冗助の怪奇ファイル

白椋広通

ろくろ首は首を伸ばさない

 夜明けがあと二時間に迫ったころ。

 佐藤冗助は懐中電灯も持たず、石畳の道……アメリア・シティのイデア・ストリートを歩いていた。

 腰には何十にも巻かれたロープを引っさげ、耳には懐中へとコードが延びているイヤホン。服装は薄汚れ切れ目の入ったトレンチコート。動きやすさと寒さ対策を兼ね備えた彼の定番仕事スタイルだ。

 東区ならまだしも、ここは西区である。人の姿は全く見えない。

 耳元を風が通り、無性に寂しさを感じると、思わず深いため息がこぼれた。

 なぜこんな事しているんだろうなぁ、とブツブツ小言を零す。そうしながら彼は昨日の昼の出来事を反芻していた。



 そもそも事の発端は、彼の職場『白龍探偵事務所』に垂れ込まれた胡散臭い情報に始まる。

「……あぁ? 女の生首がなんだって?」

 事務所の主、サングラスをした大熊猫の白龍は笹をパクつくのを止め、憮然とした感じでボヤいた。

「トム君からの情報です。昨日女性の生首が飛んでいるのを見たっていう」

 そう返す冗助は、今朝のアメリア・アドヴァタイザーを己が雇用主に突き出した。

 アメリア・アドヴァタイザーとは、揺り籠から墓場までがモットーの娯楽新聞である。多くの人が眉根をしかめる低俗な新聞だが、正直、眉根をしかめるような事件しか取り合っていない――冗助にとっては、もっと普通の仕事を取り扱って欲しいのだけど――白龍探偵事務所にとっては、これに勝る情報源は存在しない。

 白龍はアメリア・アドヴァタイザーを受け取り、あぁんと唸りながら中空を睨んだ。

「トムぅ? ……あぁ、トラブル・メーカーの洟垂れか。んなもんほっとけほっとけ、あほらしい。この前を覚えているか? 虹色トカゲを見たって言って騒動おこして、実際は玩具の人形だったろうが」

「……まぁ、虹色のトカゲなのはホントだったじゃないですか。……生きていなかっただけで」

 冗助は事務所の主とともに汚水まみれになって、一日中お宝探しをしたことを思い出しながら、苦笑した。

 トムとはダウンタウンで、身寄りのない子どもたちを束ねている黒人少年の名前である。以前、白龍と冗助に命を救われてから何かと冗助達のために情報集めをしており、自身はドイルのベイカー街遊撃隊を気取っている。頭の回転も早く、情報の鮮度、信頼度も高いのでなかなか頼りになる少年だが、いかんせん早とちりなのが玉に傷だったりする。

 冗助は自身の業務用机から、専用マグカップを発見すると――書類だらけのジャングルになっている机からマグカップを見つけるのは、まさに発見する、と表現するのが正しいだろう――自分のコーヒーを淹れ始めた。横目で見ると白龍がアメリア・アドヴァタイザーを開き読み始めているのが見える。自然とトップに踊っている記事も、目に飛び込んできた。

 ―ホットドッグ売りのマイケル・サンダースが三日前宇宙人にさらわれた! 

 ―ダウンタウンのオンボロ教会に牛もびっくりの巨乳シスター登場! 

 ―未来の合衆国大統領? 移民の味方、フィリピン系アメリカ人であるミッシェル上院議員がアメリア・シティを電撃訪問! 

 ―特報! アメリアの歌姫、エマ・メイデンは実は痔だった! 

 ―リチャード市長、議会に今年度予算を提出


――相変わらず真面目な情報の中で眉唾ものがおどっている。


「あんだよ? お前信じるのか? 俺は勘弁だぞ、もう下水道探検なんてたくさんだしな! あー楽しかったねぇ! 鼻はひん曲がるし、毛並みは汚れるし、ほんと楽しかったよ!」

 よほど嫌な思い出だったのだろう。新聞を持つ手が震えていた。それを見、コーヒーを啜る冗助は「見つけ出して売ったら大儲けだ! ってやる気満々だったのは誰でしたっけ」などと心の中でぼやきながら、

「でも、だからといって無視できるような眉唾ものではないでしょ? もしかしたら新手の『獣人事件』かもしれないじゃないですか」

 冗助は面白くなさそうに、顔を歪ませた。

 獣人事件とは、このアメリア・シティの闇、人外の魔人が起こす殺人事件のことをいう。この魔人というのがくせもので、犯人の多くが人と獣との間を行き来する化物なのである。故に獣人などと、警察は揶揄している。

