最終回 鶴川橋暮れ六つ

 六日後になった。

 覚平は鶴川の畔に立ち、川の流れに目をやっていた。

 風が強い日だった。寒さも一段と増している。空も鈍色で、冬がすぐそこまで迫っているのだろう。空だけ見れば、いつ雪が降ってもおかしくない。

 檜山に籠った。山野を駆け、沢を跳び越え、岩山を這うように登り、闇に身を置いて剣を構えた。

 最低限の睡眠と食事。鈍った身体を酷使し、己の剣と向き合った四日であった。それで、自分の何かが再び目覚めたのか、かつての獣性を取り戻したのか。その実感はないが、千歳の為に死ねないという一念だけが、何度も脳裏に去来した。

 山籠りで得たものは、固い決意だった。それだけは、断言できる。長内が理不尽にも、千歳から父である自分を奪おうとしている。それだけは阻止せねばならない。この子には母がいないのだ。母を失い父も失っては、千歳の将来はどうなるのだ。占部が引き取ると言うが、結局は孤児みなしご。それでは可哀想ではないか。千歳を守る為にも、長内と立ち合い、何としても勝たなければならない。

 山を下りた覚平は、実斎の道場で泥のように眠り、身支度を済ませて此処に来ていた。

 自宅には戻らなかった。千歳と喜美が、自分の帰りを待っている。決闘の前に、二人に会いたいと思ったが、顔を見てしまえば決意が鈍り、逃げ出してしまいそうで怖かったのだ。

 喜美に惚れているのか? 山で喜美を思い出しては、そう考える事もあった。妻が死んで一年。正直、夫婦仲が上手くいっているとは言い難い、冷めたものだった。勝気な性格が災いし婚期が遅れた妻は、閑職に左遷された自分を、どこか侮蔑している風もあった。


「あなた、お気張りくださいましよ。そして、何とか出世してくださいませ」


 そう言われる度に、覚平の心は重くなった。

 しかし、それでも妻との間に千歳という娘を授かった。息苦しい日々であったが、かつての光景を思い出せば、心に迫るものもある。そして、千歳の面倒を見る喜美の姿が、亡き妻と重なっていくのだ。


(いかん。全ては終わった後に考える事だ)


 覚平はかぶりを振って、川から視線を移した。

 約束の暮れ六つまで、もうすぐだった。相手は二人。どう戦うべきか、色々と思案して腹は決まった。ここに至っては、もう考える事はない。考えてもいけない。考え過ぎた時は、いつも失敗し続けたではないか。

 覚平は、踵を返して歩き出した。北へ少し行くと葦の原と掘っ建て小屋がある。抱非人の市太の棲家だ。非人小屋はもっと北にあるが、鶴川橋に異変があった際にいつでも駆けつけられるよう、市太は此処で暮す事が認められているのだ。

 この場所を、決闘の場に指定していた。平素から人が通る事も少なく、邪魔は入らない。そして、家主たる市太もいない。この為に、留守にしてもらったのだ。そして、勝つにしろ負けるにしろ、その後の始末も頼んでいる。

 小屋の横には、稲刈り後の藁を束ねたものが積まれていた。狼煙に使う為に集められているものだ。これらは鶴川橋の異変に備えたものであるが、この藁束がある事も、覚平がこの場所を指定した理由の一つだった。

 気が付けば、薄暗闇になっていた。火の灯り欲しくなる時分だが、万里眼の覚平には十分に見える。

 覚平は刀の下げ緒で袖を絞ると、鉢巻を巻いて藁束の中に身を隠した。


(勝てばいい。どんな卑怯な真似をしてもだ)


 全ては千歳の為。卑怯者の誹りを受ける覚悟はしている。

 覚平は意を決して、息を潜めた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 遠くで、暮れ六つを告げる鐘が鳴った。

 それに合わせたかのように、灯りが薄暗闇に浮かび上がった。

 二つ。長内と助次郎だと、覚平は直感した。


(長内は、存外律儀な男だな)


 その律義さが、先代藩主に気に入られ、執政へと登らせたのだろう。そんな事を考えながら、覚平は脇差をそっと引き抜いた。


「父上。まだ、臼浦は来ておりませぬな」


 声が聞こえた。藁の中、覚平は更に息を殺した。


「気を抜くなよ。この暗さだ。あやつ、どこぞに潜んでいるやもしれぬ」


 長内の声だった。聞き覚えがある、芯のある低い声。かつて、この声で討っ手を命じられ、そして失敗し叱責された。

 何とも奇縁というものだ。長内とのこれまでを思うと、そうとしか思えない。身分も生まれも違う。一生絡まないまま生きる事も出来たはずだったというのに、こうして命の取り合いをする羽目になってしまった。


「父上、私は小屋を見てきます」


 助次郎だろう。覚平は、脇差を力強く握りしめた。

 気配が近付いてくる。嶺家の家紋。〔丸に地紙〕が、藁の隙間から見えた。

 覚平は、一瞬迷った。助次郎より、長内の方が腕が立つ。助次郎を葬る絶好の機会だが、出来れば長内を襲いたい。そして、あと少し待てばその機会が訪れるかもしれないのだ。

 賭けだった。確実に一人減らすか、大物を狙うか。


(いや、確実に減らす)


