3カ月で体重10%減に成功した理由
沢田和早
第1話 投資に身を投じた愚かな男の話
1
身長164.7cm。体重54.3kg。今年の健康診断で測定された沢田の身体データである。成人男子の平均値からは大きく劣っている。はっきり言って中学生並みの体格であるが、これは成長期に満足な食事を取れなかったせいだ、などと今頃愚痴を言っても仕方がない。とにかく沢田は物心ついた時から貧弱な体だった。
そのせいか自ら痩せようと思ったことは一度もない。ダイエットの経験もない。これまでの最大体重は56kg台。57kgは未知の領域である。しかし痩せようと思わなくても痩せてしまうことはある。太ろうとしなくても太ってしまうのと同じ理屈だ。
「最近、株価の上げが激しいな。ベア子ちゃん、早く息を吹き返して欲しいなあ」
沢田には愛読しているWEB小説がある。
「魔王ベア様は毎日が憂鬱」
果敢に投資へ挑戦する一人の女性の苦闘を描いた上原先生の傑作エッセイだ。その作品に満ち満ちている悲鳴と嘆きとため息を味わう時、沢田は10年近く前の自分の姿を思い出す。
「ああ、何もかも皆懐かしい……」
そう、沢田もかつては投資に我が身を投じた一人だった。株ではない。FXである。そこでどえらい失敗をやらかしたのである。そのため体重が激減した。これがこの作品の大まかな内容である。更に詳細な内容を知りたい方は2へ進み、興味を失くした方はここでページを閉じるのがよろしかろうと思う。
2
FXに馴染みのない方も多いと思われるので簡単に説明しようと思う。FXなんて知っている、あるいは、そんな説明はどうでもいいから体重激減の話を読みたいという方は2と3の項目をすっ飛ばして4へどうぞ。
FXは簡単に言えば外貨預金である。普通の外貨預金と違うのは預けた資産以上の外貨を持てる点だ。
例えば現在のレートが1ドル100円だったとする。100万円なら1万ドルしか買えないが、FXでは10万ドル、1000万円分買えたりする。もちろん差額の900万円は借金である。
100万を預託して900万円も貸してくれるとは、貸主はバカじゃないかと言いたくなるが、そんな事はない。貸した900万円はドルの形で口座に残っているからだ。口座からは貸主の許可がなくては引き出せない。貸した金は依然として自分の財布の中に残っているのだから、貸主としては幾ら貸そうが痛くも痒くもないのだ。
さて円をドルに換えたらどうするか。適度に円安が進んだところで売って利益を得るのだ。通貨が安い時に時に買い、高くなったら売る。その差額が利益となる。株と同じだ。そしてFXの場合も株の配当と同じく、売り買いせずとも保持しているだけで利益が出る。
ドル円の買いポジションを持つ、というのは円を借りてドルを買うという意味だ。円を借りているのだから利息を払わなくてはならない。一方ドルを持っているので利息が入ってくる。借りた通貨の利息を払って買った通貨の利息を受け取る。その差額が利益になる。これをスワップポイントという。外貨預金で金利が付くのと同じ感覚である。
「金利なんかたいしたことないだろう」
と思う方もいるだろう。昨今の超低金利ではそんな感想も当然である。しかし2008年当時は違った。高金利通貨として人気があった豪ドルは1万通貨のスワップが1日に約150円付いた。10万通貨なら1日1500円。1年なら50万円だ。100万円預けて豪ドルを10万通貨買い、それを1年間持っているだけで50万円儲かったのである。
「なんて美味しい話なんだ」
沢田は元々銀行で外貨預金をしていた。しかしFXなら同じ資金でもより多くの通貨が持てる。しかも売り買いなどという面倒なことをせずに儲かるのだ。
「今すぐFXやっちゃうー!」
愚かである。どんなリスクがあるか十分調べもせずに飛び付いたのだ。そう、美味しい話には必ず裏がある。FX最大のリスク、それは過度の含み損を許してくれないことにある。
3
先程の例と同じ状態を仮定しよう。レートは1ドル100円。預託金100万円でその10倍、1000万円分のドルを買う。10万ドル/円の買いポジションになる。
この場合、レートが円安に動く分には何の問題もない。困るのは円高に動いた時だ。例えば1ドル100円が90円になったとしよう。10万ドルの評価額は900万円になる。これが外貨預金なら、
「ありゃ~、含み損が100万円になっちゃったよ、テヘッ!」
で済むのだが、FXはそうはいかない。先程も言ったように900万円借りているのである。現在、口座には900万円分の資金しか残っていない。これ以上円高が進めば口座の価値は借りた額を下回ってしまう。それでは貸主が貸金を回収できなくなる恐れがある。
そこで、こうなった時点で貸主は問答無用で決済を行使し、貸した金を強制的に没収してしまうのだ。これを強制ロスカットと言う。この状態で決済されてしまうと口座の残高はゼロになる。手元には1円も残らない。まさに鬼である。
「お願い、あと3カ月いや、1カ月待ってください、そうすれば円安が進んで利益が出るはずなんです。お願いします、お願いします」
とコールセンターのお姉さんに泣きついても鼻であしらわれるだけだ。システムとしてそうなっているのでどうしようもないのである。
今のは資金の10倍のポジションを取った時の例だが、資金の100倍のポジションを取っていれば1円の円高でロスカットを食らう。1円の変動など、どこかの国がミサイルを発射しただけで1秒もかからずに発生する。Jアラートを聞いて「ヤバイ!」と感じ、慌てて口座にログインした時には既に残高ゼロという危険度である。Jアラートの本当の目的は国民の避難誘導ではなく、投資家保護なのではないかという噂を耳にしたが、一概に出鱈目だと言えなくもないだろう。
