第2話 布団の中で震えることしかできない意気地なしな男の話
1
2008年9月15日。世界の金融界が超ド級の激震に見舞われた。リーマンショックである。
豪ドルは81円まで下落。沢田は生きた心地がしなかった。証拠金維持率が大変なことになっている。このまま放置してロスカットされれば諭吉2個大隊の9割以上が玉砕する。耐え難い痛手だ。
維持率保持の手段はふたつある。計算式の分子を大きくする、即ち口座の資金を増やす事。もうひとつは計算式の分母を小さくする、つまりポジションを損切って取引証拠金を減らす事だ。
だが、沢田は損切りだけはしたくなかった。含み損の額が容認できないほど膨れ上がっていたからである。となれば残る手立てはひとつ。新たな資金を口座にぶち込むしかない。
「金だ。金を集めるんだ!」
沢田は金策にひた走った。銀行、郵便局、証券会社。とにかく自由にできる諭吉部隊を召集し、全てFXの戦場に投入した。維持率100%の保持、これは絶対である。
更にリスクヘッジのための円買いポジションも取った。できるだけのことをしてこの危機を乗り切りたい。これまでの人生でここまで真剣に物事に当たったのは初めてだった。
「ううう、だめだ、円高が止まらない」
沢田の努力も空しく維持率は下がり続けた。豪ドルは一旦90円近くまで戻したものの、10月が近付くにつれて再び80円に向けて下落していく。来月大幅な利下げに踏み切るらしいという噂が流れたからだ。
「神様、お願いします。助けてください」
全諭吉部隊を戦地に投入した今、沢田にできるのは神に祈ることだけだった。
10月7日、オーストラリアの中央銀行は1.00%の利下げに踏み切った。市場の予想を超える大幅な利下げである。豪ドルは急落した。その日のうちに80円を割り込み70円前半まで下落。2日後には70円を割り込み60円前半まで下落した。凄まじい下落率である。沢田はまるで夢を見ているような気持ちだった。今、目の前で起きていることが現実とは思えなかった。
「嘘だ、誰か嘘だと言ってくれよおおお」
8月から続いていた食欲減退は10月になっても回復しなかった。何を食べても美味しく感じられなかった。たこ焼きはまるでゴムを噛んでいるように思われた。美味しくないから何も食べたくない。9月に入ってからの沢田の食生活はひどいものだった。1日に炊く白米は1合だけ。朝は半合の白飯と納豆。昼は牛乳だけ、あるいは野菜ジュース。夜は朝の残りの半合の白飯とキャベツが入った味噌汁。たまにタクアンを付ける。キャベツが高くて買えない時は具なしの味噌汁である。自宅警備員の明四津日乃出よりも質素な食生活だ。
「お金、節約しなくちゃ」
なにより金を使いたくなかった。あと諭吉1人、いや野口1人が生き残っていればロスカットを免れた、そんな事態が起きるかもしれない。そう思うと極力手元に戦力を残しておきたかったのだ。
「何をしても楽しくないなあ」
沢田の無気力は食事だけではなかった。楽しかったはずの読書、オンラインゲーム、アニメ鑑賞、何をやっても喜びを感じられなかった。それらは自分から遠い世界にある別の出来事のような気がしてならなかった。
そしてそれは自分自身にも向けられた。今、ここにいる自分、これは本当の自分ではないのだ。沢田ともあろうものがこんな失敗をするはずがないじゃないか。こいつは間違った自分。正しい自分は今頃大量の売りポジションを抱えて大儲けしているはずなんだ。戻らなくちゃ、正しい自分に戻らなくちゃ。戻り方は簡単。最近、鉄道の人身事故が多発しているだろう。あれは別世界への入り口。高速で走って来る電車の衝撃とレールを流れる電気が作用して、本来の自分がいる世界へ戻ることができるんだ。さあ、そろそろ戻ろうじゃないか、沢田。こんな偽物の自分なんか捨て去ったとしても何の未練もないだろう……
というような妄想まで抱いてしまう始末である。幸いな事に日常生活で電車を利用する機会がほとんどなかったので実行には移さなかったが、毎日電車通勤していたらどうなっていたか分からないと、今の沢田は思うのである。
2
こうして鬱々とした毎日を過ごす沢田。しかし始まりがあれば終わりがある。沢田の苦悩も遂に終末を迎える時がやって来た。
2008年10月24日金曜日。忘れられない日となったその日は、奇しくも世界恐慌の発端となった1929年の暗黒の木曜日と同じ日付けである。
「おかしい、何だか嫌な予感がする……」
不吉な動きは豪ドルだけでなく全通貨、そして株価にも現れていた。下げは東京市場が開く前から始まった。前場で大きく下げたレートは後場に入っても止まらない。10月7日の利下げショックに勝るとも劣らない下げである。
沢田はもうチャートを見ていられなくなった。昼食は喉を通らなかった。そして夕食も取らずに布団の中へ潜り込んだ。必死になってかき集めた諭吉隊は、今では4個大隊にまで膨れ上がっている。今ロスカットされればその95%が玉砕するのだ。そしてそのレートまでもうあと僅か……怖かった。その瞬間を見たくないと思った。沢田は布団の中で身を丸め、体を震わせながら時が過ぎるのを待った。
翌朝、沢田はパソコンの電源を入れて為替の情報を眺めた。壮絶な下げだった。米ドルは1日で8円近い下げ。豪ドルは10円以上、英ポンドに至っては20円近く下げていた。たった1日でこれだけ下げたのである。百年に一度の大暴落、そんな文字が踊っていた。
