深淵

 まだ電車の動く時間であったので、夕食のあと、涼美は外出の身支度を整えた。


 涼美:今から行くね

  夕飯は食べたの?:お母さん

 涼美:うん

  どしたの?:お姉ちゃん

  なにかあった?:お姉ちゃん

 涼美:なんにもないよ。ちょっと私の部屋にあるものを取りに行くだけ。

  涼美が返ってくる? 母さん、寿司だ、寿司をとろう:お父さん

  あなた落ち着いて。涼美はもうゴハン食べたって:お母さん

  あ、そうだ、ネコ連れてきてネコ!:お姉ちゃん

 涼美:うん、そのつもり。


 このようなやり取りを、家族と携帯電話の簡易メッセージツールで交わした後、振り返れば、オーニスが目の前に置かれた、ペット用のキャリーバッグを指して、眉間にしわを寄せていた。マルをペット病院へ連れていく際に用いている物だ。

「これ……やっぱり入らないと駄目デス?」

「実家まで電車で行きますけど、さすがに猫を膝に乗せて乗車する不思議ちゃんにはなりたくないです……」

 目立つことは必至だし、下手をすれば、他人に盗撮されてSNSデビューをしてしまうかもしれない。それは避けたいと、ペット用キャリーバッグを開け、オーニスを、両脇から手を入れ抱き上げる。

「しょうがないにゃあ……」

 特に抵抗する様子もなく、だらーんと伸びているオーニスをペット用キャリーバッグに詰め込むと、涼美は家を後にした。


 時間的に帰宅ラッシュをやり過ごした電車内は、適度に空いており、涼美は座席を確保することに成功した。

「なんだかこの揺れ、眠くなりますねえ」

 電車に揺られること数分。唐突にしゃべりだしたオーニスに、涼美はぎょっとする。

「ちょっと!? 猫は普通、人間の言葉を話したりはしないんです! 自重してください!」

 ペット用のキャリーバッグをのぞき込み、ウィスパーボイスで、中のオーニスに注意する。

(おっとめんごめんご。今……春日さんの頭の中に直接……語りかけています……これでどうデス?)

「うっわ、なんか気持ち悪っ!?」

 頭蓋骨の内側から響く声という、初体験の出来事に、思わず声を上げてしまう涼美。

 周りの人が視線をチラリと送ってきたが、慌てて携帯電話を操作して、あっいっけなーいマナーモードにし忘れてて動画の音が漏れちゃったてへぺろー。といった体を装った。

(家に着いても迂闊に話したりしないでくださいよ!)

(善処するデスよ。ところで春日さんは何故、少女時代にあのような死神を生み出したのデス?)

 オーニスから突如とんできた、黒歴史をつっつく発言に、涼美の心が軋みをあげる。

(ほ、ほとんどの人間は、多感なお年頃に、神だの悪魔だの超能力者だの魔法少女だのといった、普通の人間を超えた何かになる妄想をするものなんです……。私の場合、それがたまたま死神だっただけです)

 つい「ほとんどの人間は」と涼美は言ったが、他の人に聞いてみたわけではないので、真相は不明である。ただ、あくまで、そういう傾向にあるという話は聞いたことがあるので、ちょっと話の規模は盛ったが、全くの嘘ではない。

(多感なお年頃……なるほど。神であったころの記憶に触れるモノが、なにかその時期にあるんデスかねえ?)

(さあ……。とりあえず、今の私は「神だ」と言われても、何も思い出せないです……)

 そんな他愛もない話をしてしばらく、電車が実家の最寄り駅へ到着した。


「ただいまー」

 一応、インターホンを鳴らして、なつかしの我が家の門をくぐる涼美。

 玄関を開けて出迎えてくれたのは、涼美の姉である、京子であった。

「ようこそネコちゃ~ん! あとついでにスズも」

「私はついで!?」

「冗談冗談。熱烈に歓迎しちゃう!」

 涼美にハグをして、ほっぺたにキスをする。

(オニーちゃん、私は部屋でノートを探してきますので、お姉ちゃんの相手をお願いします)

(相手って何すればいいんデスか……)

(おとなしくされるがままにしていてください。適当に要所要所で「にゃーん」とか鳴いてゴロゴロいっておけばたぶん大丈夫です)

(了解デス……)

 玄関を閉めて、ペット用キャリーバッグのジッパーを開けると、勝手知ったるといった感じで、涼美はすたすたと2階への階段を上って行ってしまった。

 恐る恐るといった感じで、バッグから出てきたオーニスは、目の前の、眼をらんらんと輝かせた巨大生物(京子)に向かって、涼美のアドバイスに従って第一声をあげた。

「にゃーん」

 目の前の巨大生物が息を飲む。

 不安になったオーニスは、もう一声をあげた。

「にゃーん……」

(怖い! なんかこのヒト怖いデス春日さん!)

