第8話 夜明け
急な坂道からは、日の光を反射し、群青色に輝く海と横須賀の街が一望できた。
下界まで続く石段の両脇には、背の低い常緑樹や雑草が茂り、崖の上の僅かな隙を縫うように切り開かれた平地に、モダンな造りの一軒家やアパートが建てられている。
昨今は、大分見慣れてきた風景だが、絶壁のすぐ側に建つ家々を目にする度、横山はお節介にも土砂災害の心配をしてしまう。
「この辺の地盤は岩だからね。危なっかしい建て方だけど、意外とそういう心配は少ないんだよ」
以前、平地の洋食屋に昼食を食べに行った帰り、唐澤が教えてくれた。
「独特だよね、この景色は。これぞ横須賀だ。実際は、上大岡辺りからぼちぼち見られるけど」
片手をポケットに入れた亜蘭も立ち止まり、絶景を見下ろす。
昨晩、仕組んだ企みが成功した便利屋は、いつになくご機嫌だった。
人気俳優と欧米流の熱い挨拶を交わした後、探偵に買わせた食材と家庭菜園で採れた野菜をふんだんに使った海鮮寄せ鍋を二人の旧友に振る舞った。
予告通り、腹を触ってきた亜蘭にも怒らず、くすぐったいと身をよじりながらも、喜んでいた。
始終、明智が訪ねてきた時の話や、近所の人の話など、他愛もない話を身振り手振りを交え、熱中して語る唐澤に、横山は、これは夜通しの宴会になるかと覚悟をした。
が、時計の針が天辺を過ぎた頃、便利屋はとろんとした目つきになり、うつらうつら船を漕ぎ始めた。
やがて、自主的に寝室に移動し、支度をしてベッドに潜り込んでしまった。
すやすやと寝息をたてる寝顔はあどけなく、良い夢でも見ているのか、薄く微笑んでいた。
子供かよと呆れながらも、亜蘭は昔より、いくらかふっくらした唐澤の白く滑らかな頬を指先でそっと撫で、悪態をついた。
「畜生、なんて顔で寝るんだ。気持ちよさそうにすやすやとさ。不覚にも可愛いと思っちまったじゃねえか」と。
はしゃいで疲れたのか、熟睡している便利屋は、頬を突かれようと、側で苦言を呈されようと、起きる気配はなかった。
スパイとしては、どう見ても失格だった。
「あのさ、昨日アニキが言ってた推理の話だけど、いいかな? あの後、実際に変わってしまったあいつを見て、色々考えてたら、ちょっと新しい可能性に気付いちゃったんだよね」
長い階段を下っていると、亜蘭が不意に立ち止まり、意を決したような面持ちで切り出してきた。
呼び止められ、先を歩いていた横山も足を止める。
「構わないが、どういうことだ?」
昨日の唐澤の様子に、何か引っかかるようなところはあっただろうかと思い返してみたが、特に思い当たることはなかった。
いつもより機嫌が良かったくらいだ。
「唐澤のことは正直、この目で見るまで、GHQに目をつけられないようにとかで、馬鹿になったふりをしているのじゃないかって疑っていたけど、実際会って確信した。あれ、本物だな。演技じゃねえや、あいつ。本当に少し足らない普通の人間になってた」
「最初から言ってただろ、詐病じゃないって」
だってさあ、あの皇帝佐々木様がだよ? 俄かに信じられないよ、と映画俳優は唇を尖らせる。
「でも、壊れてしまったと言うのはどうかとも感じたよ。何だろう、何故か『憑き物が落ちたみたい』って言葉がしっくりくる気がした。ひょっとして、あいつは、昔の方が良くない状態で、今はやっと、本当の自分を取り戻せて伸び伸びしているんじゃないかって思っちゃうんだ。訳分からないよね」
眼鏡の親友も似たようなことを口にし、悩んでいた。横山は唐澤の現状を良しとは考えていないが、迷ったことが一回もないかと問われれば、肯定はできない。
「是非はともかく、あれが今の唐澤君だというのは理解せざるを得なかったんだけど、同時に違和感もあったんだよね」
「違和感?」
亜蘭は唇だけで話すスパイ独特の話し方に切り替え、続けた。
