第7話 推理

 春の夜の海辺は冷える。


 山本と小泉は空き地に停めていた唐澤の自家用車の中に移動した。



「さっき話したとおり、終戦直後の唐澤は、前のまんまの完璧超人だった。進駐軍がやって来る前に行った機密資料などの廃棄は、現場責任者の一人として、立派に指揮を執っていた。その後の解散まで、あいつは当麻さんを補佐して活躍した。俺は生田の訓練施設の方を主に担当していたから、事細かに本部で何があったかは見ていないけどな」



「見ていなかったから、どうしてあんなことになったか、はっきり言えないということ?」



「それもあるが、側にいた連中も唐澤が壊れてしまった瞬間自体は分からないと言っていたから、例え近くにいても、気づけたかは自信がない。ただ、奴がおかしくなったのが、無番地の解散作業が全て終わり、彼女がGHQに出頭した後のいつか、というところまでは分かる」



 無番地所長、当麻旭は昭和20年10月に、自らGHQ本部に出頭して以来、今日まで行方不明になっている。

 戦後、多くの帝国軍人や政治家が戦犯として逮捕、起訴されているが、彼女の名はその中にはない。

 生きているのか、死んでいるのか、捕らえられているのかも分からない。

 誰にも相談することなく、『自分は絶対に大丈夫なので、心配せず、それぞれの新しい人生を生きるように』と最後の命令を記した置き手紙を残し、女性スパイマスターは去ってしまった。



「旭ちゃん、消息不明のままだもんね。俺と違って、無事ならちゃんと連絡して来るよな、あの子なら……」



「何か事情がない限りは、そうだろうな。出頭する直前、執務室に残っていた奴らと彼女は一悶着あった。止めるよな。別に呼び出しを受けていた訳ではないのに、集めた情報手土産に、わざわざ素性を明かし、自ら出頭するなんて。飛んで火に入る夏の虫だ。当麻さん本人は平気だと言い張っていたらしいが」



「そりゃそうだ。俺がいたら全力で止めていたよ。ぶん殴って縛り付けてでも止めるよ」



 悔しげに、小泉は吐き捨て、助手席横の窓ガラスに拳を叩きつけた。今更もしもを論じてもどうにもならないが、彼の苛立ちは山本も痛い程によく分かる。



「うん……。最終的に、出頭に反対し、力づくで止めようとした連中を得意の弁説で宥め、黙らせたのが『奴』だった。その場にいたのは、若い奴ばかりで、誰も古参の一期生かつ組織のエースには対抗できなかった。結果、あいつはその場に居合わせた全員の説得に成功してしまった」



「何で……。あいつなら旭ちゃんがどうなるかなんて、分かっていたはずだろう? 何故止めずに、後押しするような真似をした。それとも、その時には既に……」



 信じられない、と同期は頭を抱える。



「……ここから先は、俺の勝手な推測でしかない」



「それさっきも聞いたから。早く言ってよ」



 深呼吸を一つし、この2年、誰にも話さず、胸に秘めてきた推理を披露する。

 誰も幸せになれない、聞いても嫌な気持ちになるだけの代物だが、現時点では、相当の説得力はあると言えてしまう見立てだ。



「正しかったからだ」



「はい?」



「当麻さんの判断は正しかった。最大公約数的な意味ではな。彼女が人柱になるのが、俺たち、元無番地諜報員の平穏な余生を守る方法としては、最も効果的かつ最小の犠牲で済む策だった。あいつは俺たち凡人と違い、常に正しい道を選択できる男だった。自分の感情を抜きにして。だから、当麻さんの出頭を支持するしか、奴には選択肢がなかった」



「……それで、犠牲を払うに値する結果は得られたのか?」



 結果は大いにあった。

 過去を掘り返されることなく、自分が探偵として、忙しく働いているのも、小泉が売れっ子俳優の階段を順調に上っているのも、少なからず彼女のおかげだ。



「貴様も少しは聞いているだろう? 進駐軍が中野学校出身者を始め、日本の元スパイたちを集め、諜報工作をしているという噂は。彼らは戦犯訴追免除をちらつかされ、言うことを聞かされている。確かに、うちは中野みたいな活躍はできなかったが、全く役に立たなかった訳ではない。無理に叩けば多少の埃は出るし、敗戦直後のGHQは叩けるところはとことん叩いていく方針だった。おまけに、最近は対ソ工作のためなら手段を選ばない傾向に変わってきている。けど、現状、元無番地の消息が判明している諜報員の中には、進駐軍に事情聴取された奴すら一人もいない。これって、不自然過ぎないか?」



「旭ちゃんが、情報と自分の身柄を引き換えに、俺たちには手を出さないと約束させたってことか?」



「証拠はないが、十分あり得ると思う。当麻さんも奴も、それを見越したからこそ、犠牲を払うべきだと決断した」



 皆さんは全員、大事な職員です。捨て石になんて絶対にしません、と常日頃から彼女は語っていたが、有言実行だったのだ。

 けれども、自分を捨て石にしてしまっては元も子もないではないかと、この2年と数か月、山本は一人何度も考え、唇を噛んだ。



「けど、仮にそうだとして、何であいつは壊れちゃったんだよ。やっぱり、犠牲が大き過ぎたと気づいて、自分の価値観とかが揺らいじゃったとか?」



「一因ではあろうな。まあ、奴は、当麻さんの失踪は覚悟していたと俺は推測している。受け止めるにはきつい結果だが、自分なら、それくらいはできるとあいつは見込んでいたに違いない。そして当麻さんも、奴になら任せられると信頼していたから、否、甘えていたから、一番難しい役回りを奴に託した」