 冗助達の仕事はそれの被害を事前に防ぐことであり、情報収集を冗助が、実際の対処を白龍が担当していた。

 女の生首が飛ぶなんて、獣人事件ではお決まりのシチュエーションである。ついこの前も冗助は、女の生首を集める殺人犯に殺されかけた。

 ……悲しい話だが、冗助の殺人事件遭遇率は同年代でもトップだろう。

 白龍もそれで思いなおしたのか、新聞からサングラスを覗かせた。

「……まぁ、のっけから否定するわけにはいかねぇが……でもねぇ。……女の生首が飛んでいたんだろ? だったら考えられんのは獣人事件じゃなくて、アレしかねぇじゃねぇか」

 そのぼやきにきょとんとする冗助。

「アレ? どのアレですか」

「飛頭蛮だよ」

 白黒の獣は、まるで今日の天気を呟くようにあっけらかんとして言った。



 カツン、カツンと石畳を鳴り響かせながら、冗助は進む。

 東の空は次第に赤みをおびてきた。視界も良好だ。おそらくあと一時間もしないうちに夜明けを迎えることだろう。

 街中は変わらずシンとしている。商店が並ぶ東区とは違い企業の廃墟ビルが多いここ西区には、人の影も全く見えない。

 ここはアメリア・シティにおいても異端の地で知られている。元々アメリア・シティは十九世紀後半の街並みを残す建築がほとんどを占めていたのだが、今から二代前の市長が近代化を強引に推し進め、外部の企業を引き寄せて出来たのがこの西区である。結果として市民はそれを認めず、企業ビルが立ち並ぶだけの廃墟都市と成り果て現在に至っているのだが。

 ホームレスもほとんど近づかないこの地域は、多くの犯罪の溜まり場だ。そして、奇怪な事件の宝庫でもある。

 トムがくれた情報も、西区の空でポーンと放物線を描いて飛んでいる女の生首を見た、というものだった。

 しかし、結局冗助は今だなんの手がかりも得ることができていない。やっぱり、トムの言っていたことはデマだったのだろうか?

 そう考え、冗助は思わず首をふった。トムのことだ。デマじゃなくても、ナニカと見間違えた可能性だってある。

 寒さと疲れも相成って、そろそろ今日の探索をやめようと考え、来た道を戻ろうと振り返ったその時だった。

 ふと冗助はその足を止めた。どうしてなのかは分からない。あえて言うのであれば虫の知らせと言ってもいい。とにかく冗助は突如体に走った悪寒に、一瞬呼吸を忘れてしまった。

 ナニカはわからない。でも、ナニカが『いる』。

 バクバクと高鳴る心臓。ざわつく血液。命の危機を感じる度に冗助の体はいつも同じ反応をする。

 冗助は辺りを見渡した。自身の五感を研ぎ澄ましながら、違和感の正体を探ろうと苦心する。


 そして……分かった。


――ぴちゃり……ぴちゃり……




 ナニカが滴る、音。耳を澄ませ、自身の心音を聞くつもりでなければ聞くことができないほどの、命の危機に瀕している経験がなければ気付くことができないだろうほどの、音。

 冗助は生唾を飲み込んだ。今ならはっきり分かる。音源の位置がどこであるかが。

 角の先だ。目の前の曲がり角のその奥。石畳の主要道から外れた、闇の軒道の先。

 冗助は脂汗を流しながら、まずは一息ついた。それもとても静かでゆっくりな呼吸だ。


――落ち着け、落ち着くんだ。急いては己が命を奪われる…


 冗助はゆっくりと体を壁に密着させ、そぉっと角から首を覗かせた。

 そこは夜明け前の時間だというのに、大層暗かった。おそらく軒道をつくる大きな廃墟のせいだろう。背の高い二つの廃墟のせいで光らしい光が入らないのだ。これだと日中でもこんな感じなのかもしれない。

