清潔なしろい骨

大澤めぐみ

清潔なしろい骨



 わたしのお母さんはわたしを産んで死んだ。



 羊水塞栓症という珍しい症状だったらしい。お産までの経過は順調そのものだったのだけれど、出産直後に原因不明の大量出血が止まらず、そのまま帰らぬ人となってしまったのだそうだ。原因がすぐに特定できていればあるいは、という話らしいのだけれど、羊水塞栓症というのはそれが難しいのだ。なにしろ珍しい症状なので多くの産婦人科医にとっても初めて遭遇するケースなわけで、未知の症状に対して即座に適切な対応をせよというのも酷な話だと思う。誰を責めることもできないのだろう。そういうことが、この世界ではときどき起こるのだ。


「小春はお母さんの命をもらって生まれてきたんだ。お母さんの分まで、ちゃんと立派な人間にならなければいけないよ」


 物心がついた頃から、わたしは父にそのように言い含められてきた。


 父が言うには、お母さんはそれはそれはとても聡明な人だったそうだ。わたしの目にも、写真の中のお母さんは、わたしや父とはまったく異次元の存在のように見えた。ただ真っ直ぐに立ってカメラのほうに笑顔を向けているだけなのに、ただそれだけのことでなんとも言えない気品が感じられ、その尋常ならざる聡明さを察することができた。


 元は名家の才媛であったらしい。お母さんには親が定めた婚約者がいたのだけれど、それを振って半ば駆け落ち同然で父と結婚したのだそうだ。その当時、ただの一介の旋盤工に過ぎなかった父が結婚を機に新天地で独立し、生き馬の目を抜く商売の世界で事業を軌道に乗せることに成功したのにも、並々ならぬお母さんの助力があってのことだ。


 そんな聡明なお母さんの命が永遠にこの世から失われてしまい、そのかわりとばかりにわたしが生まれてきたのだ。わたしがお母さんよりももっと聡明な人間に育たなければ、収支としては赤字になってしまう。つまり、得られたものよりも失われたもののほうが大きいということだ。それぐらいの計算は、まだ子供だったわたしにも理解できた。


 そのようであるから、当然のように父はわたしをとても厳しく躾けた。それも仕方のないことだろう。なにしろ、支払いはすでにされてしまったのだ。しっかりと元を取らなければ割りに合わない。


 父はわたしにきちんとした服を着せたがった。小学校に入る前から、わたしは折り目正しいジャンパースカートに繊細なフリルのついた白のブラウスとストラップつきの革のローファーという感じのお嬢様ファッションで、スニーカーを履いた上下スウェットの他の子たちとは一緒に遊ぶことができなかった。仕立てのよい綺麗な服を汚してしまうわけにはいかないし、革のローファーは走り回るのにも向かない。泥んこ遊びなんかはもってのほかで、他の子たちが外を走り回って遊んでいるときにも、わたしはひとり部屋で絵本なんかを読んで過ごしていた。窓の外で、はち切れんばかりの笑顔で嬌声をあげながら遊ぶ他の子たちを羨ましいと思ったし、そこに混じることのできない自分の境遇を悲しいとも感じたけれど、でも、それも仕方のないことなのだと納得はしていた。


 聡明で、尋常ならざる気品のあったお母さん。そのお母さんの命と引き換えにわたしはこの世に生を受けたのだ。他の子たちとは生まれかたが違うのだから、同じように生きることができないのも当然のことなのだろうと。


 小さな頃から部屋の中で本を読んで過ごすことが多かったわたしは、外で遊んでばかりいる他の子たちに比べれば勉強が得意だった。小学生の間、わたしはほとんどのテストで100点満点を取り続けていた。体育は苦手だったけれど、絵を描くのとリコーダーとけん玉は好きだった。100点の答案を家に持ち帰っても、それで父が褒めてくれるということはなかったけれど、100点以外の答案を見ると、父は必ずわたしが間違えた理由を訊いてきた。怒るわけではなく、ただ「なぜ?」と問うてくるのだ。なぜこんな間違いをしたのかと訊かれても、わたしはうまく答えることができなかった。自分でも、なぜそんな間違いをしてしまったのかが分からないのだ。大抵は1問だけ間違えている程度で、落ち着いて考えてみれば正解は簡単に分かるようなものばかりで、根本的にわたしの理解が間違えているなんていうことはなかった。だから原因は、早とちりとか、勘違いとか、そういうことになるのだろうと思う。要するに、ケアレスミスだ。


「小春はどこかぼーっとしているところがあっていけない。だから、こういう単純なミスをするんだ。もっと注意深くならないと、いつか大変な目に遭うことになる」


 わたしは立派で聡明な人間にならなければならなかった。そのために、わたしは注意深くあらねばならなかった。わたしは心の底から注意深くあろうと、ミスをしないでおこうと考えていたのだけれど、どれだけ注意してみてもケアレスミスは一定程度の割合で発生し続けた。


 どうして、わたしの注意はわたしの思ったとおりに働いてくれないのだろうと、それが不思議で仕方がなかった。わたしはわたしの身体や、わたしの意志の操縦が下手だった。わたしの身体はぜんぜんわたしの思う通りには動いてくれなかったし、わたしの意志とは裏腹に、わたしの注意力は周囲の細やかな事象に振り回された。わたしは注意力散漫な出来損ないの子供だった。


 注意をしなければ、気を付けなければと思えば思うほど、そのことに気を取られて目の前の物事に集中できなくなってしまう。わたしの意識はいつも薄い膜が張ったかのように曖昧で鈍く、ときおりひどい頭痛に悩まされた。

 

