第七回 密謀
城下の西、
中でも離れは最も川沿いにあり、障子を開けると悠々とした水流を望め、風流な雰囲気を醸し出している。
覚平はその一間で、中老・占部備後と向かい合っていた。占部の脇には、覚平の上役である町奉行・
井口も、三年前の政変で、許斐左馬頭に協力した一人であり、その論功行賞で町奉行の座を得ていた。権力欲が強い俗な男であるが、その手腕は堅実である。ただ、覚平の上役と紹介されるほど身近な存在ではなく、役替えになって五年間で口を利いた事は数えるほどだった。
「よく来てくれた」
覚平が名乗ると、まず占部が口を開いた。
占部は細面で、色白の男だった。歳は三十そこそこに見える。自分よりは若い。貴公子然としているのは、藩主家に通じる名門の出だからであろう。ただ、その視線と声色から、覚平は寒々としたものを感じた。
(蛇だ……)
とも思った。かつて覚平に左遷を命じた嶺長内のように、権謀術数の中で生きて来た男の顔をしている。
一方の井口は占部より年上で、肥えているとも言える偉丈夫である。脂ぎった黒い顔は、旺盛な欲を感じさせるものがあり、占部と並ぶと対照的だった。
「まずは、一献」
占部が、酒が入った銚子を差し出す。覚平は恐縮しながらも膝行し、盃でそれを受けた。
なみなみと注がれ、占部が頷いたので覚平は一気に飲み干した。
旨い、とは思う。高い酒なのだろう。口の中には清らかさだけが残る。しかし、この店もこの酒も、自分とは無縁のものだ。
「覚えておらぬようだな」
「……」
「まぁ、陣笠をしていたので仕方がないがな」
その時、覚平は意に反して驚きの声を挙げていた。そして慌てて口を噤んだが、占部は口許に冷笑を浮かべただけだった。
「役目には愚直であるな」
「その節は」
「構わぬ。それぐらい愚直でなければ、橋守りは務まらぬだろうよ」
「ありがたきお言葉……」
「よい。さて、私は無駄な前置きは嫌いでな。さっさと本題に入るぞ」
「はっ」
「今日、呼び出したのは他でもない。先日、うぬが斬り殺した浪人の事だ」
やはり。覚平は奥歯を噛み締め、占部の次の言葉を待った。
「あの者は浪人という事にしたが、それは複雑な事情があってな」
「……」
「浪人とした男は、かの嶺長内の嫡男だった男だ」
思わぬ告白に、覚平は伏せていた目を上げた。すると、そこには占部の熱感を全く感じさせない、冷めた視線が待っていた。
「臼浦、驚いただろう」
「えっ、ええ」
覚平は、何とか声を捻り出した。
「蟄居している長内の子、
「それは、まことにございますか」
「うぬに偽りを申してどうする。玄太郎には酒乱の気があり、気の病もあったそうだ。だが廃嫡したとは言え、長内は可愛がっていたらしい」
覚平は井口に目をやった。すると、井口は本当だと言わんばかりに、首を横に振った。
「それでな、長内が助次郎に玄太郎の敵討を命じた。そして、自身も助太刀をするのだと息巻いているらしい」
「しかし、それは逆縁というものでは」
父が子の、兄が弟の敵討は逆縁として認められないのが、武士道では慣例だった。
「うぬに言われずとも、その点は承知している。しかしな、臼浦。長内は助次郎に命じたのだ。弟による兄の敵討は認められる。そして助次郎を推し立てれば、その助太刀に長内が加わるのも可能」
「まさか、執政府はそれをお認めに」
「当然。敵討は武士の作法だ」
占部は、冷酷に告げた。それは、一片の恩情も希望も見出す事が出来ない、冷血漢の言い振りだった。
「しかし。しかしながら……」
そこまで言って、覚平は口を噤んだ。思わず反論が口を突いて出たのだ。
「どうした? 言ってみよ」
「今回の件は玄太郎に非があり、それがしは止めたまでの事。敵討を受ける謂れはございませぬ」
「今夜は、よう喋るのう。酒で口が滑らかになったのか?」
井口が口を挟んだ。
「占部様。この者は〔むっつり覚平〕と呼ばれていましてな。口下手で有名なのです」
「ほう」
占部は鼻を鳴らし、覚平を見据えた。
「なら、今のお役目は天職というものだろうな。五文を払うのを、ただ見ているだけいいのだからな」
そう言った占部の声色には、侮蔑の色が含まれていた。
(自分達が、鶴川橋の通行税を続けると決めたのに、その言い草は何なのだ)
したたかな腹立ちを、覚平は覚えた。しかし、それを言う事など出来ない。ただ、膝の上の拳を固く握るだけだ。
「責任が少ない方が、うぬも気が楽だろう。何事にも背を向け、黙って五文のお役目を為していれば、俸禄は与えられるのだからのう」
「いえ、それがしは……」
「怖いか? 五年前の失敗が」
駄目押しの一言に、覚平は言葉にならぬ小さな唸り声を挙げた。
「怖いなどとは」
覚平は、恐る恐る答えた。本当は怖い。しかし、それは失敗する事ではない。