 その闇の中で、いかにもわざとらしく、ぽっと灯が浮いていた。誰が使うのか、外灯が設置されているらしい。


 それだけなら冗助の体もこんな反応をしなかっただろう。だが、実際はそうではなかった。外灯の灯に照らされて、ナニカが浮遊していたのである。

 気付いた瞬間、冗助の頭に昼間の記憶がドッと雪崩の如く流れ込んだ。



「ヒトウバン……? なんですかソレ」

 冗助は聞きなれない単語に首を傾げると、白龍は視線を新聞に戻し口を開く。

「あん、知らねぇのか? ……そうだな、お前の母国で言うなら『ろくろ首』になるか」

 そう言われ冗助の頭に浮かんだのは、にょろにょろ首を伸ばす遊女の姿だった。

「あの、ろくろ首って首が飛ぶんじゃなくて、伸びているんですが?」

「……たく。ろくろ首ってのは首が伸びるのと、抜けるものの二タイプに一般的には分けられるんだよ。日本で有名なのは江戸時代の『武野俗談』とかで出てくる伸びる奴でな、飛頭蛮はもう一方の抜ける奴さ。たっしか、古い文献じゃ『捜神記』の朱桓の下女の話が有名だな」

 のんびりした口調ですらすらと語る白龍。逆に冗助は呆けた顔である。話はまだ続く。

「飛頭蛮は限られた地域に住む女だけが持つ体質で、夜中に首が抜けて耳を羽にして飛ぶんだ。一般的には人間に襲い掛かるなんて言われるが、実際は羽虫だけを取って食べる人畜無害な妖怪だ。昔、師匠のとこで世話になってた時会ったことがあるから、間違いはねぇよ」

 だから、心配するこたぁない、と白龍は結びの言葉でしめたが、

「ま、間違いがねぇよって……なんでそんなマイナーな事、詳しく知っているんですか所長! 所長らしくもない!」

「……あのな、こんな内容、今時インターネット使えばすぐ出てくることだろうがよ。そんな驚くことか?」

 冗助のすっとんきょうな声に半分呆れながら白龍が言う。

「で、どうするんだ? ソレ聞いてもまだ気になるのか?」

 冗助はその問にイエスと答えたので、白龍は次のように冗助に助言した。

 飛頭蛮は夜行性なのだから、探すのであれば夜間の外灯付近を探してみること――外灯の光に羽虫たちが群がることを考えてのことである――、そして調査にでかけるのは深夜ではなく、夜明けが迫る時間帯であること。

 冗助がなぜ夜明けが迫る時間帯が良いのかと尋ねると、白龍は笹を噛みながらこう答えた。

「奴らが夜行性なのは既に言ったよな。奴らは首の状態で朝を迎えると、首が体に戻らなくて死んじまうんだよ。だからもし襲われるような――まぁ、んなことないとは思うが、そんな事がありゃ、そういう時間に行った方が襲われる時間も少なく済むってこった」


 で、これだ。

 冗助は生唾を再び飲み込みながら、視線の先にあるものがなんであるかに気付いて、ギョッとした。

 首だ。首が人間の首に噛み付いて、宙に停止している。最初はただここらに住み着いたホームレスが立っているのかと冗助も思いたかった。しかし現実では、人間の生首が、人間の首を口で覆うように喰らいつき、あろうことかその体を持ち上げて、じゅるじゅると血を啜っているのであった。血を吸われている人間は既に頭欠だったが、体格から女性であることが分かった。たぶん服装からして秘書か何かだ。淡い色の高級そうなスーツが、鮮血に染められている。

 聞いた話と違いすぎる! 悲鳴をあげそうになる口を一生懸命塞ぎ、冗助は己が雇用主を呪った。なにが人畜無害だ。目の前で首が人間を襲っているじゃないか!

 こうなったら、冗助のとる行動は一つだった。彼は懐からイヤホンのコードの先、携帯電話を取り出すと、ワンプッシュで登録された電話番号を呼び出す。目の前で残虐事件が繰り広げられているのにも関わらず、ここまで慌てず迅速に行動できたのは今までの経験がものをいっているのは間違いない。

 コール音は暫く続く。その間冗助は「早く出ろ! 早く出ろ!」と必死である。そしてコール音が二十回を越えたころ……

「……! この野郎殺すきか! 何考えてんだよお前は!」

 白龍の怒声がイヤホンから襲いかかった。怒るのは無理もないだろう。実は外に出る前に、冗助は電話の受話器を設置しておいたのだ。人間ならまだしも、聴覚の発達した動物にとって、この着信音は殺獣の一撃に違いない。もしかしたら電話に出るまでのあの時間は、苦しみからその場に転げまわっていた、ということか。 ……え? どこにしかけたかって。

 ……いやそりゃ、白龍の耳に。

「んなことどうでもいいですよ。それよりも情報を下さい……大変なんですよ、今」

 悲鳴にも似た叫び声をあげるのは同情したが、叫びたいのはこっちの方だ。しかしそんなことしたらバレてしまうのは目に見えている。だから冗助は声を殺しながら、白龍にしゃべる時間を与えず続ける。

