第9話 謀略
「それでね、横山ったら、本当にアラン・黒崎を連れて来てくれたんだ。流石だよな。何も言わなくても、こちらの意図を読み取ってくれる。
一生懸命、早口気味に、旧友自慢をしてくる対象に、俺は人好きのする笑顔を向け、わざとのんびりとした愚鈍な口調で返す。
「はあ。自分なんて、言葉の裏を読むどころか、表の意味すら聞き違えて、しょっちゅう叱られますよ」
「確かに君はまず、人の話をきちんと全部聞くところから始めるべきだったね」
貴方に言われたくないですよ、という悪態は飲み込む。
対象はとても繊細な精神の持ち主なのだ。傷つけて嫌われてしまわれては、仕事に支障をきたしてしまう。
「ほら、あれアランのサイン入りブロマイド。折角貰ったから飾ってみたんだ」
彼の指差す方を見ると、ミレーの『オフィーリア』の複製画の隣に、おつむが軽そうな笑顔の俳優のサイン入りブロマイドが額に入れて飾ってあった。
複製画の下にある棚のこけし軍団といい、どうしてわざわざそこに並べるのか。とっちらかったインテリアの趣味は一般的な感性の人間には理解不能だ。
「それより、横山さんを紹介してくれるのはいつなんです? もう半年くらいお願いしているんですけど。元警視庁捜査一課の若き名刑事なんて、憧れです。物凄い優秀なんだろうな。是非、捜査の極意を教わりたいです」
「ああ、機会があったらね」
さっきまでのご機嫌は何処へやら、対象は素気無く、俺の頼みを受け流した。多分、自分ではなく、横山さんだけが褒め称えられて、嫉妬しているのだ。実に分かりやすい、愛い奴だ。
これがあの無番地の中でも伝説的なエーススパイだというのだから、人の運命とは残酷なものである。
あの方からは、彼の近況を事細かに伝えるよう仰せつかっているが、正直、あまりの落ちぶれっぷりに、報告を躊躇うこともしばしばある。
こいつの残念な言動が記された報告書を読む度、彼女は大きな目を悲しそうに伏せ、嘆息する。
対象の様子を伝えるだけでなく、警護するのも自分の仕事と割り切り、ありのままを書いてはいるが、彼の現役時代を知らぬ俺でも、遣る瀬無い気分にさせられてしまうのはしょっちゅうだ。
ミルクと砂糖をたっぷり加えた甘ったるいコーヒー(御手洗巡査はブラックコーヒーは苦くて飲めない設定なのだ)を口に含み、頭の片隅で今日の定期報告の文面を練っていると、手持ち無沙汰になったらしい対象は、ごくごく自然に左手で尻を2、3回掻いた。
向かいのソファに座る俺に見られていても、御構いなしである。
恥ずかしいと感じる神経は既に蕩けて、鼻水にでもなって流れ出てしまったのだろう。
30代前半の男ざかりで、マネキン人形のように整った顔の美男子なのに勿体ない。
彼は、精神年齢こそ子供並みになってしまっているが、決して、知能全てが低下してしまったのではなく、所謂『お勉強』は現在でも得意だ。
だが、場の雰囲気を読む力や物事を深く考える力、周囲に気を配る力は標準以下にまで落ちてしまっている。
どれも鋭敏過ぎると、心が参ってしまうから、自己防衛のため、捨ててしまったのだろう。
「ちょっと、お尻掻くのやめてくださいよ。折角の男前が台無しですよ」
一応注意してみると、彼はきょとんとした顔つきで俺と自分の左手を交互に見た。分からないんだな、何がいけないのか。
「ダメ? だって痒かったんだもん。大丈夫、女の人とお付き合いしたり、結婚する気はないから」
「そういう問題じゃないですから。紳士のマナーです」
あの方が辛そうになるのを見たくなくて、つい強めに言い聞かせると、対象は露骨に不機嫌になった。
頬を膨らませ、文句を垂れる。
「紳士とか君に言われたくない。何だよ、自分だって、熊みたいだし、すえた臭いの制服着てるくせに」
ガタイが良いのは生まれつきだが、制服は冴えない巡査という役柄の衣装だ。わざとやっている、元諜報員なら、これくらいのカバー見抜けよ。
俺はこいつの過去を知らないことになっているし、喧嘩になってはいけないので、言わないけどさ。
「熊みたいなのと紳士は関係ないでしょう、もう。ところで先生、明日までに買ってくるものはありますか? 今日は署に行く用事があるので、横須賀中央の方まで足を伸ばしますが」
「うん? 特にないよ。中央の駅の周りなら、賑やかだけど自分でも行かれるし」
茶受けの煎餅をつまみながら、対象は答えた。ポロポロと食べかすが落ち、毛玉のついたセーターの胸や腹に溢れたが、気にもかけていないようだ。
「そうですか。承知しました。ただ、あの辺はデパートや銀行もありますから、スリや強盗とかには気をつけて行ってきてくださいね」
「え? 強盗出るの?」