 父はわたしが大きな声で笑ったり、歌を歌ったりするのも好まなかった。わたしの笑いかたは品がないのだそうだ。たしかに、写真の中の母は笑顔でいても気品と聡明さを失っていなかったけれど、わたしが笑うとまるっきりバカのような表情になってしまう。わたしは父の前では笑わなくなったし、父の見ていないところでもなるべく笑うのを我慢するようになった。誰だって、好き好んでバカみたいな顔を晒していたくはないだろう。わたしはいつも、なにかを我慢しているような顔をしていたかもしれない。それはそれで、決して聡明そうには見えなかったのだろうけれど。


 他の子たちと一緒になって外で遊ぶこともせず、いつも口をしっかり閉じて、なるべく表情を変えないように努めていたわたしには、当然のようにあまり友達ができなかった。わたしは教室の隅でじっと口を閉じて本を読んでばかりで、ほとんど誰とも喋らない子供だったし、それは中学校に上がってもあまり変わらなかった。



 ただ中学校に上がってからは、教室の隅に座って口を閉じているだけでも、ときどき男の子がわたしに愛の告白してくるようになった。それだけが、唯一の変化だった。まったく一言も喋ったこともないのに、ある日突然呼び出されて愛の告白をされるのだ。喋ったこともないような相手のことを好きになるというのもよく分からない話ではあったけれど、特に断る理由もないので「付き合ってくれ」と言われれば、わたしは「別に、いいけれど」と答えていた。


 わたしだって、好きで教室の隅でひとり黙り込んでいたわけではないのだ。友達はほしかったけれど、どうすれば友達ができるのかがさっぱり分からなかっただけのことで。男の子がわたしに興味を持って付き合いたいと言ってくれるのは、変化の乏しいわたしの日常において、そこそこ嬉しい出来事ではあった。


 いちばん最初の彼氏は、もう名前もうまく思い出すことができない。なんと言っただろうか、たぶん、鈴木とか佐藤とかそういう、なんていうことのない名字だったような覚えはある。下の名前については印象すら残っていないから、ひょっとしたら最後まで知りもしなかったのかもしれない。


 その子はわたしに「付き合ってくれ」と言って、わたしが「別に、いいけれど」と返事をすると、「じゃあキスしよう」と提案してきた。特に断る理由もない気がしたし、付き合うとはそういうことなのかと思いもしたから、わたしはまた「別に、いいけれど」と答えた。


 キスもどうということはなかった。嫌だなと思いはしたけれど、ほんの数秒のことだから我慢できないほどでもないし、わたしは我慢をすることには慣れていた。


 次に会った時、その子はわたしのスカートの中に手を入れてきて、その性急さにさすがに嫌気がさしてわたしは逃げ出した。キスをしたのとスカートの中に手を入れられた以外にはほとんどコミュニケーションもなかったから、名前も顔もほとんど記憶にない。次の週にはまた別の男の子が告白をしてきて、また概ね同じような経過を辿った。あまり楽しくはなかったのだけれど、少なくともまったくコミュニケーションが存在しないわけではないから、ほんの少しだけ寂しくはなかった。わたしは、男の子から告白されて付き合うという以外に他者とコミュニケーションをとる手順を一切知らなかったし、何度嫌になって別れても、次の週にはまた別の男の子が告白をしてくるものだから、わたしは同じことを繰り返すことになった。いずれの男の子たちも、すぐにわたしとキスしたがったし、わたしの身体を触りたがったけれど、わたしと話をしたがる子はいなかった。わたしも別に、彼らと話したいことはなかった。


 わたしの顔が写真のお母さんに似てきているのは、わたしも気が付いていた。お母さんに似たわたしのこの顔が、彼らの興味を引くのだろう。それは無理からぬことのようにも思えた。写真の中のお母さんはすべての人を魅了するような、なにかしらの輝かしいものを発散しているのだから。けれど、わたしは顔だけはお母さんに似ていても中身はまるで聡明ではなく、あいかわらず注意力が散漫で、思考は靄に覆われてはっきりとせず、ぼーっとした感じのままだった。そんなわたしが見た目だけでもお母さんに似てしまっていることが、わたしにはとても僭越なことに思えてしまって、申し訳がなかった。


 わたしは立派で聡明な人間にならなければならないのに、どうすれば立派で聡明な人間になれるのかがさっぱり分からなかった。相変わらず、勉強の成績だけはよかったけれど、それが聡明と言えるのかといえば、そんなことはないようにわたしには感じられた。



 偏頭痛はとまらなかった。日向に出ると頭が痛むので、わたしはますます外に出なくなった。頭は常に重く、なにも考えられなかった。病院に行って薬を貰った。薬はわたしの頭痛を軽減してはくれたけど、そのかわり、さらに物事を考えるのが億劫になってしまった。


 まるで、途中から見始めたテレビドラマを話の筋も理解しないままに流し見ているように、日々の出来事はただわたしの目の前を通り過ぎていった。わたしは、わたしの目から外の景色を眺めているだけの、あまり熱心ではない観客に過ぎなかった。



 そんな、わたしのぼーっとした態度が気に食わなかったのだろうか。わたしは担任の教諭にも嫌われた。数学の担当で、終始わたしがなにかヘマをしないか目を光らせ、すこしのことでも徹底的にあげつらった。


 隣の席の男の子がペンを落とし、わたしがそれを拾って戻してあげていると、ちょうどその場面だけを見た担任がすごい剣幕で「なにをしていたんだ!」と怒り出したことがあった。わたしは落ちたペンを拾って戻してあげただけだったので、担任がなにをそんなに怒っているのかがさっぱり分からなかったのだけれど、どうやら、わたしが授業中にも隣の男の子になにかのちょっかいをかけていると勘違いしたようだった。


 わたしがいくら「ただ隣の子がペンを落としたので拾ってあげただけです」と説明しても担任は納得しなかったし、言えば言うほど、わたしが嘘をついていると決めつけてさらに怒り狂った。