「お前が剣の達人という事は報告を受けている。五年前、うぬだけが生き残ったのは、万里眼の力だという事もな」
占部の口許が、緩んだ。この男の笑みというものは、氷柱のように冷たく、鋭さしかない。
「ならば、恐れる事もあるまい」
いや、怖い。恐れるものは、敗れる事だ。死んだ後、一人残される千歳を思えば、どうしようもなく怖い。
「改めて言うが、執政府は長内の敵討を認める」
「……」
「嶺長内は三年前に失脚したと言え、いつ牙を剥くかわからぬ。今は勢力こそ衰えてはいるが、嶺家は宗像家中では名門でもある。要は、蟄居という生殺しではなく、この機に始末したいのだ」
「それが、許斐様のご意向でござりますか」
「口が過ぎるぞ、臼浦」
と、井口が大声を挙げ叱責した。体格に見合った、腹に響く声だ。だが、覚平は動じずに占部を見据えた。
「まぁ、よい井口。これは、お殿様のご意向であるのだ」
現藩主は、
「どうだ、臼浦。やってくれるか?」
占部が問う。氏宗の意向とあっては、断りようはない。
「あの、ですが……」
お受けいたします。その言葉が出ずに、覚平は口ごもった。
もしも敗れたら、千歳はどうなるのか。返事を妨げるのは、それだけなのだ。
「貴様、この期に及んで」
再び、井口の怒声が飛んだ。普段なら怯み上がる所だが、覚平は思わず睨み返していた。
「お前、何だその目は」
「……」
「井口、黙っておれ。臼浦も顧みるものがあるのだ。な、臼浦」
「はっ……」
頷きながら、占部はどこまで知っているのだと、覚平は背中に冷たいものが流れるのを覚えた。
占部の視線が突き刺さる。全てを見透かしている、そんな顔をしている。
「助次郎は勿論、長内は剣の達人だ。確か、天流を使うのだったな」
その話は、霜野の剣術界では有名な話だった。特に長内は若い頃に、二度果し合いを受け勝利している。剣術に関する探究心は四十路を過ぎた今でも変わらず、蟄居するまでは流浪の剣客を食客として抱え、手ほどきを受けていたという。
「中々の強敵だな」
「正直に申しまして、その……それがしが嶺様を討てるかどうか」
「偽りを申すな。私は知っているぞ。うぬは長内の剣を恐れているわけではあるまい?」
「……」
「千歳という名前だったかな。一人娘を残して死ぬのが怖いのだな。妻を亡くし、一人で育てているのであれば、そう思うのも無理はない」
「占部様、何故それを」
すると占部は鼻を鳴らして、覚平から視線を逸らした。そして、盃を口に運んだ。
「武士とて人間だ。その心中、察して余りある。だからな、この敵討をただで受けろとは言わん。ちゃんと報酬を用意している」
「報酬でございますか」
「長内親子を討てば、旧禄に二十石を加えた七十石を与え、望むのなら馬廻組への復帰を認めよう。万が一うぬが敗れる事があれば、千歳は私が養女として育てる」
「占部様」
井口が口を挟んだが、占部は口の端を緩めて首を振った。
「本来許可するべきではない敵討を、政争の為に許可するのだ。それぐらいは報いねばなるまい。それに私には男ばかり三人だ。娘も欲しいと思っていたところでのう」
占部が高笑いをする。もう既に、断れる雰囲気ではなかった。自分の意志などそこには介在しない。あるのは、長内と戦うという決定した事実だけである。
しかし、どちらにせよ藩命なら断りようはない。それに断れたとしても、長内は敵討を仕掛けてくるであろう。それならば、報酬があるほうがいいではないか。占部が約束を遂行するかどうかわからない。しかし、こうなった以上は信じるしかない。
「かしこまりました。非力ながら、お受けいたします」
「そうか、やってくれるか」
「ですが、一つだけ。是非ともお願いしたき儀がございます」
僅かな沈思の後、覚平は口を開いた。
「願いとな?」
占部は多少驚き、井口と顔を見合わせる。
「申してみよ」
と、言ったのは、眉を顰めた井口だった。
「此度の敵討、お殿様の意とあらば、何としても勝たねばなりませぬ。なれば、それがしに場所と時を決めさせていただきたいのです」
「ほう。地の利を得ようというわけだな」
占部が身を乗り出す。
「如何にも。そして、もう一つ。見届け人は無用という事で」
「それは何故だ?」
「嶺様は天流の使い手。死闘になるものと予想されます。私は勝つ為に、おおよそ武士らしからぬ戦いを仕掛けるでしょう。そうした真似を後でとやかく言われたくはありませんから」
それにも、占部も井口も異論は無いようであった。
「で、いつ何処で立ち合うのだ?」
占部が盃を呷りながら訊いた。
「七日後。鶴川橋、暮れ六つ」
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