第八回 友と師と

「そんな馬鹿な事があっていいのか」


 尚蔵が、柄にもない乱暴な口調で吐き捨てた。


「冗談ではないでしょうね」

「ああ。冗談のようだが本当なのだ」


 すると、尚蔵は深い溜息を吐いた。

 長柄町にある、尚蔵宅。卯の花に呼び出された翌日の事である。この日、覚平は千歳の手を引いて訪ねたのである。御橋番役の役目は、仇討ちの日まで暇を与えられた。


「いつです?」

「七日後。いや、もう六日後か」

「そうですか。しかし、私には解せませんね。そもそも、覚平さんは酒乱の男から民を守ったに過ぎない。武士として当然の事をしたまでなのに、何故に逆恨みのような仇討ちを受けねばならんのですか」

「全くその通りなのだがな……」


 と、覚平は庭に目を向けた。そこでは秋の日差しを浴びて、千歳が尚蔵の子供達と遊んでいる。喜美と里は、縁側で内職の筆作りに励んでいた。里の腹痛はすっかり治ったようである。


「それにですよ。何故執政府はこの仇討ちをお認めになったか理解できない。そもそも、嶺長内は蟄居の身ではないですか」

「私とて同じだ。疑問はあるが、仕方ないのだ」


 尚蔵には、長内の仇討ちを受けるという事だけを伝え、その裏にある占部の思惑には触れなかった。それはこの純朴な男を、藩の政争に巻き込みたくないと思ったからだ。二度も執政府の命で刀を取る事になった自分とは違う。勿論、助太刀を頼む気も無い。


「やるんですか、覚平さん」

「やるしかなかろう。それに、私が決める事ではないのだ。断ったとしても、長内は襲って来るだろうし」

「ですが、相手は天流の使い手ですよ」

「私も立信流の免許持ちだ」

「覚平さんの腕前は、十分承知しています。しかし、これは命のやり取りですよ」

「だろうな。稽古をせねばなるまい」


 覚平は、出された茶に手を伸ばした。二人の間には、団子がある。これは覚平が購ってきたものだった。


「私も付き合います。いいや、稽古だけでなく助っ人も」

「無用だ。気持ちはありがたいが」


 覚平は、湯呑を置いて言い放った。


「これは私一人で全て始末する。そう決めたのだ」

「ですか」


 尚蔵はそこまで言って口を噤み、それから軽く笑んだ。


「覚平さんは一度言い出すと引かない人だからなぁ」

「だが、お前に一つしてもらいたい事がある」

「それは、何なりと協力しますよ」


 尚蔵が嬉々として訊いた。


「私の手下で、市太という抱非人がおる。その男に、この書状を読んで聞かせてくれぬか? 市太は字が読めぬのでな」


 と、覚平は懐から昨日書いた書状を取り出した。


「何ですか、これは?」

「必勝の策だ。市太にだけは、事情を伝えていい。だが、手出しはするなと言い付けておいてくれ」

「わかりました」


 それから覚平は、尚蔵に千歳を預かってくれとも頼んだ。

 残された日数で、鈍った身体を叩き直すつもりでいる。そこに千歳を伴う事は出来ない。


「いいえ、千歳坊は預かれません」

「おい」


 覚平は、思わず尚蔵を一瞥した。そこには悪戯っ気のある笑顔があった。


「喜美に子守りをさせます。それも、覚平さんのお宅でです」

「喜美殿にか? しかし」

「下女の一人と思ってください。どうせ村にも帰れぬのです。どうです? 喜美を雇ってみては」

「喜美殿を下女になど思えるわけがなかろう」

「では、後添いに」

「尚蔵、お前」


 覚平が声を挙げると、尚蔵は肩を竦めた。里は気付いて微笑んだが、喜美は庭で遊ぶ子供達を見ている。


「兎に角、千歳坊の事は任せてください」

「それだけは、頼む」

「だから、生きて戻ってくださいよ」


 覚平は力強く頷いた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 城下から二里南、檜山ひのきやまの麓に下毛内村しもけないむらがある。

 二十戸も満たない小さな村で、特に何か名物があるというわけでもないが、ここで建部実斎は道場を開いていた。

 立信流は田舎剣法と蔑まれるだけあって、稽古に通うのは百姓か半農の郷士・足軽、そして物好きな武士ぐらいなものである。しかし流儀は荒稽古で知られ、百姓でも侮れない腕を持つ。時折、冷やかし半分に道場破りが来るが、その全てを弟子達で叩き返しているほどだ。

 覚平が下毛内村に着いた時には、夕暮れ近くになっていた。道場を訪ねたが、やはりこの時分には門下生の姿は無い。


「久し振りだな、臼浦」


 訪ないを入れた覚平を迎え入れたのは、実斎だった。

 当年、六十八。総白髪で、顔には深い皺が刻まれているが、その身体には活力が漲っていて衰えは見えない。


「御無沙汰をしておりました」


 ほぼ一年振りである。最後に顔を合わせたのは、妻の葬式であった。あの時、実斎は葬式の掛かりを補って余りあるほどの香典をくれた。幼少期から、今まで多大な恩を受けた第二の父である。