 抜き打ちの持ち物チェックで、わたしの鞄の中からすこし卑猥な内容の広告のついたポケットティッシュが出てきた時には、父親まで学校に呼び出つけて叱りつけた。わたしは街頭で配っているポケットティッシュやチラシを断るのも下手なのだ。たんに、下校途中に手の中に押し込まれて、そのまま鞄の中に仕舞っただけだと言っても、やはり担任は納得しなかった。どういうわけか、ただその程度のことで、わたしは手のつけられない不良という扱いをされてしまうのだった。



 父は大いに悲しんだ。娘を立派で聡明な人間に育てようと苦心してきたのに、それが手のつけられない不良になってしまったとなっては、それも無理からぬことなのだろうけれど、でも、わたしの話も少しは聞いてほしかった。実の娘であるわたしの言い分よりも、赤の他人の、それも、すこし神経質で一度こうと思い込んだら二度と修正が効かない、ちょっと認知に問題がありそうな担当の教師の言い分を素直に信じる父に、なんとも言えない感情を抱いた。


 悲しくはあったけれど、でも、それも仕方のないことかもしれないと思った。なんにせよ、すこし認知に問題のある担任に目をつけられても、それを上手にかわすこともできない時点で、父が求める程度に十分に聡明ではないのだろうから。



 担任や父に限らず、人々はわたしが男の子と関わりを持つことをとても毛嫌いしているらしいということに、わたしはようやく気が付きはじめた。わたしは男の子から告白されて付き合っては嫌になることを繰り返していて、どうやら、そのことが反感を買っている原因らしいと。けれど、すでに十分すぎるほどに反感を買ってしまっていたのか、もう女の子は誰もわたしと口をきいてくれなくなっていたし、相変わらず男の子たちはまったく喋ったこともないのに突然に告白をしてくるし、やっぱりわたしはそれに対して「別に、いいけれど」と返事をしていた。


 別にいいけれど、ではないということはわたしも理解していた。そうやって、別にいいけれどと言い続けてきた結果、今のこのひどく窮屈な状況に陥っているのだろうから。わたしはもっと普通に女の子たちと話したり、友達になったりしたかったし、心の底から父が求めるような立派で聡明な人間になりたいと思っていたのに、どういうわけか、わたしの身体はわたしの意志とは無関係に、目の前の事象に対して「別に、いいけれど」と言い続けていた。


 わたしはわたしのコントロールがうまくできていなかった。

 目に映る景色には精彩がなく、日々は通り過ぎていき、わたしには特に意志も意図もなく、ただそれらを見ているだけだった。

 

 

 でも、人間というのはやはり調子がいいもので、好きな男の子ができると急に世界が色付いて見えたりもする。


 智樹のことが好きだった。くせっ毛で、奥二重で、左目のほうがほんの少しだけ右目よりも大きかった。まだ中学生なのに声だけは大人みたいに低く、その落ち着いた響きはわたしを安心させた。学校から一緒に帰るようになり、その道中にいろんな話をした。わたしの生活は相変わらずあまり物事の起こらないつまらないものだったけれど、それでも日々の細やかな出来事を漏らさず智樹に報告した。家を出ようと思ったら門扉にものすごく大きな蟷螂がとまっていて怖くてわざわざ裏口に回ったとか、セブイレブンのシュークリームよりもファミリーマートのやつのほうがおいしかったとか、近所でときどき見かける猫がやっと触らせてくれたとか、そういうつまらないことだ。特にオチもなければ面白味もないようなわたしの話を、智樹は淡く笑ってただ聞いてくれていた。うれしかった。


 智樹ははじめてわたしのほうからキスをした男の子だった。他の子たちとは違って、智樹は付き合うようになってもなかなかわたしにキスをしようとはしなかった。ひょっとして、智樹はわたしのことがそれほど好きではないからキスをしたがらないのではないかと不安になって、学校からの帰り道にわたしからキスをしてみたのだ。智樹は嫌がらなかった。


 智樹はわたしの身体に興味がないわけではないらしかった。それどころか、わたしがキスをしてからは暗にその先も望むようになった。他の男の子たちのようにすぐ口に出してしまわないだけで、わたしから近づけば智樹は絶対に拒まなかったし、歓んでいるみたいだった。わたしは、智樹が望むことならなんだってしてあげたかった。間もなく、わたしたちはセックスをした。智樹はそれを気に入っているようだった。たいていは彼の家ですることになるのだけれど、家族が出掛けたりしてチャンスが訪れると急にそわそわとしだして、してもらいたがっているのがすぐに分かった。最初の頃のよそよそしさからすると、少し意外なようにも思えたけれど、そんなものかもしれないなとわたしは思った。


「ゴムをつけたほうがいいんだよね」と、智樹が言った。

「なんか、保健体育でやってた気がする。どこで買うんだろう?」と、智樹の胸に頭をもたせかけながら、わたしは訊いた。

「薬局とかじゃないのかな」

「智樹、買いにいける?」

「うーん」

 したあとで、ときどきそんな話をした。でも、済んだ直後は智樹はなんだか「気が済んだ」という雰囲気になってしまって、しばらくの間は中身の抜けた別の物体みたいになってしまうから、それ以上、具体的なところまで話が進むことはなかった。



 頭がぼんやりとして重く、毎日微熱が続いて吐き気がして、わたしは保健室で寝ていることが多くなった。


 相変わらず、智樹と一緒に下校した。わたしが具合が悪そうにしていると智樹は「大丈夫?」と気遣ってはくれたけれど、必ずと言っていいほど毎日「ちょっと家に寄っていかないか?」と提案してきたし、智樹の家に寄ればだいたいはセックスをすることになった。わたしは体調が悪くてただ寝そべって智樹の気が済むのを待っているばかりだったのだけれど、それでも、できるのであれば智樹はあまり気にならないようだった。



