柔らかな皮膚の下

「まるで“リヴァイアサン”みたい」


 彼女がポツリと吐き出した。血圧の低い、眠たげな眼差しでタイルを一つ取っては置き取っては置きを繰り返している。それは適切なルールではなかったが、ゲームを終えた後の手遊びが罰せられる謂れもない。


「これだから重いゲームは嫌になっちゃう。“万人の万人に対する闘争”……」


 彼女はそう続けた。ぱちん、と最後のタイルを並べ、次のおもちゃを探すように僕の目をじっと見つめている。


「勝っておいて身勝手なもんだね」

「勝てば良かろう、は制作者の傲慢よ。よくもこんなゲームを作ったわね。ホッブズに取り憑かれでもしたの?」

「……カビの生えてそうな薄暗い書庫の地下で?」


 彼女が何を言わんとしているのか、判断がつかない。差し当たって僕は囲碁を題材にした有名な少年漫画の冒頭をもじりながら、会話の進展を期待する。


「そう、あなたはそこで“リヴァイアサン”の初版を開いたの。じゃなきゃこんなルールになるはずないもの」

「面白くなかった?」

「ううん、面白くないわけじゃないの。むしろ良く出来てる方だと思うわ。ただ……」

「ただ?」


 続きを促す。プレイヤーの複雑な感想が言語化されいく過程は貴重だ。僕は、小学校の理科室でやったスチールウールの燃焼実験や一人夏祭りの喧騒から離れて線香花火をひたすらに見守っていたときと同じ心持ちで、彼女の言葉をじっと待った。


「このゲームを遊んでいると、何ていうのかな…… 自分がとても邪悪な人間に思えてきちゃって」

「大丈夫、君だけが特別じゃないよ。ボードゲームプレイヤーなんてみんな邪悪だ」

「それは分かってるけど……」

「どうしてそう思ったの?」


 彼女の苛烈な感情がプレイヤーへ向けられようとしている。僕は慌ててその矛先をゲームへ向ける。アナログゲームやローカル通信対戦のような現実空間で顔を突き合わせて遊ぶゲームでは感情の風向きが何よりも重要だ。ゲームで生まれた感情はゲームにぶつけること、それが友情を守る秘訣。


「だって、このゲームのどこにも“相手の邪魔をしろ”なんて書いてなかったのに気がついたら」

「気がついたら?」

「他の誰かを邪魔するように動いてたもの」


 いつも眠たそうにしている目尻を更に下げて、彼女は感想を言い終わった。


「なるほど。それで“リヴァイアサン”、というわけか」


 ホッブズが著した政治哲学書“リヴァイアサン”は人間の自然状態を“万人の万人に対する闘争”と定義した。能力に差の無い個人が互いに自己の権利を行使し合えば闘争へ至るのは必然だ。ゲームは人類の自然状態をこの意味での“闘争”へ帰着させる性質を持っている。その中でも、順番という個々人の“時差”さえ曖昧にしてしまうルールを持つものはこの性質が強調されやすい。ゲームがプレイヤーに一時的な対立構造を与え、その解決をルールに基づく定量評価に委ねるシステムの集合である以上、この性質はゲームと不可分である。


「この青いタイルなんて“あなたの駒を1回移動させる”としか書いてないのにね。不思議だわ」


 彼女は小さな子供が手のひらを太陽に透かしてみるのと同じように、不思議そうに五色のアクションタイルを眺めている。そんなふうにしても光は透けないよ、と忠告しても彼女はタイルを翳したままだった。僕は呆れて他のタイルを手に取る。そこには、マップタイル1枚を配置する、あなたの駒が置かれたマップタイルから食材1枚を得る、などと書かれていた。どのタイルからも他人を攻撃するような激しさは読み取れない。


「いつの間にか相手を邪魔するように使っちゃうのよねぇ。本当にいやらしい……」

「自由度が高い、と言ってほしいね」

「意地が悪い」


 べぇっ、と彼女は舌を出して僕を挑発した。取り合わず、僕は続ける。


「確かに、自由度の高いゲームでプレイヤーを法で縛らないとホッブズの言うとおりになるね。そこは反省点かもしれない。けれど逆に、それこそがこのゲームの魅力であって、尖った部分とも自負したいよ」

「つまり……このゲームは性悪説なわけだ?」

「それはどのシステムもそうだろう? 設計者は常に性悪説でモノを作る。けれど、僕は性善説を信じてるんだよ、これでも。いつかきっと、誰も傷つけずにこのゲームで勝つプレイヤーが現れる」

「ダウト。そんなことちょっとでも考えていたら、このゲームを作れないわ。良い? このゲームはプレイヤーを邪悪にするの。しかも、自由度の高さで悪意の責任をプレイヤーに押し付けてるところなんて最高にタチが悪い」


 彼女は邪悪な笑みを浮かべながらとんとん、と人差し指でこのゲームの箱を突つく。箱の白さとは正反対ね、と付け加えた。


「バレたか……」


 僕は図星を差されて視線を逸した。しかし、自由度が高いだけでゲームが“リヴァイアサン”に至ることは少ない。柔らかな皮膚の下に隠された――やがて“リヴァイアサン”へ至る鋭利な――思想に、彼女はまだ気づいていない。

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