最終章 夏に向かって

 琵琶湖博物館を訪ねた翌週、放課後の化学室にはいつもの顔ぶれがそろっていた。


「えー皆さん、今日はこれを使った実験を行います」


 教壇に立った丸岡先輩がしゃんと背筋を伸ばし、誇らしげに話している。それを冷めた目で見つめるのは俺たち下級生だ。


 だが俺たちの冷ややかな視線なんて気にすることも無く、先輩は教壇の下から重々しい金属製の小型のボンベのようなものを取り出した。


「液体窒素……ですか?」


 その表面に描かれた文字を読んで、俺はちょっと身を乗り出した。


「そう、物理地学部からもらってん」


「正しくは強奪してきた、でしょ」


 原田がはいはいと手を振るも、先輩は「細かいことはええの」と遮った。


 液体窒素と言えばマイナス196度の超低温。だがそれを保管するボンベは、スキューバダイビングの酸素ボンベよろしく常温で保管されている。内部が超高圧にも耐えられる特殊な構造のおかげで、気化せず液体のまま窒素を保管できるのだ。


 ちなみによく勘違いされるが、これは液体窒素自体が低温なのではなく、窒素が液体から気体へと状態変化を起こす際に周囲の熱エネルギーを吸収、つまり気化熱によって冷やされてしまうため、結果的に超低温が生まれているのだ。


 そのためごく一瞬ならば液体窒素に指を突っ込んでも、指先の体温のおかげで液体が蒸発し、そこで発生した窒素ガスが肌の表面を覆うおかげで直接液体窒素には触れず平気なのだ。まあ、もしも遅れて直接肌に液体窒素が触れるようなことになれば、すぐさま皮膚の熱が奪われてひどい凍傷を起こすだろうが。


 だがこんな代物を前に、俺は席を立つとすぐ近くでボンベをしげしげと眺める。こういう珍しい純物質は化学好きの俺にとって最高のおもちゃだ。


 先輩は期待通りの俺の反応にしめしめとしたり顔を浮かべると、高らかに告げる。


「さあマイナス196度の超低温と言えばやることはひとつ!」


「バナナで釘打とうってんでしょ」


 俺はすかさず口をはさんだ。


「すご! なんでわかったん?」


 先輩の考えることなんてだいたいわかりますよ。そう言おうとした瞬間、先輩が顔を歪めて不敵に微笑んだのだ。


「……なーんて言うと思った? 残念、そんなありきたりな実験はやりません。というわけでうちはバナナでこんな物作ってみました」


 そう言って準備室に飛び込むと、すぐさま大きな金属製のお盆を持って帰ってくる。お盆にはビーカーが5つ、載せられていた。


「はい、バナナシャーベット!」


 そして机にずんと置く。冷凍庫にでも入れておいたのだろう、キンキンに冷えた乳白色の細かい氷菓、それがビーカーにあふれんばかりに盛りつけられている。


「準備がいいですね」


 そう言って俺はピュンと実験器具の並べられた棚に飛んでいくと、食事用のスプーンを持って帰ってきた。


 やっぱりうちの部が真面目に研究するのなんて似合わないな。こうぬるい感じでいないと、どうも落ち着かない。


「あれ、川勝は?」


 シャーベットの盛られたビーカーにスプーンを突き刺し、部員たちに配っているところで俺は川勝の姿が消えていることにようやく気付く。ついさっきまでそこにいたはずなのに。


「観察の時間や言うて出ていかはりましたよ」


 受け取るなりがつがつとシャーベットを口にかき込んでいたトシちゃんが答える。こいつもここのカラーにすっかり染まってしまったな。


「うん、ちゃんとみんなに声かけてたで。シロ、気付かへんた?」


 原田もスプーンを咥えながら呆れたように言った。


 これは不覚、液体窒素に気を取られて全然気付かなかった。それにしても相変わらずマイペースな奴だ。俺は自分の分と川勝の分、ふたつのビーカーを持ったままため息を吐くとそのまま実験室を後にした。




「おーい、川勝ー」


「白川君!」


 やっぱりここにいた。体育館裏、茂みの前で屈んでじっと地面を見ていた川勝は突如声をかけられて跳ね上がるようにこちらを見た。


「ほれ差し入れ。先輩お手製の液体窒素アイスやで」


「ありがと」


 冷え切ったビーカーを手渡す。そして川勝は観察を中断し、俺と並んで座るとシャーベットをスプーンですくい、上品に食べ始めた。


「化学部ってやっぱり面白い人ばっかりやな」


「面白いからええってもんやないで。貧乏くじ引かされるのは男手の俺やからな」


「ふふ、そうやね」


 それだけ言葉を交わし、あとは静まり返ったままひたすらにシャーベットを口に運ぶ。風が草を撫で、時々鳥の声だけが聞こえる中、シャクシャクと氷を削る。


 なんだか居心地が良いような、気まずいような。何か話しかけた方が良いような気もする……だがこの表現の難しい気分、悪いものではない。


「ねえ」


 沈黙を破ったのは川勝からだった。


「これから白川君のこと、私もシロって呼んでええ?」


「んあ?」


 俺は持っていたスプーンを落とした。突然、何を言い出すんだ?