「うん。違和感。美しい海の街で、心に深い傷を負ったせいで、ちょっと抜けてるけど幼気な青年に生まれ変わった元敏腕スパイが、優しい地元の人たちに支えられ、慎ましくも穏やかで幸せな毎日を送り、癒されていくって、物語としては面白いけど、現実としてはできすぎじゃない? それに、裏社会ともパイプのあるアニキや、俳優なんて目立つ仕事をしている俺、実業家として手広く金儲けしてるサクラが、元陸軍のスパイだという過去を暴かれず、好き勝手やってるのも変だよ」
「それは、当麻さんが……」
「ああ、旭ちゃんのおかげさ。でも、アニキが推察しているみたいな話じゃないと思うんだ」
「どういうことだ?」
促され、根明の同期は滑らかな口ぶりで、持論を展開した。
「旭ちゃんは、出頭後も元気でやっている。それどころか、どういう立場にいるのかは流石に分からないけど、多分それなりの権力を持っていて、俺たちの平和な生活を陰日向から支えてくれているんじゃないかって思うんだ。だって、もし旭ちゃんが出頭後、情報を渡し、その後は殺されたとか獄に繋がれているのだとしたら、出頭直後はともかく、2年半近く経った今も、市井に戻った奴全員が平穏に暮らせているっておかしいよ。進駐軍って、そんな甘ちゃんではないだろう?」
言われてみれば、さもありなんなのだが、考えてもみなかった可能性だった。
「旭ちゃんは、自分のせいでぶっ壊れてしまった唐澤のことは、特に重点的に見守っている筈だ。罪滅ぼしという意味もあるだろうけど、あいつは、俺たちの中で、最も弱く、守ってやらなければならない存在のくせに、旧陸軍の諜報機関のエースという立場上、狙われやすい位置にいる。現役スパイとしては使えないが、頭に残っている戦時中の記憶は、まだまだ利用価値がある。捕まえて、拷問にでもかけて、知っていることを吐かせようと考える勢力もあるだろうし、そうはさせまいと考える勢力もあるはずだ。そもそも、スパイとして使えないというのも、会って話してみないと判断できないのだから、何らかの接触をされていてもおかしくないのに、何もないのだろう?」
少なくとも本人からは何も聞いていない。すっかり怖がりになってしまった彼なら、何かあったら、すぐに自分たちに助けを求めるはずだから、何も言わないということは、何もないのだろう。
「俺はさ、旭ちゃんが唐澤の側に自分の腹心を送り込み、奴が穏やかに暮らせるよう、都合をつけてやったり、さりげなく守ってやっているんじゃないかって思うんだ。なあ、貴様以上に、あいつを側で世話を焼き、かつ盾になっている奴っていないか? もし、そういう奴がいたら、すげえ怪しいと思うんだけど」
「俺以上にか?」
櫻井は、先日、経営するパチンコ屋の新店舗を横須賀にも出店したいと話していたが、計画は着手したばかりで、現地調査すらまだ済んでいないとボヤいていたので、除外される。
そもそも、自分も櫻井も旭からすると、保護すべき対象なので、危険な目に遭いかねない元エースのボディガードを務めさせはしないだろう。
まさか、けむくじゃらの犬ってことはないだろうし。
1、2分考え、思い当たる人物が一人だけいることに至った。
「あ、いた」
「誰? 誰?」
身を乗り出してくる亜蘭を、一歩下がって避けつつ、その人物について説明した。
「近所の交番の若い巡査だ。俺は会ったことはないのだが、日頃から巡回ついでに便利屋に入り浸ったり、唐澤の代わりに繁華街に買い物に行ったりしている」
20代前半の青年で、警官にしては鈍臭く、先輩には叱られてばかり、後輩には先を越されるダメ巡査だと聞いている。
唐澤が横須賀に引っ越してすぐ、近所の交番に異動してきたという彼の夢は大きく、本部の捜査一課強行犯係刑事だそうだ。
「特高勤務経験もある、警視庁の元敏腕刑事の友人がいるって話したら、是非会いたいって騒いでさ。断るのに苦労したよ」