 とうとう朝起き上がれなくなり、父に連れられて病院にいった。

 小児科の医師は「妊娠するような心当たりはありますか?」と、わたしに訊ね、わたしはきっぱりと「ありません」と答えた。


「そうですか。でも、念のため検査をしてみましょうね」



 妊娠三か月だった。



 父は怒り狂った。

「この淫売が!!」と叫んで、様々なものでわたしをぶった。わたしの頭に、箒や辞書やウィスキーの瓶などのものが振り下ろされた。

「お前!! 俺がお前を!! どんな想いで!! お前!! こんな!! どんだけ惨めか!! お前!! 俺は!! お母さんが!! お前!!」

 わたしはずっと床に蹲って必死に両手で頭を防いでいたので、父がどんな表情をしていたのかは見えなかった。涙に霞む視界でカーペットの目地に詰まった埃を見ながら、ただ嵐が通り過ぎるのを待つようにじっとしていた。そうか、これはそんなにいけないことだったのかと、わたしは思った。


 しばらくして、次々と頭に物を振り下ろされる時間が終わると、父の嗚咽が聞こえてきた。おそるおそる顔を上げると、わたしの頭に振り下ろされた様々なものですっかり荒れ果ててしまったリビングで、父はソファーにうなだれて泣きじゃくっていた。


 父のそんな哀れな姿を見たのは、生まれて初めてのことだった。父はいつだってわたしに厳しく接していたし、それに相応しい威厳を保っていたのだ。こんな風に、まるで子供のように泣きじゃくっている姿など、わたしに見せたことはなかった。ああ、この人もまた、感情をもったひとりの人間だったのだと、わたしはようやく理解した。


 父を慰めてあげたいと思った。わたしのしでかしたことのせいで父が泣いているのだから、それをわたしが慰めるというのもおかしな話にも思えるけれど、とにかく、その時のわたしはそのように感じたのだ。わたしは立ち上がって、ゆっくりと父に歩み寄った。一歩、足を踏み出すごとに、様々なものを打ち下ろされた頭がずきずきと痛んだ。


「ごめんなさい、お父さん」


 わたしがそう言うと、父は泣きながらわたしのお腹に顔をうずめ、縋りついてきた。どうしていいのか分からず、わたしはしばらくちょうど胸のあたりにある父の頭を撫でていたのだけれど、わたしを締めつける父の力がだんだん強くなってきて苦しくなってきた。


「お父さん……ちょっと、痛い……」


 わたしがそう言っても、父は力を緩めなかった。わたしは必死に父を引きはがそうとしたけれど、力ではぜんぜん敵わずにそのまま押し倒されてしまった。そして、そのまま流れるようにごく自然に父はわたしを犯した。


 わたしは父がわたしに対して厳しくあたるのは、彼なりのわたしへの愛ゆえなのだろうと思っていたのだけれど、そんなことはなかったのだと、わたしはようやく把握した。


 普通に、父はわたしを憎んでいたのだ。


 父が愛しているのはわたしの中の母の面影であり、わたし自身は父にとっては愛する女の命を奪った憎しみの対象だったのだ。もちろん、わたしだって別の自分のお母さんを殺してやろうと思ってこの世に生まれてきたわけではないけれど、でも、人間の感情に対してそんな道理を説いたところでなんの意味があるだろう。


 父は、「なんだお前は!! お前のどこが男に触れたんだ!! ここか!! ここでお前はアレをするのか!!!」と、わたしに対して怒鳴りながら暴力的にわたしを犯したかと思えば、しばらくすると子供のように泣きじゃくりながらわたしに縋りつき、やっぱりもののついでのようにわたしを犯した。父はわたしを犯しながら、わたしのことを母の名前で呼んだ。


 愛する女を奪われたという憎しみと、その憎しみの対象が引き継いだ色濃いお母さんの面影との間で、父は割り切れない感情で分裂し、おかしくなってしまったのだ。とっくの昔に、おかしくなってしまっていたのだ。わたしを性的に征服することは、それらの背反するふたつの感情を同時に満たすことができる合理的な判断と言えるのかもしれない。


 お母さんを死なせてしまったことと、そのことで父を狂わせてしまったことを、わたしはただただ申し訳なく感じていた。


 父はわたしのことをお母さんの名前で呼ぶ。わたしの中にあるお母さんの面影だけを求めて父はわたしに覆いかぶさる。そうされていると、必要なのはお母さんに似たわたしの肉の身体だけであって、このわたし自身というのは徹底的に邪魔な存在でしかないのだと思えて、自分が透明な存在になってしまったように感じられて、すべてが他人事のように見えてしまうのだ。


 わたしはわたしの上で動く父の向こうに見える天井の目地をぼんやりと数えながら、痛みも歓びもなにも感じずにいた。わたしも、わたし自身から乖離していた。


 嵐のような狂乱の時間が通り過ぎて、最後に父はわたしに「出ていけ」と言った。言われてもわたしがジッとしたままでいると、無理矢理にわたしを玄関の外に放り出して鍵をかけてしまった。もう夜中を過ぎていた。わたしは途方に暮れていたけれど、同時に、やっと解放されたという思いも感じていた。そうだ、智樹に会いに行こうと、わたしは思った。わたしは確かに、すこしはしゃいでいた。


 電話で妊娠していたことを告げると、智樹は「そうなんだ」と言った。特に嬉しそうでもなければ、悲しそうでも迷惑そうでもなかった。声だけで、いつもと同じようにただ淡く笑って聞いているのだろうと察することができた。


「あの、とりあえずわたし、家から追い出されちゃって困ってるんだけど」

「あー、うん。それは困るよね」


 ひょっとして、智樹の家に泊めてもらえないだろうかとわたしは考えていたのだけれど、それは「うちは家族がいるから」ダメらしい。一般的に、中学生の男の子の家に同級生の女の子が泊まるというのは難しいもののようだ。でも、そうは言ってももうわたしのお腹の中には智樹との赤ちゃんがいるわけで、これはそんな一般論でダメとか言っている場合ではないんじゃないだろうか、というようなことを、わたしは少し思った。けれど、あまり強く言うと智樹に嫌われてしまいそうな気がして「そうなんだ」としか言えなかった。