 僅かに口をつむいだ巨大生物は、急に、うおおおお……と静かに唸り声を上げ始めたのだ。

「……か、かっっわいいいいいいいい!!」

 いきなり抱き上げられたオーニスは、そのままめちゃくちゃ頭を撫でられる。

(うわああああなんデスかこのヒトなんなんデスか!?)

 春日京子(産後のため実家暮らしの32歳)、無類の猫好きである。しかし、好きが前面に出すぎて、大抵の猫は怯えて逃げる。

「にゃーん! にゃーん!」

「可愛いでちゅねー!」

 ぐりぐりぐりぐり。

 赤ちゃん言葉となり、オーニスが抵抗しないのをいいことに、行為はエスカレートする。頭を撫で、喉の下をかき、背中を撫でまくられた。

(うわああああ! よくもだましたああああ!! 無垢な天使をだましてくれたあああああ!!)

(騙すなんて人聞きの悪いですよ。言うべき情報をうっかり伝え忘れただけです)

 京子は、少し歳の離れた涼美も溺愛しており、マル抜きに実家に戻れば、ノートを探すどころの騒ぎではなくなると踏んでの、マルを伴った帰宅であった。

 ありていに言って囮である。

(うわああああああああ!! 撫でてくる! これでもかと撫でてくる!)

 ここまでされて、鳴くのは逆効果だと悟るオーニス。

「スズー! この子の名前なんてーのー!」

「マルー!」

 2階から涼美の返事が返ってくる。

「マルちゃんっていうんでちゅかー? おとなしい良い子でちゅねー?」

 ぐりぐりぐりぐり。わしゃわしゃわしゃわしゃ。

 我が身が(借り物だが)危うい。宿主の野生の勘で、そう感じたオーニスは、身体を丸めて防御態勢に入った。その様は、まるで黒いボーリングの玉のようである。

「おぉー……丸い。だからマルちゃんかー。はー……かわええのう……」

(まだデスか! 早くノートを見つけて帰りますよ!)

(あったあった。いま行きますよ)

 学習机の一番下の引き出し。それを外した奥底に、涼美の青春時代の負の遺産である、宵闇の書は眠っていた。宵闇の書とはいっても、ただの自由帳を、黒い油性ペンで真っ黒に塗り潰しただけモノだが。

 苦虫を嚙み潰したような顔で、若かりし頃の自分が作成した、負の遺産を手にする。ため息を一つ吐いて、持ってきた手提げにノートを放り込むと、部屋を出て階段を下りた。

 てっきり、京子の重すぎる愛で、オーニスは圧し潰されているのではと危惧していた涼美だったが、それは杞憂に終わった。

(うまっ、なんデスかこの赤いのっ。めちゃんこ美味いデスよ!)

 丸まって動かなかったことが功を奏したのか、どうやら京子は、エサで釣る作戦に切り替えたらしい。結局、涼美の父がお寿司をとったのか、オーニスは、残り物の寿司ネタを与えられ、それを喜び貪り食べていた。

「チョロい……」

 2枚目の赤身を一心不乱に食べるオーニスを見て、涼美の口から思わず呟きが漏れる。

「はー……、食べてる姿もかわええのう……」

「お姉ちゃん、変なのあげてないよね?」

「うん、今のところ赤身だけ」

「ならいいけど」

 ほら、マル、帰るよ。と、ペット用キャリーバッグのジッパーを開けると、待ってましたとばかりに、中に避難する。

 両親に、一人暮らしでもなんとかやっていけてると報告した涼美は、別れを惜しむ姉と父を背に、実家を後にした。


「さて……」

 一人暮らしのマンションへと戻った涼美は、お茶を用意した後、手提げから真っ黒なノートをテーブルの上に取り出す。


【警告】

 宵闇の書を、これ以上のぞくべからず。

 この警告を破りし愚か者には、相応の対価をもって、償ってもらうこととなろう。


「うわあ……」

 ノートの表紙をめくった涼美は、赤字で現れた警告文に、思わず額に手を当て、空を仰いだ。

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チーター殺すべし 慈悲はない 更科コダマ @Kodama04

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