 そう決めた時には、飛び出していた。藁束を跳ね除け、脇差を突き刺す。感触に抵抗はなかった。

 腹だった。突き刺した脇差を抉り、撥ね上げた。助次郎の赤い顔をしている。怒りか、驚きか。覚平は脇差を離すと、尾州時光を抜き打ちに斬り上げた。


「臼浦……」


 そう喘いで膝から崩れ落ちた助次郎の奥に、提灯を手にした長内が立っていた。五十を少し過ぎたほどだというが、思った以上に若く見えた。頭髪の白さも目立たない。


「貴様」


 長内の表情に、怒りも悲しみも無かった。感情の機微は見えない。普段と変わらない、気難しそうな顔だ。


「やるではないか」

「これより他に、術はございませんでした」

「卑怯とは言わぬ。これも兵法というものよ」


 思ったより、物分かりがよい男だと、覚平は思った。無類の剣術好きだからこそ、そう思うのだろうか。


「流石だ。私の息子を二人もほふるとはな」

「そうした仕儀になってしまいました。師の恩人に対し、斯様な真似はしたくはございませんでしたが」

「恩人とな……」


 覚平が頷くと、長内は口許に軽い笑みを浮かべた。


「実斎殿か。さても、弟子に酷な事を言うたものだな」

「だとて、拙者の気持ちは些かも揺るぎはいたしませんでした」


 嶺は、一旦覚平から視線を逸らし、軽く溜息を吐いた。


「さて始めようか。助次郎が死んだ以上、嶺家は終わりだ。ならば、一剣を以て愉しむのみ」


 長内も剣を抜き払った。距離は五歩である。

 長内がゆっくりと正眼に構えた。覚平も同じく正眼に取ったが、長内の構えはやや低い。

 相対して、覚平は長内の実力を実感した。圧力が段違いだった。この為に剣を磨き直したのかは知らない。だが長内の剣は、一朝一夕では辿り着けない境地にある。これで執政もしていたというのだから、驚きだった。

 長内が一歩足を前に出した。覚平は気圧されまいと腹に力を入れたが、一歩だけ後ろに下がった。

 闇。その中に、長内が立っている。気が付けば、三歩の距離になっていた。

 長内が、刀の切っ先を下げた。誘い。そう思った時には、光が見えていた。

 長内の斬撃。だが、万里眼はその動きを十分に読んでいた。

 身を捻って躱す。もう一つ。覚平も前に出ようとした時、思わぬ方向から斬撃が伸びて、覚平は鍔元でそれを受けた。


「やるな、臼浦」


 長内の声が聞こえた。鍔迫り合い。離れ際に、長内が二つ斬撃を放った。


「ちっ」


 小さな傷を、肩と足に受けた。痛みは無いが熱かった。

 覚平は横目で確認した。皮一枚。血も滲む程度で済んだ。


「万里眼というのだな、お前の渾名は」

「ええ。千里眼を超える眼力を、それがしは持っておりまする」

「ほう、言うのう。〔むっつり覚平〕と呼ばれておるそうだが、よう喋るではないか」


 挑発だろう。覚平は無視を決め込む事にした。

 再び、対峙となった。長内の構えは、通常の正眼に戻っている。覚平は八相に取った。

 この構えは覚平が得意とするもので、かつ長い対峙に向いている。体力の消耗を抑える構えなのだ

 その時、覚平は長内の僅かな変化に気が付いた。

 剣先が、左右に揺れているのだ。まるで、風にそよぐ稲穂のように揺れている。


(まさか、これは)


 覚平は、自覚するほどの動揺に襲われた。

 この動きは、かつて実斎が浪人相手に見せた、風揺の太刀ではないか。敬愛する師父が、絶甲剣に己の妙意を加えて編み出した新たな秘奥。覚平は未だ授けられてはいないが、どうしてこの男が使っているのか。