「とりあえず、今からそっちに行くよ」


 そう言って、智樹は電話を切った。わたしは智樹が来るまで、暗い公園のベンチで身を固くして待っていた。こんな夜中に、本当に智樹は来てくれるのだろうかと不安になったけれど、ちゃんと智樹は来てくれた。わたしは智樹に抱きついた。


 ともあれ智樹が来てくれたことで、わたしは少し安心した心持ちになっていたのだけれど、「ねえ、わたしこれからどうすればいいのかな?」と、訊いてみても、智樹はなんだかそわそわしている風で、上の空で「うん」と言うばかりだった。


 ああ、智樹はセックスをしたがっているのだと、わたしには分かった。


 わたしもさすがに、この状態で今? と思わなくはないけれど、智樹はこのそわそわした状態になると、とにかく一度しないことにはなにも話が前に進まないのだ。仕方がないので公園の暗がりで手早く済ませて、改めてわたしは「ねえ、わたしこれからどうすればいいのかな?」と、智樹に訊いてみた。


「ああ、うん。うちはダメだけど、先輩のところなら泊めてくれるみたいだから、とりあえず今日はそこで泊まらせてもらえば?」と、智樹は言った。


 智樹の言う「先輩」というのが誰なのか、智樹とどういう関係性において先輩なのかがわたしにはさっぱり分からなくて、つまり、その先輩はわたしにとってはまったくの他人であったわけだけれど、智樹がわたしのために誰かに話を通してくれたのだから、その好意を無碍にするわけにもいかないだろうと思って、わたしは智樹に連れられてその先輩の家に行った。


 どうということのない木造のアパートだった。先輩はわたしたちよりもかなり年上に見えた。高校生ということはないだろう。19歳か20歳か、たぶんそれぐらいだ。やはり、わたしには彼と智樹との関係性が分からなかったけれど、智樹はなにも説明してくれなかった。


「この子が言ってた子?」と、玄関先で先輩が訊いて、智樹が「はい」と答えた。

「いいよ、入んなよ」と言って、先輩がわたしを部屋の中に通した。智樹は玄関先で「じゃあ」と言った。


「智樹は、帰るの?」

「え、うん。だってウチ、勝手に外泊とかしたら怒られるし」

「そうなんだ」

「じゃあね。おやすみ」


 部屋に入ると、先輩は当たり前のようにわたしとセックスしようとした。「え、困ります」と、わたしが言うと、先輩は「え? なんで?」と、本当に素直に疑問に思っているという風に訊いてきた。


「だって、もう妊娠してるんでしょ? じゃあ別に一緒じゃん」


 そのようにして、わたしは先輩に犯された。わたしも、さすがにそうなるだろうとは分かっていたので驚きはしなかったけれど、智樹はこうなることを分かった上でわたしをこの先輩の部屋に案内したのか、それともたんに智樹がぼんやりとしているだけなのかどちらなのだろうと、それだけが気がかりだった。


 とりあえずその夜は先輩に犯されただけで殴られはしなかったし、お風呂も借りることができたから、家にいて父に殴られながら犯されるよりは相対的にはマシな状況なのかもしれないな、とわたしは思った。少しでもマシな環境にわたしを動かしてくれたのだから、ひょっとしたらその点で、やっぱりわたしは智樹に感謝するべきなのかもしれないな、とも考えた。


 翌朝、学校に行こうとしたら先輩に止められた。

「バカじゃないの? 学校なんか行ったら親父に見つかっちゃうし、親父に見つかったらまた家に連れ戻されるだろ?」


 言われてみればもっともな気がした。たぶん、さすがに父もわたしを探しはじめているだろうし、父に見つかれば家に連れ戻されるだろう。昨夜どうしていたのかと訊かれて、見ず知らずの男の部屋に泊めてもらった上にセックスもしたと聞いたら、父はますます怒り狂ってわたしを殴りつけ犯すだろう。ひょっとしたら、本当に殺されてしまうかもしれない。


 先輩に犯されるのもそれはそれで嫌ではあったけれど、自分の家とこの部屋とを比較してみれば、まだここのほうがマシなようにも思えた。少なくとも、この時点では。


 先輩の部屋にはひっきりなしに誰かしらが出入りしていた。どうやらここは、近くの学生たちのたまり場てきになっている部屋らしい。部屋にやってくる別の男たちも、当然のようにわたしを犯した。そのことに関して、彼ら自身はあまりなにも疑問に感じてはいないようだった。


 わたしは部屋から出してもらえなかった。ときどき部屋の主である先輩はどこかへと出かけていったけれど、そういう時には誰か別の男が部屋に居て、わたしを外には出させなかった。


 わたしはこの部屋に泊めてもらっているのではなく、監禁されているのだということに、わたしはようやく気付きはじめていたけれど、でも、逃げ出さなければという緊迫感のようなものには欠けていた。わたしはただ、めまぐるしく悪化していく目の前の状況を昼のテレビのドラマの再放送でも見ているような心持ちで、ただ見ていた。


 部屋には常に誰かが居て、彼らはマリオカートをしたりボンバーマンをしたりスマッシュブラザーズをしたりしながら、ときどき思い出したようにわたしを犯した。そのうちに、マリオカートで負けたイライラをわたしにぶつけることで解消することを覚えた。わたしは不意に殴られたり蹴られたり髪を切られたり性器に異物を挿入されたりした。彼らはわたしの肉の身体に興味津々だった。肉を掴んだり引っ張ったり揉んだり舐めたり引き裂いたり焼き焦がしたり、なにがそんなに楽しいのかがわたしにはさっぱりわからなかったし、ひょっとしたら彼ら自身にも分かってないのかもしれなかった。彼らは一種の狂乱状態に陥り、正常な判断力を失っているように、わたしには見えた。