預託金と実際に取引する金額との倍率をレバレッジと呼ぶ。2008年当時、このレバレッジに上限はなかった。400倍のレバレッジが可能なFX業者も存在した。100万円の資金で数億円の通貨を売買するのである。凄まじいハイリスク、ハイリターンだ。1カ月で1億稼ぐ者もいれば数分で有り金全部失う者もいた。
さすがに金融庁も黙ってはいられず規制をかけた。2010年に個人取引の上限は50倍、2011年には25倍までと決められてしまった。昔に比べてギャンブル性はかなり低下したと言える。
ところで前述のロスカットの説明は必ずしも正しくはない。分かりやすいように極端に書いてある。実際にはロスカットを行使されても、口座がスッカラカンになるようには設定されていない。
ロスカットルールは各会社によって異なっている。指標となるのは次の式で定義される証拠金維持率だ。
証拠金維持率=有効証拠金額(資産合計―評価損益)/取引証拠金
先程の例は維持率が0%になった時にロスカットされた場合である。その時は間違いなく口座残高は0となる。しかしそんなFX業者は存在しない。多くは維持率が100%か50%、少なくても20%程度でロスカットを行使するように設定されている。
先程の例で、レパレッジ25、ロスカットが維持率50%だと仮定すれば、10円の円高ではなく8円の円高でロスカットが発生する。そうすれば100万円のうち20万円は残る。投資家保護の観点からそうしているようだ。
ただしこれが確実に実行されるかと問われると断言はできない。ロスカットが発生するのは為替相場が急変している時が多い。その場合、値飛びという現象が発生する。レートが連続的に変化せずに飛び飛びの値を取るのである。
運悪くロスカットレートを飛び越えてしまうと、想定よりも低いレートで決済してしまうことになる。残高が0になるくらいならまだマシだ。下手をすると証拠金不足となって追証を求められることも起こり得る。
とにかくロスカットされる事態は絶対に避けること。証拠金維持率は100%以上を死守すること。これがFXで生き残る条件である。
4
これだけのリスクがあるFXを沢田はのほほんと始めてしまった。選択した通貨ペアは豪ドル/円。レパレッジ50。ロスカットルールは維持率100%を割った時である。
基本的に怠け者の沢田であるから通貨の売買はしない。スワップだけで儲けようという作戦である。実際、沢田のFXに対する認識は外貨預金に毛が生えた程度のものに過ぎなかった。更には始めた直後から豪ドルが上がり始めたことで、沢田の警戒心は完全に薄れていた。
「えへへ、90円台で買った豪ドルが100円を越えちゃった。買い増しちゃおうかなあ」
2008年3月に90円を割り込んだ豪ドルは、その後順調に上げ続け、5月には100円を超えた。沢田はご機嫌だった。スワップも含み益も想定を上回る勢いで増えている。
調子に乗った沢田は少しずつ買いポジションを増やしていった。増えればスワップも含み益も増える。買い増す、更に増える、それを繰り返した結果、沢田の資産合計は諭吉2個大隊にまで膨れ上がっていた。因みに諭吉1個大隊は諭吉500人で構成されている。
「ぐへへへ、こんなに簡単に儲かるなら、もっと早く始めればよかったなあ。ぐへぐへ」
沢田は完全に浮かれていた。まさにこの世の春だった。だが、楽しい時は長くは続かない。好事魔多しのことわざ通り、破滅は音もなく忍び寄って来るのである。
「おかしいなあ。下げたまま全然上がって来ないぞ」
予兆は既に7月に始まっていた。前年に続きその年の夏も猛暑だった。夏バテ気味の沢田は不安な面持ちでチャートを眺めていた。これまで右肩上がりだった豪ドルが7月末から下がり続けているのである。
最初は「そのうち上がるさ~」と楽観していた沢田も8月に100円を割ったところで少々焦り出した。
「どうしてだろう、何があったんだろう」
ここに至ってようやく為替や経済やFXについて真面目に勉強を始めた沢田。泥棒を捕まえてから縄をなうようなものだが、何もしないよりはマシである。そこで初めてオーストラリアは9月に利下げに踏み切るらしいという情報を手にした。マーケットの動きは素早い。噂だけでも敏感に反応する。
「た、大変だっ!」
豪ドルの魅力は高金利。それが失われれば通貨安になるのは目に見えている。沢田はポジションの縮小を決めた。これまでに積み上がったスワップと抱き合わせて、含み損の出ているポジションを少しずつ解消していったのだ。
しかし豪ドルの下げは止まらない。95円あたりで小康状態だったレートは8月末に向けて徐々に90円へ近づいていく。そして9月2日。噂通り、0.25%の利下げが行われたことで豪ドルは一気に90円を割り込んだ。沢田の買いポジションは全て含み損を抱えることになった。
「ど、どうしよう。もうスワップ残ってないよ」
3月から積み上げてきたスワップは糞ポジの含み損解消のために使ってしまった。後は損失確定の損切りしかない。だが、沢田は嫌だった。確かに今は損が出ているがレートが上昇すれば益が出るのだ。それまで待っていればいいじゃないか。
「ここで損切ったら儲けはなし。半年間の苦労が水の泡だよ」
実に甘い見通しである。この優柔不断さのために地獄を見ることになろうとは、この時の沢田は思ってもいなかった。
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