 血が逆流するような憤怒を覚えた。実斎は、裏切ったのか。或いは、長内は授けられていたのか。

 覚平の動揺を察してか、長内の顔が笑む。どうだ、と言わんばかりに。覚平は抑え難い衝動に駆られ、自らの意に反して踏み出していた。


「未熟」


 そう聞こえた気がした。

 覚平は、待ち構えていた斬光を一つ防ぎ、一つは避けて跳び退いた。更に、長内が踏み込んでくる。どうするか。一瞬の迷い。その間に、長内の姿は視界から消えていた。

 頭上。跳躍し、大上段から斬り下ろして来た。万里眼が長内の必殺の太刀を捉え、覚平は前に駆け出す事でそれを躱す頃が出来た。

 着地した長内が、意外そうな顔をした。必勝の一手だったのか。


「よう避けたと言うべきか、今のが駄目だと言うべきか」


 長内が、正眼の構えを解いて言った。


「立信流の秘奥の、風揺の太刀。そして今のは、某譜代藩の御留流で使われる秘奥でな。どちらも一度だけ見たものを真似てみたが、やはり駄目だな」

「……」


 覚平は二の腕と頬を斬らている事に気付いた。浅いが、出血はあった。しかし、それが怒りに我を忘れた覚平の頭を冷まさせた。


「なぁに、おぬしの師が裏切ったわけではないぞ。一度、儂は実斎殿と立ち合った事があるのだ。木剣でな」

「嶺様は、良いと思えば他流の技でも取り入れるとお聞きしました。剣術狂いという評判は、本当でございましたか」

「ふふ。おぬしと剣術談義をする気も無いが、剣術はただ剣術であればいいと思っている口でな。真剣を以て命のやり取りを前にすれば、流派の名など些末よ」

「それがしも、実感しております」

「では、ここからが本番だ、万里眼」


 長内が再び正眼に構えを直し、覚平も応じるように八相に構えを取った。気が付けば、背後は鶴川。背水の陣というものだ。

 やはり、これは長くなる。覚平は、そう覚悟した。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 お互い、肩で息をしていた。

 覚平は顔から大粒の汗を流し、長内は明らかな疲労の色が、渋い相貌に浮かんでいる。

 正眼と八相の対峙。既に、どっぷりと陽が暮れていた。

 それでも覚平は万里眼があり、夜目が利く。一方の長内は、長くなる対峙を明らかに嫌がり果敢に斬りかかってくるが、その斬撃を覚平は防ぎ躱しきっていた。

 以前の自分ならば、既に息を切らしてへばっていたはずだ。そうならないのは、山に籠って山野を駆けたからだろう。そこで目覚めた身体と獣性が、今こうして活きている。

 長内が、踏み込んで来た。小手を斬り下ろす。それを弾くと、肩口に斬光が伸びてくる。それも覚平は防いだ。


「これが、立信流の絶甲剣か」


 長内が喘ぐように言い、覚平は頷いた。


「忌々しいな。亀が頭を引っ込めたかのようだ」

「左様」


 立信流の奥義は絶甲剣と呼ばれる、絶対の防御術である。防御の巧みさで知られた立信流が田舎剣法という誹りを受けるのも、防御に重きを置いた鈍重さが原因だった。しかし鈍重な剣が、万里眼と覚平の性分に合った。免許まで至ったのも、立信流だったからだという自覚はある。

「面白い。その甲羅、叩き割ってやろう」

 長内の気勢は、既に絶叫だった。

 斬り下ろし。突き。袈裟斬り。小手打ち。逆胴。その尽くを、覚平は尾州時光で弾いた。

 次第に、長内が大振りになっていく。それを待っていた。踏み込んでの一撃を往なした所で、長内の体勢が横に流れた。

 膝に力が入らないのか。踏ん張りが利いていない。よし、と思った。これを待っていたのだ。

 好機。そう見た覚平は、身を翻して八相から長内の首元へ尾州時光を振り下ろそうとした。

 が、体勢を崩した長内の手元に、月光を浴びた艶めかしい光を、万里眼が捉えた。


(しまった)


 だが、もう遅い。覚平は脇腹に何かが突き刺さるのもそのままに、長内の首筋を断ち斬った。

 長内の鮮血が月夜に舞い、ほぼ同時に崩れ落ちた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 生きている。

 覚平は、胸を上下させるほどの息苦しさに、長内を斃した事を実感した。

 脇腹が疼いた。寝たまま、傷口に手を当てる。どれほどの傷かわからないが、剣先が少し刺さっただけのような気もする。

(間違いなく、私は生きている)

 痛みは、その証拠だろう。覚平は身を起こし、袖を裂いて脇腹をきつく縛ると、尾州時光を杖にして立ち上がった。

 長内が、首の皮一枚繋がった状態で死んでいた。奇しくも、その側には助次郎も斃れている。

 それにしても、凄腕の剣客だった。政事になぞ関わらなければ、一流を興していただろう。そう言っても不思議はないほどの剣客だった。

 覚平は、片手拝みをして歩き出した。

 夜道。遠くで犬の遠吠えが聞こえる。刻限はどれほどだろう。闇の色合いは深そうだ。


(千歳はもう眠っているだろうか)


 ふと、二人の顔が浮かんだ。

 台所で眠っている千歳を背負い、夕餉の支度をする喜美。覚平が帰宅を告げると振り返り、口の前に人差し指を立て、大きな声で喋るなと手真似で伝えるのだ。そうした光景に、自然と顔が綻んでしまう。

 不意に、視界が暗転した。何かに足を取られて転んだようだ。

 何とか起き上がるが、方々に傷を負った身体は、想像以上に重かった。痛みからか、脂汗が尋常でないほど出て来ている。

 見上げると、鶴川橋があった。毎日、陰鬱な気持ちで眺めていた橋だが、今日ばかりは何だか安堵するから不思議だった。


「帰らねばな……」


 出来るだけ早く。待っているのは、千歳と喜美だけではない。一つ大きな仕事を終えた覚平にとって、新しい始まりが待っているような気もするのだった。


〔了〕

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鶴川橋暮れ六つ 筑前助広 @chikuzen

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