「今、所長の言ってた飛頭蛮と出くわしたんです。で、その飛頭蛮が人間を襲っているんですよ。……いいですか、人畜無害っていう飛頭蛮が人間の血を啜っているんです!」

『ハァ? なにを言って…………なに? 飛頭蛮が……血をなんだって?』

 怒鳴ろうとした白龍の声色が変わった。怒気から当惑へ。起きてすぐ臨戦状態になれるのは野生の動物の長所だと冗助は思った。

「血を啜っているんです! どうしてなんて訊かないでくださいよ? 僕が訊きたいくらいなんですからッ」

 焦る冗助に対し、白龍は随分と冷静だった。

『本当なのか? 本当に飛頭蛮か? 女の生首か?』

「本当なのかって……そんなの……」

 冗助は再び曲がり角を覗き込んだ。奴は今だ血を啜っている。良かった。まだ気付かれていない。


「女かどうかは分かりませんよ。……ひどい顔だ。皮膚はただれてていて、口は耳まで裂けています……て、あれ?」

 冗助はそこでようやく気付いた。生首が血を啜るというショッキングな場景のせいで事実を蚊帳の外においていたのか、今を思えばそれはあまりに異常な光景だった。

「あの、所長……飛頭蛮って、首の下になにか繋がっていましたっけ?」

 冗助はイヤホンについたマイクへ、あっけに取られた声で返す。よくよく見れば宙に浮かぶ首にはナニカがぶら下がっているのだ。たぶん最初に見たときは血を吸われている女の体に隠れて見えなかったのかもしれない。

 目を凝らしてようやく分かった。分かって、すぐ嘔吐感に見舞われる。飛んでいる生首の下には……内臓がぶら下がっていたのだ。それもただ内臓と一言で終わらせられるものではない。食道から始まり、胃、肺、心臓、十二指腸、小腸、大腸、肝臓、すい臓、腎臓、膀胱……などなど……人間の中身を構成するほとんどが、ごっそりと首に繋がったまま抜け出ているのである。

『何が繋がっているって? ……というより、首から下になにかついていんのか?!』

 白龍の怒声。冗助はビクリと体を震わせ、

「え、えぇ。首から下に内臓がごっそり……ん?」

 そこで冗助はふと、なんとなく視線を自身の足元に向けた。




 血だらけの女の生首が転がっていた。




「ぎゃッ!!」


 おそらく今血をすすられている人間の首だったのだろう。恐怖に見開かれた瞳。頭に上っていた血が引き、青ざめた鬼の形相。いくら死体に慣れてしまった冗助でも、口を閉じることはできなかった。

 結論から言って、それがいけなかった。

「……あ」

 すぐ冷静になる冗助。視線を上に戻すのが怖い。

『……莫迦野郎……気付かれた……な』

 かみ殺した白龍の声が、冗助の頭をもたげるのに一役かう。案の定、今まで夢中で血を啜っていた首が、冗助の存在に気付き、冗助を凝視していた。

「……」

 蛇に睨まれた蛙って、今の自分の事を言うんだろうな。体が動かない。汗だけが流れ、人形と化して……


『逃げろ!』


 ハッとする冗助。白龍の声に固まった体が一気に弛緩。体の奥から生存本能が呼びかける。走れ。生きたければ走れ!

 それからの冗助の判断は早かった。まず今まで来た道を走って戻る。耳からは白龍の「今何処だ」の怒声。冗助は混乱する頭ながらも自分の通ったストリートの名前と地区を言う。正直走ることに必死で白龍がなにを言っているか、冗助には分からなかった。気付いた時には既に通話が切れていた。白龍が切ったのか、自分が切ったのかもわからない。わからないが絶望的気分に陥ったのは間違いない。

 石畳が悲鳴をあげるかのように大きな声を上げる。空は大分明るくなった。夜明けが近い。よくよく周りを見ると、現場からは結構離れた場所まで冗助は逃げていた。

 一息つくため、冗助は足の動きを止め、後ろを振向こうとしたら……

 鳥の鳴くような奇声! バッとふりむく。百メートルくらい後方。口を広げた内臓つき生首がものすごい形相で飛んでくる。悲鳴を上げる冗助。一度止まった足を再び動かすことができるほど、体力は残っていない。目の前に廃墟。ドアはない。入れる。隠れられる。動け、体。動け!