「豪ドルの最安値は……55円台か。終わったな」
ロスカットのレートは毎日変わる。正確なレートは分からないが、恐らく55円辺りのはずだ。もはや諭吉部隊の生存は絶望的である……沢田はそれだけを確かめるとパソコンの電源を切った。残高が激減しているFX口座を確認するには心の準備が必要だ。日を改めて見ることにしよう。そうしてふっとため息をついた時、沢田は自分の身が不思議と軽くなったのを感じた。
「こ、これは、まさか……伝説の21グラム!」
投資家が資産を失って死を宣告された時、その体は21グラム軽くなると言われている。実は緊張から解放されて毛穴が緩み、そこから蒸発する汗の重さに過ぎないという説もあるのだが、沢田はそれだけではないような気がした。
体だけでなく気分も軽い。そう、これでもうチャートや維持率を気にかけたり、資産の残高を心配して節約する必要はないのだ。沢田の心は爽快だった。8月から続いていた鬱屈した気分はすっかりなくなっていた。
「今日は8の日じゃないけどたこ焼きでも食べようかな」
沢田は明るい声でそうつぶやいた。
3
2日後の月曜日は健康診断の日だった。体重計に乗った沢田はその数値を見て我が目を疑った。
「この体重計、壊れていますよね」
無理もなかった。体重計が示しているのは48kg。あり得ない数値である。
「壊れてなんかいませんよ。いいですねえ、痩せていて」
看護師のお姉さんにそう言われて愕然とする沢田。しかし最近3カ月の食生活を考えれば痩せて当然だった。加えて週5回のビリーズ・ブートキャンプは欠かさず続けていたので、それも体重減少に拍車をかけたのだろう。
体を動かしていると余計な考えが払しょくされるし、なによりビリー隊長の掛け声を聞いているだけで元気が出るので、如何に無気力になろうともこれだけはやめられなかったのだ。
「まずいな。こんな体重じゃ男としての沽券にかかわる」
「それなら肉を食べなさい。肉を付けるには肉よ」
「肉は高いですからねえ」
「鳥の胸肉なら安いわよ。焼くなり煮るなりして食べなさい」
お姉さんのアドバイスに従ってスーパーへ行けば確かに安い。キャベツと一緒に味噌煮にすればなかなかいける。久しぶりの肉、それは沢田に忘れていた闘志を呼び戻してくれた。玉砕したと言ってもまだ諭吉1個中隊が残っている。巻き返しの機会は十分ある。ならば今日からまた始めよう。沢田はパソコンの電源を入れた。FX口座にログインする。と、
「こ、これは……」
信じられない光景だった。諭吉部隊は玉砕していなかったのだ。生死不明ながら、まだその屍を晒してはいなかったのである。詳細に調べてみると、本当に首の皮一枚の際どさだった。ギリギリのところで維持率100%を保持し続けていたのである。
「よし、オレはやる。肉を食って体重を増やし、生死不明の諭吉部隊を必ず全員帰還させてやる」
鳥肉の香りを漂わせる味噌汁を飲みながら、沢田は心に誓うのだった。
* * *
その後、豪ドルは2009年2月に再び55円台を付けるが、これが二番底となってその後は右肩上がりに推移していった。その年の8月には80円台を回復。2012年、アベノミクスの始まりにより円高に終止符が打たれ、2013年黒田日銀総裁就任により円安の流れは確実なものになった。豪ドルはその年の4月に105円を付け、ここで沢田の投資生活は終わった。
今はもう投資はやっていない。メインで使っていたFX口座も解約してしまった。その少し前から小説投稿サイトに登録して、今ではチャートを眺める代わりにWEB小説を読んだり書いたりする日々である。
「全く以てダメダメな自分だったな」
振り返れば本当に辛い3カ月だった。それもこれも自分の甘さに原因がある。投資をする上で一番大切なのはリスク管理である。決められた通りに損切りをし、資産に見合ったポジションを持ち、相場急変に備えた対策を用意しておけば、大きな利益は望めずとも大損はしないはずだ。沢田はそれができなかった。「もしかしたら戻るかも」「大丈夫ここが底」「まだ耐えられるはず」そんな言葉で自分を誤魔化して、その結果、退場寸前にまで追い込まれたのだ。
そしてそれはダイエットでも同じではないかと思う。基礎代謝量とトレーニングによるエネルギー消費を把握し、それ以下のカロリーしか摂取しなければ確実に痩せられるのだ。しかし、それは口で言うほど簡単ではない。「自分へのご褒美」「この程度なら食べても大丈夫」「一回休むくらい関係ない」そんな言葉で自分を誤魔化して、その結果、期待に反した状態を続けてしまう。損失確定の損切りすらできなかったかつての沢田と同じ姿だ。きっと自分がダイエットに挑んでも成功はしないだろうなと沢田は思う。
だが――これは開き直るわけではないのだが――それでもいいのだと沢田は考えている。全ての感情を排し、決められたとおりに損切り、決められた通りに利確しているだけなら、それはもう人間ではない。ただの自動売買ツールである。思い通りに行かず、迷い、悩み、苦しむ、それこそが正しい人間の姿なのだ。だからこそ人の世は面白いし、小説のネタも尽きないのである。
3カ月で体重10%減に成功した理由 沢田和早 @123456789
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