去年の夏くらいか、そう苦笑まじりに報告してきた旧友に、元刑事はともかく、特高の話は迂闊に触れ回るなと釘を刺し、その話はそれきりとなってしまった。
しかしもし、彼が亜蘭の言うような役目を負った者であるなら、矢鱈、自分に会いたがっていたというのも、単なる憧れとは別の理由が浮上し、意味合いも異なってくる。
「唐澤曰く、さぼり癖はあるし、容量が悪くて、仕事もできないらしいが」
「長く潜入するなら、できない奴を装っていた方が、やりやすいよね」
「だな……。制服警官が頻繁に出入りをしていたら、やましいことを考えている奴は近寄りづらいし、口では馬鹿にしているが、唐澤はその巡査に心を許している。ボディガードとしても密偵としても、最高の立ち位置を押さえている」
考えれば考えるほど、彼以上の適任者はいないと思えてくる。
「そいつを取っ掛かりに、旭ちゃんまで迫れるかもしれない」
思慮深げな表情で、亜蘭が呟いた。そよ風が彼の長めに伸ばした髪を靡かせ、映画のワンシーンを切り取ったかの如く、絵になっていた。
が、次にはへらりと俳優は軽薄に破顔した。
「なあんてね、憶測に憶測を重ね過ぎて、ほぼ妄想みたいな推理だよ。あはは、考え過ぎだよね」
「いや、そうでもない。ありがとう。その発想はなかった」
「はい? ええええっ!」
自分から披露した推理のくせに、こちらが乗り気だと知り、亜蘭は突拍子もない声を上げた。
「すまない、先に帰っていてくれないか? 俺は少し調査をしてから帰る。神奈川方面に強い情報屋にも根回ししておきたいし」
「アニキ本気なの? だったら、俺も……」
「貴様はダメだ。顔が売れ過ぎていて、隠密調査には向かないし、貴様を待っている熱烈なファンも多いのだろう?」
「まあ、そうだけど」
「こっちは俺に任せて、今は仕事に専念しろ。当麻さん探しは貴様以外でもできるが、アラン・黒崎は貴様しかできない」
「……分かったよ」
完全に納得はしていないようだったが、人気俳優は渋々了承した。
「けどさ、念のため断っておくけど、もし全てが俺の予想どおりで、アニキが旭ちゃんまで辿り着けて、更に運の良いことに、彼女が戻ってきてくれたとしても、唐澤が復活する保証はないからな」
それは、横山も十分覚悟している。当麻旭が無事帰還すれば、唐澤を苦しめる元凶は取り除かれるが、原因がなくなったところで、変わってしまったものが元に戻るとは言えない。
伝染病患者の体内から、ウイルスを取り除いたからといって、必ずしも元の健康体まで回復するとは限らないのと同じだ。
最終的に全快するにしても、時間がかかるかもしれないし、後遺症が残るかもしれない。
最近の便利屋のぽわんとした締まりのない、惚けた顔を見ていると、回復は難しいように感じられる。
でも、構わない。
どう生きるかなんて、最終的には、彼自身が決めることだ。
当麻旭の帰還を経ても尚、緩い生き方を選ぶなら仕方ない。
まずは、行方不明の女所長を連れ出し、彼が選択できる機会を作り出してやるべきだ。
そして、唐澤の精神状態なんかよりずっと、旭を探し出すことで、確実に好転できることがある。
「唐澤がどうなるかは、実際に当麻さんを連れて来ないと分からない。だが、いくら仕事をするのに妻帯者の方が良いと勧められようと、地元の小町娘と見合いさせられようと、独身を貫いている馬鹿眼鏡は違うんじゃないか?」
横山の問いかけに、あ、と亜蘭は声を上げ、手を叩く。彫りの深い整った顔に満面の笑みが広がった。
「当麻さんを見つけたら、俺は一番にあいつを彼女の前に引っ張りだし、告白させるつもりだよ」
探偵は、往年の唐澤を真似、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみようと試みたが、ぎこちない不恰好なウインクになってしまい、後悔した。
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