 わたしは痛みを感じなくなっていた。わたしはわたしの身体が打たれ、腫れ上がるのを自分の目で見ていながら、ああ痛そうだなと思っているだけで、全然痛くはなかったのだ。


 智樹は今ごろどうしているだろうかと、ふと思った。そういえば、今もわたしのお腹の中には智樹との子供がいるのだな、というようなことを考えたりもした。


 狂乱のような一週間ほどが過ぎ、不意に誰かが「ていうかさ、これは普通に捕まるんじゃね?」と言った。「ヤるのはまだしも、こんな形変わるほど殴っちゃったらさ、隠しようがないじゃん」


 わたしは全裸で床にぐったりと横たわりながら、もっともな指摘だと思った。わたしの身体は生きた事件の証拠だった。この肉の身体に、彼らのあらゆる犯罪の痕跡がしっかりと刻印されていた。


「ふーん、じゃあ殺すか」


 誰かがそう言って、とても簡単にそういう話でまとまった。


 まず最初、彼らはわたしを素手で撲殺しようと試みたようだった。返り血で汚れるのを嫌ったのか、両手をビニール袋で覆いガムテープで巻きつけてグローブのようにして、それでわたしの身体を殴りまわした。わたしはお腹を守ろうと身を屈めたけれど、別の男に無理矢理に引き起こされてお腹を何度も殴られた。よろけた拍子にプレイステーション4の角に頭をぶつけ、そのことがさらに彼らを怒らせた。別に、わたしだって好き好んでプレイステーション4の上に倒れたわけではないので、わたしに怒られても困ると思った。


 どれだけ殴られてもわたしはなかなか死ななかった。人間というのは思ったよりも死なないものらしい。ところが、誰かがなにかの拍子にわたしの首に結束バンドを巻きつけてそれをヒョイと引っ張ったら、ただそれだけのことでわたしの呼吸は完全に止まり、あっさりと死んでしまった。


 身体が急速に冷えていくのを感じた。

 ああ、死ぬというのは、こんなにも寒いものなのかと思った。


 マリオカートに熱中していた先輩が振り返り「なんだこれ、おい。死んでるじゃん」と言った。

「え~、マジで。誰だよこんなつまんねー殺し方したの」と、誰かが言った。

「それでさ、殺したはいいけど、これはどうすればいいんだ?」と、誰かが訊いた。


 しばらく、誰もが黙っていた。


「こいつは妊娠した上に親にレイプされて家出したことになってるから、遺書を持たせてどっかの山にでも捨てておけば自殺したってことにならないかな?」と、先輩が言った。


 これだけの証拠をわたしの身体に刻み込んでおいて、その認識はさすがに見通しが甘すぎるのではないだろうかとわたしは思ったけれど、別に彼らが警察に捕まらないように忠告をしてあげる義理もないし、そもそも声を発する機能はもう失っていたので黙っていた。


 わたしの死体を山に捨てるためには車を用意しなければならないし、車まで運ぶのも骨が折れる。先輩は方々に電話をして、そのための人手を集めた。人の死体を山に捨てるのにそんなに人手を集めて大丈夫なのだろうかとわたしは思ったけれど、彼らは何人集まっても誰ひとりとして警察に通報しようとは考えないようだった。


 わたしの死体を運ぶための人手として、智樹も呼ばれた。智樹は部屋の中で横たわるわたしの死体を見て「あーあ」と言った。それから、めんどくさそうに「マジかよ」と言い捨てて、それでもわたしの死体を運ぶ手伝いに加わった。


 わたしが死ぬと、わたしのお腹の中の智樹の子供も一緒になって死んでしまうのだろうか。もう、死んでしまっただろうか。そのことも、智樹の情動をいささかも動かしはしなかったのだろうか。


 かわいそうな子。わたしでさえ父に憎まれはしたのに、なんとも思ってももらえないなんて。不意に泣きたいような気分になったけれど、もちろんもう死んでしまったわたしの身体にはそんな機能はなかった。


 わたしの死体は毛布にグルグル巻きにされ、外の様子が一切見えなくなった。感触や物音から、わたしの死体を数人が抱え車に積み込み、ゴトゴトとどこかへと移動していることは分かった。


「どこまで行くんだよ」と、誰かが不満そうに言った。

「もうこのへんでいいんじゃねぇの?」と、誰かがそれに同意した。


 自動車が停まる音、トランクが開けられ、再びわたしの死体が抱えあげられる。男たちが「せーのっ!」と、声を合わせた次の瞬間に落下する加速度を感じた。


 衝撃。

 回転。しばらくして、また衝撃。

 回転回転回転。


 それを何度か繰り返し、わたしの死体の運動は止まった。もう死んでしまっているわたしの身体は位置エネルギーを使い果たしてしまえばそれ以上は動くことがない。しんとした静寂が訪れ、視界は相変わらず暗闇だったけれど、わたしは眠くなることもなく、ひとり暗闇の中で覚醒し続けていた。


 わたしはもう死んでしまっているはずなのに、どうしてこの意識はこんなにも覚醒しているのだろうと、わたしはようやく疑問に思い始めた。人間の意識というのは死ねば消滅するものではなかったのだろうか。今のわたしは、幽霊かなにかなのだろうか。でもそれにしては、わたしの視界はわたしの身体に縛られたままで、自由にふよふよとそのへんに漂い出てみたりすることはできない。


 たんに、死んでから意識が消滅するまでにはしばらくのタイムラグがあるということなのだろうかとも思ったけれど、とりあえず今のところは自分の意識が薄れていったり遠のいていったりするということもない。


 わたしが感じていたのは、ただひたすらに寒いということだけだった。身体が冷え切っていたけれど、なにしろもう血が廻っていないので毛布にくるまれていても温まるということがないのだ。わたしはただ、静寂の暗闇の中で寒さに耐え続けていた。


