降将

日崎アユム/丹羽夏子

降将

「……

 彼らが連れてきたのは、今の私の息子と同い年ほどの、少年でした。意志の強そうな、鋭い眼光を持った少年でした。薄汚れたシャツに穴の空いたズボンを穿いていましたが、私が今までに出会った全ての人間の中で、彼が最も誇り高い者であったと思います。

 躊躇うことはありませんでした。

 引き金を引いてやれば、この子は楽になれるのだ、と、私はその時、そう思ったのでした。

 少年はフッと笑っただけで、何も、本当に何も、言いませんでした。泣きも喚きもしませんでした。ただ静かに、受け入れたのです。

 ……」




 まただ。

 私はそう思って、目を開けた。

 枕元に、ぼんやりとした人影がある。白っぽい、霞のような人影だ。

 彼はあの日以来、毎晩必ず、私の元を訪れる。毎晩必ず、だ。

 そんなにこの世に執着しているのだろうか、と私は悩む。彼はあの瞬間、覚悟を決めた、綺麗な顔をしていた。と、私は思っていた。ここで殺してやらねば苦しむのはこの子だ、と、私はそう確信したのである。だから躊躇うことなく引き金を引いたのだ。

 しかし、彼は毎晩必ずやって来る。

 あれから十五年の歳月が過ぎた。私が戦地に赴く少し前に生まれた息子が、彼と同じくらいの年になっている。あの時いなかった娘まで、今はいる。

 しかし、彼は毎晩必ずやって来る。

 彼は時折、口を開いた。けれど、何を言っているのかは、わからなかった。聞こえないのだ、彼の声が。喋ったとしても現地の言葉であったなら、私には理解できない。伝えたいことがあるならば、家族でも戦友でも他にいるではないか。何故私のところに。

 しかし、彼は毎晩必ずやって来る。

 一体何をしに来るのだろう。

 どうして君は毎晩私のところに来るのだ。そんなに私を恨んでいるのか。君を殺した私に、復讐でもしようと思っているのか。

 眠れない夜が続いている。彼のお陰で。

 彼は何も言わなかった。ただただ、何かを言いたげな表情で、私を見下ろしているだけだった。


「クラスでムカツクヤツがいてさー」

 夕食をとりながら、息子が言う。

「あいつがうちのチームにいるのを見てると、イライラすんだよ」

 どうやら、体育のバスケットボールの話をしたいらしい。

 平和なものだ。

 あの少年は、お前と同じ年頃であったのに、銃を抱えて私達と戦った。立派に戦い抜いたが、敗北を悟ると、仲間の命を守る為に自らの命を捧げた。

 それに比べて、我が息子はどうしてこう軟弱なものか。もう時代が違うとでも言うのだろうか。


 君も早く天国へ行きなさい。あれはもう、とっくの昔に終わったことなのだ。そう言ってあげたかった。

 彼は今日もやって来て、私の寝室をウロウロしている。

 彼の全身の輪郭はぼやけているが、顔や手足は一応見ることができた。まだ少々華奢な気もするけれど、息子よりは筋肉の付き具合が良く、立派な体躯をしているように思われる。日に焼けていて、当時は黒っぽく見えたものだが、今は真っ白と言ってもいいくらいだ。

 見られていることに、気付いたようだ。ふと気がついたら、彼はベッドサイドにいて、私を静かに見下ろしていた。私は驚いて目を開き、久し振りに彼の顔を間近で見た。

 眉と眉の間に皺を寄せて、じっと私を見ている。やはり何かを言いたいらしく、唇がもごもご動いているが、はっきりと開くことはない。

 ふと、彼が息子と重なった。何となく、顔つきが似ている気がしてきたのだ。

 そう思った途端、彼に対する見方が、変わった。

 困っているのではないだろうか。

 何に困っているのかは、わからない。ただ、今日の夕食の時に愚痴をこぼしていた息子が、似たような表情をしていたのだ。

 どうしたのだろう。

 浮かんだのは、やはり、天へ昇ることができないのではなかろうか、ということだった。

 彼の遺体はどこにやっただろう。ちゃんと埋葬しなかったのではないか。そんなはずはないのだが、彼の墓を見届けたわけでもない。

 あるいは、この世に何かを残してしまったとか。想いの強さが死者の魂を現世に留めてしまう、とも聞いたことがある。残したものが気になるのかもしれない。家族か、友達か、やりたいことか、やり残したことか。このくらいの年頃なら、ひょっとしたら、恋人だっていたかもしれない。銃を持ったほどである、叶えたい志だってあったはずだ。