 硬直して唖然とする俺から、川勝はそっと顔を背ける。


「いや、大した意味はないで。原田ちゃんも先輩もそう呼んでるのに、私だけ苗字で呼んでるのってなんか居心地悪くてな」


「ほな別にええけど……」


 俺もつい目をそらしてしまう。なんで突然そんなこと訊いてくるかな、余計にいづらくなってきたじゃないか。


 だがそう返事するや否や、川勝はこっちを振り返る。そして今まで見せたことの無い満面の笑みを浮かべ、俺の顔を覗き込んだのだ。


「うん、ほなこれからもよろしくね、シロちゃん!」


 シロちゃん、とな。しかもそんな笑顔で言われると、こっちもOKしたのがなんだか気恥ずかしくなってくる。


「いやー、お前が言うと、その……気持ち悪い」


「うわひっど!」


 憤慨する川勝。誤魔化すように俺はハハハと笑いながら落としたスプーンを拾い上げ、付着した汚れを指で拭う。たしか体育館前に水道があったな、そこで洗ったらまた使える。


 スプーンを洗うために立ち上がる。そしてぐるっと体育館を回るため、先日設置したばかりの水桶の脇を通る。


 その内ひとつの水面を何気なく、ちらっと覗き込んだ時だった。一瞬、水面を何かが動いたのをとらえた俺は「んん!?」と顔を近づけたのだった。


「おい、これ!」


 俺は大声でシャーベットを味わっていた川勝を呼んだ。川勝はすぐに俺の隣まで駆け寄ると、いっしょになって水の中を注視する。


「あ、ミジンコ湧いとる!」


 非常に小さな、丸い砂粒のようなものだった。それが水面近くをあちこちに忙しく、泳ぎ回っている。察するに、飛来してきた鳥か虫にでも付着していた卵が孵ったのだろうか。


「川勝!」


 生物が寄ってきた。隣の小柄な女子に、俺はにかっと笑いかける。


「うん!」


 太陽の光を照り返す眼鏡のレンズさえも貫くほど、川勝の眼はまっすぐに俺を見上げていた。そして彼女は強く息まくのだった。


「この研究、いけそうや!」


 さあ、これからが本番だ。しっかりと観察を続けて、夏の間にこの研究をまとめ上げるぞ!





 ~あとがき~


 この小説をここまで読了してくださった皆様、本当にありがとうございます。

 基本は6日に1回更新というスローペースでしたが、以前から書いてみたかった高校生の青春ものを書き上げることができ、作者として非常に面白く価値のある経験をさせていただきました。


 この小説に登場するのは自然科学の研究に勤しむ高校生たちですが、私自身は吹奏楽部だったので実際の科学部の雰囲気とは異なるかもしれません。ですが私の卒業した高校の理数科には物理地学部や化学部に属する友人が多数おり、そのクラスメイトのことを思い浮かべながら書いていたため、ストーリーは今まで書いてきた小説の中でもかなり作りやすかったです。


 ただ、日常、青春、恋愛、そして自然科学、そのすべてを表現するには少々のんびりし過ぎたようです。元々は大学時代に公募のために書き始めたものをWEB向けに改稿したという事情もありますが、序盤と終盤で展開のスピードが全然違うのは大いに問題ですね。この反省をこれからの作品に活かしていきたいと思います。


 現在、私は『おっさんが回復術師を目指したっていいじゃないか!』と『半実話! 悪質ダイビングショップにつかまされた俺が500万円を取り返すまで』の2作を連載していますが、後者はともかく前者は既に最終段階とあって、近日中の完結も見えています。

 そのため次の連載作品の構想は

 ・史実とは異なった歴史を歩んだファンタジー戦国時代もの

 ・現実世界と夢世界を行き来する現代ファンタジーもの

 このどちらかを考えています。こっちを書いてほしい、といった意見のある方は気軽にお声掛けください。


 では、今後ともよろしくお願いします。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。


  2018年3月28日 悠聡

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化学部と生物部は合併しました! 京都市立中京高校化学生物部の研究レポート 悠聡 @yuso0525

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