第六回 呼び出し

 今朝も、朝の準備に手間取っていた。

 千歳が、豆腐を食べないのだ。匙で口に入れても、すぐに吐き出す。そして手づかみで、好きなものだけを食べようとする。


「ああ、お前はどうして行儀が悪いんだ」


 思わず語気が荒くなった。千歳の動きが止まる。慌てて、覚平は笑顔を見せて頭を撫でてやった。駄目だとわかっていても、ついつい大声になってしまう。そうさせる原因が疲れだという事も、覚平も自覚していた。

 この二日、余り眠れていない。あの日、斬り殺した男の顔と感触が、どうしても忘れられないのだ。そして、人を斬った手で千歳を抱き上げる事が、愛娘を穢しているような気分になる。


(あれは、仕方のない事だったのだ)


 あの時、自分が斬らねば更に死人を出していた。そして、自分には凶行を止めるだけの力があった。ならば、答えは一つしかない。これが武士の役割なのだと、納得する他に術はなかった。それでも、人を斬ったという罪の意識は消えないでいる。

 男は浪人だった。町奉行所の見聞も、その後に駆け付けた目付組の吟味もすぐに終わった。だが、流石にその日は迎えが遅くなった。夜五つを越えると、千歳を迎えに行かず尚蔵宅に泊まるという取り決めをしていたので、覚平は真っ直ぐ帰宅すると、喜美が千歳を寝かし付けてくれていた。


「どうして、そなたが家に」


 覚平の口を呼んだのか、喜美が尚蔵からの書き付けを手渡した。

 そこには千歳が泣いて泣いて仕方がなかったので、尚蔵が連れて帰った。今夜は喜美も泊めて欲しいと書いてあった。

 人を初めて斬った日の夜だった。寝付けない長い夜に喜美の事を考える余裕はなかったが、今思うと喜美と同じ屋根の下にいたと思うと、心が騒いでしまう。

 懐かしい感触だった。帰宅すると灯りがあり、妻と子が待っている。そうした暮しはもう二度とないのだと思っていたのだ。一瞬、喜美が亡き妻に見えてしまった。それもまた、昨夜の眠れぬ要因であった。


「うまい」


 と、千歳が芋を頬張って言う。


「うまい、ではない。美味しいと言うのだ」

「おいしい」


 たどたどしく千歳が真似をすると、覚平も思わず笑顔になった。

 人を初めて斬った。それまで真剣を抜く事はあったが、斬るまでには至らなかった。何か変わったような気はしたが、千歳はいつものままだ。


(私にはお前がいる。それだけでいい)


 千歳を見ていると、心からそう思える。それだけに、時折大声を出してしまう自分の未熟さが恨めしかった。


「御免」


 表で声がした。皿をひっくり返し、飯を握って遊んでいる千歳を気にしながらも顔を出すと、玄関先に見慣れぬ男が二人立っていた。


「臼浦覚平殿であられるか」


 突然投げ掛けられた芯のある強い言葉に、


「はぁ……」


 と、覚平は間の抜けた返事しか出来なかった。

 男二人は軽く名乗ると、すぐに本題を切り出した。


占部備後うらべ びんご様が、貴公をお呼びである」

「私を占部様が?」


 男が深く頷いた。

 占部備後は、許斐左馬頭の片腕として知られ、嶺長内を追い落とした三年前の政変に大変な功労があった。今は中老の職であるが、いずれ執政まで登るであろうと目されている。覚平のような軽輩がおいそれと会える人物ではなく、当然ながら面識もない。ただその評判は耳にしていて、若いが切れ者だという話だった。


「……して、中老様は私に如何なる御用で」

「そこまでは聞いておらぬ。今宵、扇町おうぎまちの〔卯の花〕へ来いとだけ仰せだ」

「そうですか」


 当然断れる話ではない。しかし、話とは何なのか。いや、考えずともわかる。この五年、波風立てぬよう生きてきた覚平にとって、心当たりはそう多いものではないのだ。

 きっと、先日の浪人を斬った件だろう。いや、それ以外に話はないはずだ。

 しかし、町奉行や目付組の取り調べも、簡単なものだった。だが、改めて呼び出しがあるとなると、相手は身分ある者だったのだろうか。男の月代も伸び放題で、どう見ても浪人。同心も目付も、浪人であると言っていた。

 処罰ではないだろう。もしそうなら、この場で言い渡していたはずだ。城府ではなく、扇町の卯の花というのが気になる。


(怖いな……)


 情けないが、押し寄せる恐怖を覚平は感じていた。しかも、呼び出したのは、切れ者と呼ばれる占部だ。何を言い出すか知れたものではない。

 這う這うの体で居間に戻ると、食器という食器を全てひっくり返した千歳が、


「ととぅ、ととぅ」


 と、笑っていた。

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