「ふむ。お前の近況は時折稽古に来る尚蔵から聞いている。中々忙しい日々を送っているようだな」

「ええ、まぁ……」

「相変わらずだな。で、お前が訪ねてきたという事は、それなりの事があったのだろう。立ち話もなんだ、上がれ」


 そう促され、覚平は道場と廊下で繋がった母屋に導かれた。

 実斎は独り身であった。一度も妻帯をしていない。武士としての建部家は弟に譲っていて、道場は今の師範代に継がせるという事になっている。

 客間に通された。下男の老爺が茶を運んでくる。見知った下男だ。覚平は、軽く頭を下げ茶で渇いた喉を潤した。


「何があった」


 覚平が湯呑を置くのを待って、口を開いた。


「嶺長内様と、立ち合う事となりました」


 実斎の切れ長の目が一瞬見開いた。それから細くなり、頷いた。


「上意討ちか?」

「いえ。私が長内の息子を斬ったのです。その仇討ちを長内は次男に命じ、自身も助太刀に加わるというのです」

「何故、斯様な事に……」


 覚平は事の起こりから、昨夜の事までを説明した。その間、実斎は腕を組みじっと聞き入っている。


「利用されたな」


 と、聞き終えた実斎が、ぽつりと漏らした。


「嶺長内は、先の執政。もし何かあれば、現在の執政府を覆して復活するとも限らん。その前に始末したいのだろう」

「流石、先生です。ご明察の通りかと」

「ふふふ。なに、誰でもわかろう事よ。だが覚平よ、此度の仇討ち儂は加勢出来んぞ」


 実斎の声色が、一転して鋭いものに変わった。

 思わぬ一言だった。実斎に助太刀を頼みたいという気は無かった。ただ、仇討ちを受ける事になった報告と、一手の指南を得られると思った訪ねたに過ぎなかった。だが自分の底の部分にあった、無自覚の淡い期待を見透かされたようで、覚平は肺腑を突かれた心地に襲われた。


「すまぬな」

「先生、私はそのつもりで参ったのではございませぬ」


 覚平は、言葉を絞り出した。


「そうか。それならいいが……。儂と長内とは些か縁があってのう」

「縁でございますか」

「ああ。ほら、奴は剣術好きだろう? 城下からわざわざ道場に訪ねてきて、何度か手ほどきをしてやったのよ。その度に、多過ぎるほどの心付けを置いていってくれてのう」


 長内は、無類の剣術好きである。他流の道場を訪ねたり、漂泊の武芸者を招いては、稽古を付けてもらい教えを乞うているのは有名な話だった。


「剣で商売する儂にとっては、奴は恩人に違いない」

「左様でございましたか。先生と縁があったなど、知りもしませんでした」

「だが、おぬしは可愛い我が弟子じゃ。だから助言を与えるが、おぬしに新たな技は必要ない。ただ、再び研ぎ上げよ。それだけで、此度の勝負が勝てよう」

「研ぎ上げる?」

「そうだ。おぬしには万里眼がある。誰よりも優れた眼力だ。そして、儂が立信流の免許と共に与えた絶甲剣もある。二つの武器が、おぬしにはあるのだ。それを活かさんでどうする」

「仰る通りと思います。私も自らの活路が、その二つだと考えておりますが、長い役人務めで歯痒いほどに鈍っております」


 三十五になった。眼力は衰えぬよう鍛錬をしているが、剣術はそうもいかない。役目と千歳の養育で、剣術の稽古まで時間を作れないのだ。


「それで?」

「先生の〔風揺ふうようの太刀〕を伝授していただきたく……」

「ほう、古い話を覚えておったか」


 覚平は頷いた。

 覚平が二十歳になるかならぬかだった頃、この村に浪人者が入り込んだ事があった。村人に乱暴を働き、飯や酒の代金も支払わない。警告をしても立ち退こうとはせず、結局は実斎と覚平が呼ばれ、決闘する事になった。

 呼び出したのは、村にある神社の境内。立ち合うのは、実斎だった。浪人は意外な使い手で、一時はあわやという所まで追い込まれたが、最後は胴を抜いて打ち倒す事が出来た。その時に使ったのが、風揺の太刀だった。

 絶甲剣に自らの妙技を加えたもので、実斎はその名と共に、


「誰にも言うのではないぞ」


 と、覚平に告げた。その日以来、風揺の太刀を使った所を見た事はない。しかし、覚平の脳裏には、今でも強烈に焼き付いているのだ。


(あの秘奥さえあれば、俺は勝てるやもしれぬ)


 そうした目論見も、今回の訪問にはあった。


「立ち合いはいつだ?」

「六日後の暮れ六つ」


 すると、実斎は一つ頷いた。


「風揺の太刀は、授けられぬよ」

「何故でございますか?」

「単に時間が足らぬ。それに、中途半端なままでは隙を生むだけだ。ならば、最初から使わぬほうがいい」


 覚平は、黙るしかなかった。勝つ為の一手として、期待していた。それが水泡に帰したのだ。


「覚平、これより山に籠れ」

「は?」

「檜山に籠れと言うた。そこで山野を駆け、剣を振り、山気に身を預けよ」

「今からでしょうか」

「そうだ。剣一つだけ携えてな。四日、山に籠り鍛え直すのだ。そして一日休養を取って長内に挑むといい。幾ら長内が剣の使い手とは言え、おぬしは儂が認めた男じゃ。風揺の太刀がなくとも勝てよう」

「わかりました」


 山に籠るという発想は無かった。確かに、野生に身を置く事で、かつてあった自分の剣気や獣性を取り戻せるのかもしれない。


「これを持って行け」


 と、実斎は立ち上がって、刀架にある一刀を手に取った。


「これは」


 尾州時光びしゅう ときみつ。実斎の佩刀だった。ずっしりと重く、反りは浅い。武骨な立信流に似合う、実戦的な銘刀だった。


「おぬしに出来る、せめてもの気持ちだ」

「斯様な銘刀を」

「必ず生きて戻れ。娘の為にも。そして、おぬしに今度こそ風揺の太刀を授ける為にもな」


 覚平は熱いものを堪え、したたかに平伏した。

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