 冗助は心臓が破裂しそうなのも無視して、廃墟に飛び込むように侵入した。中はまだ暗い。しかし冗助の願いも空しく隠れられるような遮蔽物がなく、窓もない。……こうなったら仕方がない。冗助は決心して、腰のロープに手をかけた。

 今の仕事に就いて、真っ先に白龍から教えられたのがロープの使い方だった。別に鉄線を使って物体を切り刻むような、漫画じみた行動ができるわけではない。でも、素人の自分にもできることがあるのだ。実にシンプルな事が。

 ロープ――実はピアノ線を芯にしてある――を両手に持って、玄関に向かって振り返った瞬間だった。

 目前に首がいた。


「ッ!!」

 冗助が両手を突き出すのと、生首が耳まで裂けた口を広げて襲い掛かったのはほとんど同時だった。

 ガッ! ナイフのような犬歯が冗助の首元に突き刺さ……らない。見れば生首の口の端にロープが食い込み、それ以上冗助に近づけないようになっている。生首がロープに噛み付いて動けなくなった構図だ。冗助にとって今日最初の幸運だった。日頃の行いが良かったからだろう。有難う神様。

 恐怖はない。むしろ既に麻痺して、生き残る事だけを考える。今はこの時を耐えられれば……

 が、人生それほど甘くはない。冗助が思わぬ場所に落とし穴が待っていた。

「な、嘘だろ!」

 生首のどこに踏ん張る場所があるのだろう。生首の力押しが始まった。現在は冗助の腕力だけで相手の接近を抑えている状況だ。力負けすれば、喉から鮮血を出すはめになるに決まっている。冗助の背中から脂汗が滴った。

 目前に見える生首の醜態さは目を見張るものがあった。まず腐った肉のような皮膚。赤黒く濡れたのこぎりの様な牙。そしてなにより、その首から下に繋がっている内臓群! 心臓は脈打ち、肺は体内に酸素を送るために上下し、全身が狂喜に浮かれるかのように震えている。生々しく艶々と光る臓器は生首の口からこぼれる腐臭と相成って、強烈な嘔吐感を冗助に与えていた。

 力の拮抗は暫く続いた。十秒、百秒、千秒。既に冗助に時間の間隔はない。ぐいぐいと首を振り――故に内臓がグニャグニャと怪音を放った――冗助に噛み付こうとする生首に注意を払うことに必死で、そんなこと考える暇もなかったのだ。

 が、その拮抗も次第に崩れ始めた。日頃から大した筋力トレーニングをしていない冗助のこと、生首の進行を抑える二つの細い腕には、既に多くの乳酸が溜まっている。汗が全身からにじみ、筋肉という筋肉が震え始める。

 その状況を見てとったのか、生首がグッと力を抜いた。思いもよらず、重心を崩す冗助。その瞬間を狙われた。

 ドン! 砂埃を巻き上げながら、冗助が仰向けに倒れた。痛みに顔をしかめるも、その体から緊張は抜けない。生首は相手の体勢を崩して、一気にケリをつけようとまた襲い掛かったからだ。今度は先ほどとは状況が違う。冗助の圧倒的不利であった。

 相手の口から、粘液性の強い唾液がしたたった。冗助は一生懸命押し返そうとするも、力が上手く入らない。疲れが滝のように世話しなく冗助を襲う。牙が近づく。生首がロープをくわえたまま、最終通告の如く、ニタァと嗤う。

 だめか。冗助が目に涙を浮かべ、そう思った時――


 機械の獣が、地の底から轟くような雄たけびを上げた。


 バチャリと、ギャイッという奇怪な音がして、冗助に襲い掛かっていた力が失せる。変わって、冗助の頭上にびちゃびちゃと得体の知れない肉片らしきものが降りかかった。

「わ、わわわ!」

 情けない声を出し、冗助がもがく。さらにその上に先ほどまで浮いていた臓器群が重力にしたがって落下する。それのかすかに残る脈動に、冗助の体が総毛立った。

「うひゃ! わ、わわわ………あ」

 なんとか臓器群を自身後方へと投げ飛ばすと、ようやく冗助は冷静を取り戻し、前方、音のした方向に視線を送る。

 そこには、黒色の十三ミリ自動拳銃【夜桜】を構えた、サングラス装備の大熊猫が立っていた。



「ッ! 遅すぎますよ! なにやってたんですか!」

「るせぇよ! 西区、イデア・ストリートだけ叫んで切りやがって! しかも廃墟に隠れるたぁ、どういう了見だこの野郎! 助けてもらえただけありがたいと思いやがれ! この糞野郎!」

