈴に財などあるわけもなく、死して花仙に転生した身では頼れる縁者もいない。

 もし自分に天を裂き、地を割る仙力が宿っていたならば、護岸工事で活用して見事、日雇い銭を稼いでみせるのにと白鈴は眉をひそめて悔しがるが今さら生まれは変えられない。

 金銭的に無力なのは白鈴だけではない。周りの木々も同じだ。ただの樹木が人のように立ち働き商いができるわけもなく、皆揃って一文無し。このうえは他力に頼るしかない。

 そこで誰か援助をしてくれる人を捕まえられないかと、追剥よろしく敷地内に出没しているのだが。

『誰も、捕まらないのよねえ……』

 ぽつりと楓の小姐がつぶやいた。

『じゃから何度も言うように、方法からして間違っているのだ』

 すかさず榎の爺が答えて、再び話し合いが始まる。

『人とは身内のためにしか動かぬ薄情な生き物と聞くぞ。通りすがりの酔っ払いに助けを乞うたところで、まとまった金子を譲ってはもらえまい』

『じゃあ、人と家族になっちゃえばいいってこと?』

 羽振りのよい道院時代に、参拝客たちから人の行動様式を学びとった木々が、生き残りを賭けて蓄えた知恵を絞ってくれる。

 だが皆、歳は重ねていても世間でもまれたことのない箱入りばかり。感覚がずれている。なかなか現実に即した案が出てこない。

『赤の他人が身内になるには養女になるか夫婦になるかだね。でも養女は難しくない? もうここにはそんな年輩の人間はこないし。残るは夫婦だけどさすがにねえ』

『でも金子を巻き上げるだけなら、本当の夫婦にならなくてもいいんじゃない? 美人局っていうの? ちょっとお芝居するだけって方法もあったはずよ』

『そういえば参拝客たちが話していたな、契約結婚とか、仮面夫婦とか。相手に自分の素性を黙ったまま夫婦になったふりをして援助をひきだすのだとか』

「それよ!」

 白鈴はぽんと手を打ち合わせた。

 そんな奇策があるなんて、と、これまたずれた感覚で、箱入り花仙の白鈴は感心する。

 正直を言うといくらふりだけでも人と面と向かって夫婦のまねごとをするなど正体がばれそうで怖い。それに縁結びを売りにする道院で育っても人目を忍ぶ花仙の白鈴は色恋沙汰に縁がない。夫婦といわれてもいまいちよくわからない。

 だが、すでに万策は尽きた。

 美人局とは音の響きからして犯罪のような気もするが、ここ数日のうちに活路を見出さなければ道院は潰される。皆の命は崖っぷちだ。罪の意識がどうという前につんでいる。

(もう手段を選んでる余裕はないもの。そもそも私たちがここまで追いつめられたのも、人のいい道主様をはめた強欲な人たちのせいだから)

 背に腹は変えられない。どこかで踏ん切りをつけなければ。

 何も相手の命までよこせとは言っていないのだ。金は天下の回り物と聞く。

 地上げ屋たちと同じ〈人〉という大きなくくりの中から一人だけ、夫、という名の犠牲者を抽出して、余裕分の金銭を還元してもらうだけ。白鈴は自分の心をそう納得させる。

 その時、外の路をゆっくりと歩む蹄の音が聞こえてきた。

 荷馬ではない。車輪のきしむ音の代わりに、剣と馬具がふれる金属音がする。

 武官だ。そしてかすかに聞こえる低い美声。

 興にまかせて漢詩でも口ずさんでいるのか。武だけでなく文にも通じた風流人のようだ。

 馬に乗っている。漢詩を口ずさむ教養がある。それはつまり。

『金子をたっぷりもった獲物よっ。やったわ、ついてるっ』

『それに武官ならやみくもに化け物道院を怖れたりしないはずじゃっ。しかもあの声の様子、かなり酔っておるぞ、普段の判断力が低下しておる。好機だっ』

『白鈴、早く梅の香を外へ送るんだよ、風流人ならきっと中に誘い込めるからっ』

 周囲の木々が勢い込んだ。迷っている暇はない。さっそく実践の時だ。

 白鈴はこくりと喉を鳴らす。そして姿の見えぬ相手に向かって、塀越しに芳しい梅の香を届ける。

 さいわい香は届いたようだった。漢詩を口ずさむ声がやむ。

 そして門を探すかのように馬首を巡らせる、のんびりとした馬のいななきが聞こえてきた。

『やったぞ、いくのだ、白鈴!』

『男を落とすやり方なら、こっそり陰から耳打ちしたげるからっ。だてに何十年も参拝客たちの体験談を聞き集めたりしてないよ、まかしときっ』

『白鈴、あなたならできるわ、頑張ってっ』

 木々が声援を送ってくれる。

 生き残りをかけた戦いの幕は切って落とされた。やるしかない。白鈴は紅い唇をきゅっと噛みしめて気合を入れる。

「夫婦になってきます、金子のために」

 頼もしい剣の代わりに儚い蜻蛉めいた領巾をひらめかせると、白鈴は木々の間から躍り出た。己の戦場へと足を踏みだしたのだった。


 

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