 無限のような時が流れた気がした。


 わたしの目に、ふたたび風景が見え始めた。朝がきたのだ。とても長い時間、暗い静寂の中で寒さに震えていたような気がしたけれど、それは夜が明けるまでのほんの数時間のことに過ぎなかったようだ。


 わたしはどこかの深い森の中で横たわっていた。たぶん、どこかの崖の上から投げ落とされたのだろうと思う。その時に、わたしの身体をくるんでいた毛布が剥がれてしまって、顔が露出したのだろう。それで、ひさしぶりにわたしの目にも光が入ってきた。周囲を確認したかったけれど、もう死んでいるわたしは動くことができないので、視覚から得られる情報は少ない。わたしの視界は水平からやや上を向いているぐらいのところで落ち着いていて、柔らかそうな腐葉土と、苔むした太い樹の根と、木立ちの隙間からほんの少しだけ覗く空だけが見えていた。


 鳥がさえずっていた。

 風が木々を揺らすさざ波のような音がする。

 ときおり、遠い空で飛行機のエンジン音のようなものが聞こえたけれど、それ以外には、人間の存在を感じさせるような人工的な音はなにもしなかった。


 平穏だった。

 ゆっくりと太陽の光が強くなっていき、また同じだけの時間をかけて弱まっていく。完全に暗くなってしまう前のほんの少しの時間だけ、嘘のように空が紅く染まる。わたしの顔が向いている方では夕焼けを直視することはできなかったけれど、その余波のような赤を見ているだけでも心がすこし暖かくなるような気がした。


 夜は寒く、長かった。

 視界が完全な暗闇に閉ざされても、わたしの意識は眠りに落ちることはなく覚醒したままで、ふたたび朝日が昇るまでの時間をただじっと耐え続けなければならなかった。


 いくつかの朝と夜が過ぎ、なにも起こらなかった。


 不意に、絶え間なくわたしの身体を包んでいた寒気が薄れ、うっすらと温かさを感じるようになってきた。すっかり寒さに慣れ切ってしまって温かさというのを忘れてしまっていたわたしは、最初それを痛みだと勘違いした。それぐらい、はっきりと身体が温かかった。太陽の熱ではない。わたしの死体がいるこの場所には、身体を温めるほどの強い光は入ってこない。それなのに、身体中のそこかしこから、ぷつぷつとした温かさを感じるのだ。


 ああ、身体が腐りはじめているのだと、わたしは気付いた。その発酵熱で、すっかり冷え切ってしまったわたしの身体がじんわりと温められているのだ。肉の身体が腐るというのは、こんなにも温かいものだったのかと、わたしは思った。


 わたしの心は凪いでいた。


 肉が腐る温かさに包まれ、木々のざわめきと鳥たちのさえずりを遠くに聞きながら、わたしは生まれてはじめて心の底から安寧に包まれていた。誰もわたしを責めず、怒らず、殴らなかったし犯さなかった。なにも起こらなかった。ただただ平穏だった。


 わたしの意識は消えない。


 死んでいるのに、死んで腐りはじめているのに、相変わらずわたしはわたしの目から風景を見て、わたしの耳から音を聞き続けていた。


 いったい、誰がこれを考えているのだろう? と、わたしは思った。


 わたしの身体を動かしていたはずのわたしの脳は、とっくにその機能を止め、そのためにわたしの身体は二度と動くことがない。それなのに、なぜわたしはまだここにいて、ずっと外を見続けているのだろうか。


 ああそうか、と、不意にわたしは悟った。


 わたしは、このわたしは、いまこれを考えているこのわたしは、別にわたしではなかったのだ。たんに、わたしの身体の頭の中らへんにいて、その目を窓にして外の風景を見ているだけの同乗者に過ぎなかったのだ。だから、身体が死んでしまっても、そのままこの場所に閉じ込められ続けているのだ。どうりで、わたしの身体はいつだってわたしの思う通りに動かないし、わたしの感情もわたしの思った通りには機能してくれないわけだ。


 わたしにはこの身体を指揮する機能などなく、ただ同じ場所から外を見ているだけの存在だったのだ。ただ、いつも同じ景色を見ているから、わたしもわたし自身であると勘違いしてしまっていただけだったのだ。


 いつからだろう? いつからわたしはわたし自身から乖離して、ただ乗り合わせているだけの観測者になってしまっていたのだろう? 


 父に犯された時から? それとも、男たちにしこたま殴られているうちに? ううん、ひょっとしたら、この意識が発生した最初の最初から、別にわたしはわたし自身ではなかったのではないだろうか。乖離したのではなく、最初からまったく関係のない別の存在に過ぎなかったのではないだろうか?


 これは、わたしだけの特別な症状なのだろうか? それとも、人の意識というのはどれも実は身体に便乗しているだけの無関係な観測者で、死んだ後もそのまま死体の頭のあたりに置き去りにされてしまうものなのだろうか。


 この平穏は、いったいいつまで続くのだろうか。



 長らく考えることそのものをやめていたわたしは、外界の音に対してすっかり鈍感になってしまっていた。気が付いた時には、その音はわたしのすぐ近く、ほんの数歩ぐらいのところで鳴っていた。


 誰かが腐葉土を踏みしめて歩くギシギシという音が地面を伝って、横たわるわたしの耳にも届いてきた。


「これは、自殺……じゃあないね」


 男の声がした。男にしては、ちょっと声が高いかもしれない。どこか、清潔な感じのする乾いた声だった。


「まだ若いな、かわいそうに」


 そう聞こえた次の瞬間、死体になってここに投げ捨てられて以来一度も動くことがなかったわたしの視界が、グンと揺れた。


 男の顔が見えた。顎の輪郭が鋭角で、すこし切れ長の目をした神経質そうな雰囲気の男だ。男が、わたしの死体の頬に手を当ててすこし仰向かせ、顔を覗き込んでいるのだ。


 男と目が合った。


 その時、わたしが感じていたのは羞恥だった。わたしはもうとっくに死んで、腐りはじめていて、きっとひどい顔をしているに違いないのだ。生きている頃は男の子たちの興味を引いた、お母さんによく似た綺麗な顔も、徹底的に打ちのめされ、棄損され、台無しにされてしまったのだ。そんな顔を、男にまじまじと見つめられていることに、わたしはとてつもない羞恥を感じていた。