「ちょっと待てよ、旭ちゃんとあいつは共犯だったってこと?」



 緑がかった瞳を見開き、小泉は声を荒げた。



「共謀の意思確認が明示だったか、黙示だったかは不明だが、お互いの意図を理解してはいただろう。所属諜報員の身の安全の保証のため、当麻さんが人柱になるまでは、二人の計算どおりだった。しかし、ここで誤算が発生した」



「明智か? もしかして。そういやあいつ、旭ちゃんの右腕だったくせに、そん時どこ行ってたんだよ」



 ヒントを仄めかすまでもなく、正解に達してくれた。この男は単なる根明馬鹿ではないのだ。

 話が早くて助かる。



「ご明察だな。明智は仙台に出張がてら、帰省させられていた。あいつがいたら、正しさも損得も度外視して、全力で当麻さんを止める。それが彼女も分かっていたから、遠ざけたのだろう。まあ、その辺は、明智程ではないが、俺たち東京近辺にいた一期生も信用ならなかったのだろう。俺は訓練施設の撤収作業に専従させられていたし、他の奴らもそれぞれ、本部以外の場所に遠ざけられていた」



「あいつを除き、俺たち一期生は、スパイなんて向いていない馬鹿揃いだったからな」



「けれど、実際には、事後に当麻さんの失踪を知った明智は大騒ぎせず、当麻さんを信じようと、皆を勇気づける方向に動いた。あれはあれで、大人になっていたんだ。今、当麻さん奪還のため、GHQに乗り込んだところで、事態を悪化させるだけだと分かっていたのだろうし、もしかしたら、当麻さんの決死の覚悟によって守られた平和を、無駄にしないのが自分たちの役目だと察したのかもしれない。でも却って、奴は無理に楽観視しようとしている親友の姿に傷ついたのだと思う。自分が詭弁で皆を欺いたせいで、一番の親友の大事な女を奪ってしまったと悟り、恐ろしくなったのかもしれない。当麻さん一人の問題としては、受け入れられたのに、そこに明智を絡めて考えた途端、犯した罪の重さに耐えられなくなった。嘘はつきなれていたはずだったのに、突如、否、ついに自分のついた嘘に足を取られ、精神は徐々に消耗し、潰された」



 特定可能ななんてものは実はなく、当麻旭の失踪後、彼は少しずつ確実に消耗し、やがて誰がどう見てもおかしな状態にまで達したのではないかと、山本は考えている。


 外野の勝手な憶測でしかないが。



「で、佐々木君は、罪の重さに耐えられず、精神が崩壊し、完璧超人から幸せなお馬鹿さんに転落してしまったということか。あれ? でも、相変わらず明智とは仲良くやってなかったっけ? 罪悪感で顔も合わせられないとはならなかったのかなあ」



 小泉は尖った顎先に人差し指をあてがい、首を傾げた。



「後ろめたいからこそ、必死に明智に縋ってるのだと思う。ごめんなさい、でも、寂しい、苦しいんだ。捨てないでくれって」



 心を許し、甘えられる家族は唐澤にはない。学生時代からの親友くらいしか、心底安心できる相手はいないのだろう。

 罪悪感と依存心の狭間での葛藤はあったのだろうが、後者が優った。



「相反する気持ちに引き裂かれないよう、おかしくなってしまったってのもあるのかもな。……確かに、堪える話だね。下手したら明智までおかしくなりそうだ」



「絶対誰にも言うなよ。あくまで俺の憶測でしかない」



 改めて念押しをする。



「言わないよ。しかし、本当にそうなら、旭ちゃんも残酷なことをやっちまったな。明智は、旭ちゃんに未練はあれど、順調に新しい人生を生きているけどさ、佐々木はどうよ。結局、何もかも一人で背負いこみ、潰されて、ボケかけたご隠居状態だ。まだ30過ぎなのに。旭ちゃん、どこいるんだか知らないが、自分のケツくらい自分で拭きに帰ってきて欲しいもんだよ」



「そうだな。当麻さんはあいつのことをとても尊敬していたから、甘えてしまったのだろう。せめて、彼女には、どこかで元気に暮らしていて欲しい」



「元気だよ」



 強く断言するような口ぶりで、前向き思考の同期は言い切った。


 車内に、暫しの沈黙が流れた。




 さりげなく腕時計を確認すると、針が6時半を指していた。いよいよ戻らないと、心配性で寂しがり屋の便利屋が不貞腐れてしまう。

 隣に座る俳優に、今一度意思確認を行う。



「洗いざらい話したところで、そろそろ帰らないと、唐澤が拗ねてしまう。どうする? 一緒に来てくれるか?」



 薄暗い闇の中、白い歯を輝かせる胡散臭い笑顔で、アランは頷いた。



「いいよ、行ってやろうじゃないか。約束は守るよ。何も考えず、笑って会うよ。腑抜けて馬鹿になってしまったけど、幸せなんだろう? 佐々木は。幸せなのは良いことだよ。是非、大福みたいなもちもちのお腹を触らせて貰いたいものだね」



 相変わらずの軽口に失笑しつつ、横山は一言だけ注意を促した。



「『佐々木』じゃない、『唐澤』だ。絶対に本人の前では佐々木って言うなよ。凄く嫌がるから。それから他の奴のことも、スパイネームでは呼ぶな。機嫌が悪くなる」



「はいはい。でもめんどくさくなったね、奴も。サクラなんか何て呼ぼうと全然気にしてないぜ。『名前なんてどうでもいい』って」



「憎たらしいくらい図太い奴と比べるな。今の唐澤は積もりたての淡雪みたいに繊細で真っ白な奴なんだよ」



 分かった分かったと軽く流す芸名アラン・黒崎こと本名 橘亜蘭たちばなあらんに、一抹の不安を抱かずにはいられなかった。

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