 半泣き状態で叫ぶ脳漿まみれの冗助に、白龍ははっきりした舌打ちを鳴らすと、牙丸出しで叫んだ。

「……だいたい……なんなんですか、あれは! 飛頭蛮って人畜無害じゃなかったんですか! あれじゃ……」

「飛頭蛮じゃねぇよ」

 白龍は呆れたように、言葉を漏らした。

「ありゃ、『ポンティアナ』だ」

 冗助はえ? と呆けて、投げ飛ばした生首を見やった。頭蓋はすでに粉砕され、内臓がびくついている。

「マレーシアの抜け首の妖怪だ。特徴はてめぇが言ったように、臓器をぶら提げて浮遊する事! 主に人間の生き血をすする妖怪だよ!」

「~ッ! だったらなんでそう言ってくれなかったんですか! 飛頭蛮だって断言したじゃないですか!」

「だーッ! うるせぇ! 女の生首だって言ったのはテメェだろうが! 臓器ありなんて言ってなかっただろ! ボケ!」

 叫ぶ冗助に激怒する白龍。もうこうなったら互いの揚げ足取り状態に突入する。

 だから、冗助は気付かなかった。生首が申し訳程度に浮かび上がり――しかも徐々に頭部が再生している! ――、するすると床を這って、出口に出ようとしていることを。が、

「って、そこ! 逃げるんじゃねぇ!」

 白龍が目ざとくそれを見つけ、大きく振りかぶったアッパーパンチを炸裂。生首はそのまま廃墟の外まで吹っ飛んでいく。そして……

 人のものとは思えない悲鳴が外から上がった。

「! な、なんだ! もしかして外に誰か……!」

「ちげぇよ。見てみろよ」

 白龍がフンと鼻で笑うと、そこには……日光に体を焼かれるポンティアナの姿があった。ようやく、夜明けを迎えたのだ。見れば外には幾筋もの光が走り、廃墟の街並みを照らし始めていた。

「……奴らは『獣人』のような人工生物じゃぁない。夜を縄張りにする天然生物だ。確かに夜ならば再生力も強いが、太陽が上がればこっちのもんだ。……しかし、わからねぇな」

 白龍は冗助を助け起こしながら疑問を呟く。

「なにがです?」

 体中にべったり付いた肉片に憮然としながらも、冗助は助かったことに対してようやく安堵のため息をつく。

「ポンティアナはそれこそ飛頭蛮と立場は変わらねぇ。夜のうちに体に戻らねぇと自分の命も危ないはずだ。……なのになんで危険のリスクを払ってでも冗助を追い回したんだ?」

「……そりゃ……すぐ元に戻る自信があったからじゃないですか? 数分で帰れる場所に体があった、とか」

 その意見に白龍は腕を組む。

「……つまりは、この街の中にいたって訳か? だとしたらなんで最近になってコイツは現れたんだよ? ほんと昨日一昨日からじゃねぇか、目撃されたの」

 こういう事件が起これば、職業柄、すぐに警察から連絡が来る。白龍はそれ故に今回の事件が納得できないようである。冗助がさらに口を開こうとして、ようやく彼らは外にて息絶えた生首の顔を見た。


『……あ』


 思わず驚嘆と、恐怖の嘆息が一人と一匹の口から漏れる。

 先ほどまで冗助を襲っていた妖怪は、もうそこにいない。そこにいるのは、夜の住人の、昼の姿。

「……マレーシア……でしたっけ? その、ポンティアナって妖怪が出るのは……」

 冗助が脂汗をこめかみに滴らせて、わわわと口を動かす。

「ま、まぁ確かに生まれがフィリピンってのも、本当かどうかは怪しい……し、なぁ」

 あの白龍さえもわなわなと体を振るわせる。

 彼らは恐れている。生首の妖怪の正体に。

 だって、このことが世間にばれたら、警察にばれたら……

 誰が彼らが無実であるということの、証人を引き受けてくれるだろうか?

 あまりに、一人と一匹がおかれた状況が危ういものであった。なんというか、彼の信者達はこのことを信じてくれるのだろうか?

 その生首は一人と一匹がよくよく知っている顔をしていた。どれほどかというと、昨日新聞で見たくらい。


 日光にて本来の姿を取り戻した生首は、次期大統領と謳われる、超有名上院議員の顔をしていた。


See you agein?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

冗助の怪奇ファイル 白椋広通 @tottori_kenmin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