 死んで腐った死体になってまで、わたしはまだ男の視線を気にするばかりのつまらない女でしかなかった。


「寂しかっただろう。よく、頑張ったね」


 男はそう言って、わたしに微笑みかけた。


 男にそう言われてみてはじめて、わたしは自分がとても寂しかったことに気が付いた。そして、自分がずっと、誰かに褒めてもらいたかったのだということにも。


 わたしは誰かに「よく頑張ったね」と、ただそれを言ってもらいたかっただけだったのだ。ずっと。


「まだ死んでからそんなに時間は経っていないな」と、わたしの死体を見分しながら男が言った。「それにしても、綺麗な子だね。君みたいに綺麗な子は見たことがない。きっと、骨も綺麗だろうね」


 男はわたしの死体の横に腰掛け、ゆっくりと話を始めた。


「生の骨格標本を作っているんだ。焼いてしまった骨ではダメで、肉が自然に腐敗するまでじっくりと待たないと生の骨格標本は得られない。だけど、この国ではそれがなかなか難しくてね」


 それはそうだろう。この国では、人は死ねばあっという間に燃やされて灰になってしまう。のんびりと骨になるまで腐らせてはもらえない。わたしはこうして自然に腐っていっている途中だからとても心穏やかだけど、焼かれてしまった人たちの意識はどうなのだろうか。焼かれてしまえば、さすがにこの意識も消えてしまうのだろうか。そのために、この国では死体を焼くのだろうか。


「今はまだ、君を連れてはいけない。肉が多すぎるからね。また来るよ」


 男はそう言い残して、その日は去っていった。男の手に触れられた頬に、まだ男の体温が残っているような気がして、その夜はあまり寂しさを感じなかった。


 またいくつかの朝と夜が過ぎて、遠くに足音が聞こえた。


 わたしはずいぶんと遠い段階から、それが男の足音であることに気が付いていた。わたしは男がやってくるのを心待ちにしていたのだ。


「やあ、また来たよ」と、男が言った。


 突然、わたしの視界にたくさんの色が飛び込んできた。花だ。それも、いろいろな種類の花で作られた、大きな花束だ。男がそれを、わたしの目の前に置いてくれたのだ。


「こんな山の中では、楽しみも少ないだろうと思って」


 男の人から花を贈られたことなど、生きている間も一度もなかった。わたしはたぶん嬉しくて、胸の内側でなにかが膨らんでいるような内圧を感じたのだけれど、その気持ちを伝える機能もすでになく、涙を流すこともできない。ひょっとすると、胸の奥で膨らんでいるものも、ただの腐敗ガスなのかもしれなかった。


 また、男はわたしのとなりに腰掛けて、いくつかの話をした。ほとんどが、男のしている専門的な研究に関する話で、わたしには難しすぎて分からなかった。けれど、男の声は乾いていて清潔で気持ちがよく、まるで音楽を聴いているみたいで楽しかった。


 陽が暮れる前に、男は「また来るよ」と言い残して帰っていった。


 またいくつかの朝と夜を繰り返し、男との逢瀬を重ねた。

 会うたびに、わたしは着実に男のことを好きになっていっていたけれど、やはりその想いを伝える術もなく、交じり合うための肉体も、わたしにはもうほとんど残っていなかった。


 肉の身体が腐り落ちていくほどに、わたしの感情は平板で乾いたものになっていった。


「もう、そろそろいいかな」


 どれぐらいの月日が経っただろうか。男がようやくそう言って、わたしの身体を大きめのバッグに並べて詰めた。わたしの身体は大きめのバッグに並べて詰めてヒョイと肩に掛けて運べるぐらいに、シンプルで軽くなっていた。


 男の部屋でバッグから出され、わたしの身体は台の上に並べられた。男は昼間のうちはどこかへ、たぶん仕事に出掛け、夜になると部屋に戻ってきた。男は眠るまでの短い時間、静かな音楽をかけながら、わたしの身体をひとつずつ丁寧に丁寧にブラシで磨き上げた。わたしは男にブラシで磨きあげられながら、くすぐったいような、こそばゆいような感じを覚えていた。


 何日も何日もかけて、ようやくすべての部分を磨き上げられたわたしの身体は、清潔で乾いたしろい骨以外なにもなくなってしまっていて、わたしの意識もまた色んな余分な部分を失い、静かに凪いでいた。


 男がわたしの骨をすべて組み上げて、ひとつの骨格標本にした。わたしは男の部屋の一等良いところに据え付けられた。


「ああ、思った通りだ。やっぱり、君はとても綺麗だね。こんなに綺麗な骨、今まで見たことがないよ」


 男はわたしに対する賞賛の言葉を惜しまなかった。あらゆる語彙を用いてわたしの骨の美しさを褒めてくれたし、怠ることなくそれを毎日続けてくれた。わたしは変わらずわたしの骨の頭の部分にいて、その眼窩から外を見ているだけの存在だった。毎朝、男が仕事に出掛けるのを見送り、帰ってくるのを出迎えた。夜、眠るまでの時間、男は小さなボリュウムで音楽を流しながら、わたしに今日あった出来事を語ってくれた。


 わたしは満ち足りていた。


 ああ、そうか。すべては余分だったのだ。わたしの生はこのために、綺麗な骨だけになるためにあったのだと、わたしは理解していた。


 男はわたしを愛してくれていたし、わたしも確かに男のことを愛していた。



 ああ、肉の欲ではない。この愛の、なんと清潔なことか。





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清潔なしろい骨 大澤めぐみ @kinky12x08

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