 さっきの原理からすれば、その未来を断った私への恨みだって、あるのではないか。

 本当は、彼もまた仲間と共に命を救ってほしかったのかもしれない。それを、言葉が通じなかったせいで、誰か自軍の兵が勝手に解釈し、死を強要したのではないか。

 未来ある少年を殺した罪を、戦後も、私は裁かれなかった。戦争というものは、そういうものである。わかっているはずなのに。

「すまん」

 彼は瞬間大きく目を見開いた。それからうつむき、しばらくして、消えてしまった。


 翌日の夕方、食卓で、息子が意外なことを言った。

「今度、あいつと遊びに行くことにした」

 妻が「あいつって誰なの?」と尋ねたところ、相手は、昨日「ムカツク」と罵っていた、バスケットボールで同じチームにいる少年であることが判明した。

「今日、数学の補習でも席が隣同士になってさ。始めは嫌だったんだけど、話してみたら、案外イイヤツだった」

「全く、お前はよく知りもしないで『ムカツク』などと言っていたのか」

「あー……うん。ま、いいじゃん、昔の話なんて。ちゃんと話できたんだしさー」

「人を見た目で判断するなと言うだろう。ちゃんと話をしなければ」

 そこで、私はようやく気がついた。

 彼と、私は一度も話をしたことがなかった。


 その日の晩、私は意識して彼を待った。彼がまた出てくるようにと祈っていた。

 私のところに現れる以上、彼を救ってやれるのは、私なのだ。息子と同い年の少年。助けてあげなければならないと思った。

 窓から入る月光の揺らめきの中に、彼が現れた。ゆらゆらと、白く揺らめきながら。

 相変わらずだ。少し困ったような顔をして、白い泥だらけのシャツに、穴の空いたズボンを穿いている。十五年間も、あの日私が撃ち抜いたままだ。

 いくら勇気を振り絞っても、言葉が出なかった。あんなに話しかけようと誓ったのに。

 何故何も言えないのだ。これが魂の力なのか。違う。昨日は「すまん」とつぶやけたではないか。彼の力ではない。

 彼がじっと私を見ている。自分を殺した私を。

 じっと。

 鈍い光のある目つきは、十五年前に死んだものとは思えなかった。美しかった。この美しいものを、私は壊したのだ。そして私はそれを裁かれることなく、のうのうと十五年も生き延びている。


 恐ろしかったのだ。


 聞けなかったのではない。

 聞かなかったのだ。

 「何故私のところへ毎晩やって来るのだ」、と、聞く勇気がなかった。彼の返事が怖かった。私は彼の未来を奪ったことを、認めたくなかった。それはひどく恐ろしいことに思えるのだ。

 可哀想に。天へ昇れずに、困っているじゃないか。

「すまなかった」

 つぶやくと、彼が口を開いた。

「そう言うと思ったから」

 現地の言葉ではなく、我々の話している言葉で返事が来たことに、私は非常に驚いた。その返事の意味は、よくわからなかったけれど。

「と言うのは、つまり、」

「あんたがそう言うと思ったから、ここに来た」

「そう言うと、というのは、詫びの言葉のことか」

 彼はうなずいた。その仕草は、ゲリラ部隊の少年リーダーではなく、息子と同い年の少年のものだった。

「あんた、良い人だから。後で困るんじゃないか、って思って」

 彼はそう言って、私の言葉を待った。しかし、私は何と答えれば良いのか、わからなかった。

「一体、どういうことだ」

「あんたは俺のことを気にしなくていいんだ。あんたが俺を射殺したのは、あの戦いの大将としての、仕事だったんだろ? ただ人を殺したいと思って俺を射殺したわけじゃない」

 なんということだ。

 私は慌てて上半身を起こした。彼は目をパチパチさせて、私を見ているだけだ。

「それだけなのか」

「それだけだぜ?」

「その為に毎晩通ったのか」

「タイミングって言うのか、波調って言うのか、何かが合わなくて、うまく話しかけられなくて、さ。やっぱ、迷惑だった? 寝不足にするほどじゃないと思ってたんだけど」

 彼は寂しげにうつむいて、「それに、あんた、俺と喋りたくなさそうだったから」、とつぶやいた。彼のこんな弱気な表情なんて、想像もしていなかった。

「やっぱ、俺らって今も人間扱いされていないのかなぁ、とかさあ?」

「とんでもない! 君の国は今どこの援助も要らないほど目覚ましく発展している」

「なら、いいんだけどよ。あとついでに、俺の友達はみんな殺さないで、ちゃんと扱ってくれた?」

「もちろんだ、捕虜としてだったが、ちゃんと保護して食事と医薬品を支給した。終戦の後に半年もせず解放されたはずだ」

「そっかー。んじゃ、俺が死んだのは無駄になってないんだー」

 彼はのん気な笑顔で、のほほんとそう言った。

 涙が溢れた。

「当然だろう。君のような子供が」

「いい年して泣くことはないだろ。それとも、安心した? 俺が怒ってると思ってたんだろ? 祟ってるから出てたんじゃあないぞ」

 図星だ。見抜かれてしまっているとは。

「すまなかった」

「だから謝られてもさ」

 彼はにかっと笑って、窓の外、月の方を指した。

「あんた、明日も仕事なんだろ? いい加減寝ないと寝不足になるぜ。俺も、言いたいこと言えたし、聞きたいこと聞けたし、そろそろ向こう行くよ。兄貴も待ってるかもしれない」

 良かった。本当に良かった。

 私の涙が止まらないので、彼は心配げに私の顔を覗き込み、私の肩に触れようとした。ただ冷気を感じただけで、何の感触もなかった。

「あのさ。あと一個、あんたに言いたかったことが」

「何だね。言いなさい」

「あんた、この職向いてないよ」

「ああ、そうかもしれん」



















「……

 彼は私よりはるかに大人でした。

 私にとても大切なことを教えてくれました。

 それ以来、彼とは会っていません。しかし、私は永遠に彼のことを忘れないでしょう。

 来月には、彼の故郷を訪ねてみるつもりです。戦地に戻るのは、この職について初めての経験です。彼の代わりに、彼を育てた、彼の愛した土地のその後を見に行こうかと思って。息子を連れてね。



 以上が私の退職理由です」



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降将 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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