煎餅を食べるのを中断し、引きつった顔で聞き返してきた。
「一般論です。大きな事件は起こっていませんが、万引きやスリの検挙数はそれなりにあります。先生、ぼんやり歩いているように見えるから、気をつけてくださいね」
「……うん」
俺の注意喚起を装った脅しに、内弁慶で臆病な便利屋は神妙な表情で頷いた。
少しかわいそうだが、これで良い。彼を事前に危険から遠ざけておくのも、俺の任務の一つだ。
「あ、あのさ、やっぱ、お願いしたいものあった。欲しい本が発売されてて、裏通りの本屋さんに行って欲しいんだ」
狙った通り、対象は一人で行くのは怖くなってしまったようだ。不器用だが親切な巡査を演じ、欲しい本の題名や著者名、出版社などをメモに書かせる。
「もう、無理しないで、最初から自分に任せてくれれば良いのですよ。先生は足も悪いし、か弱い方なんですから」
「そうだね。ごめん、できることは自分でやらなきゃいけないって思うんだけど、怖くなっちゃって」
「怖いならやる必要ありません。背伸びせず、ありのままで良いのですよ」
折角、良いことを言ったのに、奴は既に、会話に飽きたようで、セーターについた煎餅のカスを拾い口の中に放り込むのに熱中していた。
まあいいか。
このまま、復活せず愚者のままでいてもらった方がこちらも助かる。
あの方すら、俺づてに耳にする彼の変わりように衝撃を受け、悲嘆はするが、元の完全無欠の敏腕諜報員に戻せとは決して言わない。
むしろ、安全のためには、現状維持が好ましいと悩ましげに吐露していた。
「さて、そろそろ帰らないと、主任に怒られちゃいます。先生、また明日」
「うん。また明日ね」
対象は玄関先まで付いてきて、無邪気な愛すべき笑顔で見送ってくれた。
便利屋を出、路地を曲がり、死角に入ったところで、俺はポケットからたばこを取り出し、一服した。
自身もああなる前までは、相当な愛煙家だったくせに、現在の彼はたばこは一切絶っており、他人が吸うのも煙いと嫌がる。
おかげで、便利屋にいる間は、喫煙は厳禁なのだ。
昨晩、交番ではなく、本来の所属先の上司から、新たな指令が下った。
俺はそんなことするまでもなく、対象は俺たちにとって無害だと断言できると思うのだが、現場を直接知らないお偉いさんたちは、俺の報告だけでは納得がいかないらしい。
いやはや、俺もまだまだ未熟だ。
あの方も奴の無害認定のためならと部下たちの申し出を了解したそうだが、内心は穏やかではないだろう。
くわえたばこで、対象から受け取ったメモを取り出し広げると、癖字で『女神の箱庭〜飼育される男たち』という扇情的な書名とエロ専門のカストリ誌の名が記されていた。
人の趣味趣向に口は挟みたくないが、濃さそうな内容のエロ本を他人に買って来いと言える無頓着さには感嘆の域だ。
呑気で良いよな、あいつは。
正に『女神の箱庭』で難しいことは考えず、嫌なことには目を瞑り、ぬくぬく幸福に生きている。
彼女によって、守られていることにも気づかずに。
肺いっぱいにヤニを吸込み、盛大に紫煙を吐き出す。
あーあ、いつまで俺は愛すべきお馬鹿さんのお守りを続けなきゃいけないのか。
元敏腕スパイの転落ぶりは、悲しくはなるが観察していて飽きないし、伝説的な存在のあの方と、直接やり取りができるのは、諜報活動に携わる者としては最高の経験だ。
けれども本音を言えば、前みたいに、左翼組織や国際的な反社会勢力の内偵調査とかもやりたい。
目の前の仕事に尽力するしかないのが役人の性なので、我慢するしかないが。
かつて、俺の先輩たちは満州国のことを『謀略の地』なんて呼んだそうだけど、この横須賀も、大概だ。
たった一人の阿呆になってしまった元諜報員を中心に、大小いくつもの企みが交錯している。
例えばほら、あそこの家の生垣の陰に隠れている男。ありゃ、ここ最近、急に見かけるようになったのだが、戦前から横浜、川崎に縄張りを持っている情報屋だ。
何で管轄外に出張してきているのかはまだ分からないが、誰かに雇われ、俺と対象の関係性や何故か俺の素性まで調査しようとしているのは、既にこちらも把握している。
良い度胸じゃねえか。若いからと侮るなかれ、俺もいっぱしの公安刑事。在野の奴らには負けない。
勝負を仕掛けてくるなら、いつでも受けて立つ。
呆けた元エース諜報員には、絶対に手出しはさせない。
あの方の現腹心の誇りにかけて、守り抜こう。
横須賀では、今日も水面下で数多の
了
横須賀イントゥリーグ 十五 静香 @aryaryagiex
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます