第3話 約束
凱は煮えくり返る頭を必死で鎮めながら走っていた。一刻も早く、彼女の体を削り取る人間を倒さなければならない。彼女に触れる者が、自分以外にあってはならないのだ。ましてや、命を削り取ることなどは。
先ほどの戦闘で疲弊した身体がみしみしと音を立てる。昔は一度戦ったくらいでけがを負ったり、疲労を覚えることはなかったが、最近は体の衰えを自覚する程度には顕著になっていた。百年余りたっても、ほとんど老いを感じさせない外見。それが鬼の力だけではなく、龍の力も加わって維持されていることに、凱も感づいていた。だからこそ彼女が余計な力を注ぎ過ぎないよう、昔と変わらぬ立ち振る舞いを心がけた。けがをしているのを悟られないよう、戦闘後は彼女との接触を避けた。戦闘では一撃で相手を鎮められるように技術を磨き、余計な心配をかけないようにした。全ては、少しでも長く彼女と共に時間を過ごすため。凱とは違う長さを生きる龍を一人にしないための工夫だった。
龍に示された場所につくと、人間たちは続々と鉱石を運び出す作業をしていた。青く美しい鉱石は宝石として高く売れるだけでなく、顔料や薬にもなるという。開けた場所に並ぶ、複数の荷台に集められた鉱石。売れば一生遊んで暮らせるほどの鉱石が積まれた光景に、男の思考は一瞬で焼き切れた。全身を引き裂かれるような痛みに苦しめられ、地面をのたうち回っていた龍の姿が脳裏に浮かぶ。許せるはずもなかった。人間たちは、凱の一番大切なものに手をかけたのだ。その代償はきちんと払われるべきだった。
ゆらりと木立の間から進み出た凱は、突風のように人間たちをなぎ倒していった。急に現れた男に人々はなすすべもなく打ち倒され、意識を失う。正確かつ無慈悲に急所を打ち抜く打撃は、いつもの何倍も重い。手加減をしてやるほどの余裕は男に残っていなかった。
入り口で作業をしていた人々を全て倒してしまうと、男は洞窟の奥めざして進んだ。中に鉱石を掘る人間がいるはずだ。そこを叩かなければ、彼女の苦しみの元はなくならない。
「――人間ども。今すぐここを去り、二度と山へ立ち入るな。そうすれば見逃してやる」
穴の一番奥。青く煌めく鉱石に囲まれた場所に、採掘する男たちはいた。かろうじて残っていた冷静さをかき集め、人間たちへと警告する。だが彼らは引くことなく凱へと立ち向かってきた。ならばすべて打ち倒すまでだと男は笑う。人間が束になってかかってきても、負ける気はしなかった。
戦局は、凱に有利なように見えた。もう少しですべての人間を倒せる。そう思ったとき、何かが凱の足元へと投げ込まれた。少しばかり気を止めた次の瞬間、目の前が真っ赤に染まり、爆音が耳を破る。遅れてひどい痛みが全身を襲った。全身の感覚がほとんどなくなった状態で、男は焼け焦げた肉の臭いに呆然とする。考えてみても答えは出ない。男の武器に関する知識は、百年前で止まったままだった。焦げた肉のにおいに混ざる、嗅ぎ慣れない煙くさいもの。かろうじて理解できたのは、投げ込まれた何かが自分の体を焼いたのだということだけだった。
「小癪な……にんげんの、くせに」
全身の力を振り絞り、ぼろ雑巾のようになった体を起こす。男の体を動かしているものは、執念と気力だけだった。あの鉱石龍に触れていいのは自分だけなのだと。ただその思いだけが、男を突き動かしていた。
「ひ、ひぃ……っ!」
「まだ動けるのか、あの化け物……!」
男を遠巻きに見守っていた人間たちが悲鳴を上げた。化け物と凱を罵る声に、凱は口端をつりあげる。化け物だからこそ、自分は
「あの龍は、俺のものだ。俺以外、あいつに触れることは許さない……!」
一歩進むたび、全身の骨がみしみしと軋む。かすむ視界の中で動く者たちをただ本能のままに打ち倒す。腕が肉にめり込む感触。ぶちりと何かがちぎれる音。それが自分の体なのか、相手の体なのか、それすらわからなくなってもなお、男は戦い続けた。
「どこだ……! 鉱石がほしい者は全員俺にかかってこい……!」
男の吼える声が洞窟に響く。ほんの数人残った人間たちは遠巻きに様子を伺うだけで、その声に応える者はいない。それでもなお男はゆらゆらと歩き回り、敵を探していた。
「凱……もうやめて、しんじゃうわ……!」
亡霊のように歩き回る男の足を止めたのは、一人の少女の声だった。突然青い光が洞窟中を満たし、薄水色の髪をした美しい少女が顕現する。その声に男がぴくりと反応した。
「コウ……くるな。あぶない、から」
「もういいの……これ以上戦ったら、あなたのからだがもたなくなってしまう……!」
「だめだ、鉱石を狙う者たちをみんな、倒さないと……!」
少女の言葉に首を振りながら、男は糸の切れた操り人形のように倒れた。傍に駆け寄った少女は、山中がびりびりと震えるような音で慟哭する。その場にいる誰をも畏怖させるような声が洞窟を満たす。自分たちは大変なものに手を出してしまったのではないか。そんな恐怖が、彼らの足を動けなくさせていた。
「鉱石を狙う人たち……その人たちが、いなくなればいいのね?」
男は虫の息でもなおまだ立ち上がろうとしていた。その手を押し留めるように握り、少女はゆらりと立ち上がった。青い焔のような燐光が少女の体を包み込み、真っ暗な洞窟にその姿を浮かび上がらせる。岩陰に身を潜めて様子を伺う人間たちは、彼女の怒りの矛先が自分たちに向けられていることを明確に悟り、さらに小さく身を縮こまらせた。
「――そこにいる人間たち、でてきなさい」
怒りをはらんだ硬質な声が、洞窟に反響する。少女の姿はいつの間にか一匹の龍にかわっていた。誰かがぽつりと「鉱石龍だ」と呟く。それは、人々の間に言い伝えられる古の伝承だ。その煌めきに手を付け、龍の怒りを買ってしまった者は、末代まで呪いに身を縛られるのだという。だからこそ、村人たちは無理に鉱石に手を出すことはしなかった。正面から攻め、鬼の男に追い払われれば深追いをせず、その輝きには触れないよう関係を保ってきたのだ。
古い言い伝えを一笑に付し、村人たちを山へ向かわせたのは、最近新たに領主となった男だった。男は反対する村人たちの妻や子供たちを人質にとり、無理やり彼らを山へと向かわせた。火器を使ってでも鬼を殺し、鉱石を手に入れろというのが領主の命であった。だがその作戦が失敗した今、村人たちは迷っていた。龍に従うか、無視して反撃の機会をうかがうか、誰もが判断に苦しんでいた。
「あなたたちをここへやったのは誰か答えなさい。そうすれば、あなたたちは見逃してあげるわ」
龍の言葉に男たちは顔を見合わせた。しばらくして、ゆっくりと一人の男が前に進み出る。彼は鉱石採集の指揮を任されている男だった。ひたひたと怒りをたたえる少女の前に男はひれ伏すと、震える声でその名を告げた。
「このたび鉱石採集の命を下したのは、
「そう。ではその者に伝えなさい。この山に手を出した代償に、領主は末代まで呪われ苦しむことになるでしょう、と」
凛とした声に、男はただ平伏することしかできなかった。きっと自分はこの言葉を伝えた後、領主に家族ともども罰されるだろう。それでもこの言葉だけは伝えなければならない。少女の声は、そう思わせるような不思議な効力を持っていた。
「呪いはゆっくりと体を蝕むでしょう。少しずつ体は鉱石のように固くなり、わずかな衝撃でも砕けやすくなる」
寄せては返す波のさざめきのような声が呪いを紡ぐ。それは死ぬよりも辛い責め苦に違いない。龍の逆鱗に触れた領主の、哀れななれの果て。それほど事を人間は犯したのだ。
「このひとを殺そうとした人間たちを、私は決して許さない。呪いは、領主の血を受け継ぐ者たちにも等しく受け継がれるでしょう」
その言葉を聞いて、男たちは悟った。この龍の逆鱗は、鬼の男だったのだ。彼を傷つけ死に追いやるほどの怪我を負わせたことこそ、何よりも侵してはならない禁忌だったのだと。
「承知いたしました。その言葉、確かにお伝えいたします」
ひれ伏す男がかろうじて言葉を紡ぐと、龍は満足げに笑った。その凍てつく瞳の冷たさに、男は深い水底に突き落とされたかのような恐怖を覚える。はやく、ここから立ち去らなければ。そんな思いに突き動かされ、もつれる足を動かして、仲間と共に洞窟の入り口を目指す。そうして男たちは命からがら逃げだしたのだった。
人間たちが一目散に走り去ったのを確認すると、コウはすぐ凱のもとへと駆け寄った。わずかに上下する喉が、男の生存を告げている。だが命の輝きはあまりにも弱々しくて、全ての力を注ぎ込んでも命を繋ぎ止められるかどうかはわからなかった。
「凱……ごめん、ごめんね……」
こんなことになるのなら、行かせるのではなかった。そう後悔してももう遅い。ぼろぼろと零れる涙が男の体にあたってはじけ、淡い燐光を放ちながら砕けていく。焼け焦げた肌は力を流し込んでもすぐには癒えず、ただ焦りだけが募っていった。
「ねえ、目を開けて……!」
目を開けない男にじれて、とうとうコウは叫んだ。山をも揺さぶるほどの慟哭が洞窟を満たし、鉱石が共鳴して割れていく。龍の声が届いたのか、癒しの力が彼を目覚めさせたのか。やがてうっすらと目を開けた男は、コウを見て安心したように口元を緩めた。
「泣くな。お前が泣くと、山が崩れてしまう」
「がい……っ、だって、だって……!」
「言ったろ。俺は命を懸けてお前を護るって」
「そうだけど、でも、こんなの……!」
凱が目を開けても、コウの涙は止まらなかった。確かに彼は約束した。コウの傍にいる権利と引き換えに、命を差し出すことを。その約束をさせたのは他ならぬコウであり、彼はその約束を守ったにすぎなかった。
「……強くなったなあ、コウ。俺がいなくても、もう大丈夫だな」
コウがはっとが息をのむ。自分が恐れてやまなかった言葉を、彼はとうとう口にした。凱がいなくとも、コウはやっていけるだろう、と。そう言って、凱が自分の傍から離れていくのが怖かった。だからコウは今まで守られるだけの子供を演じていたのだ。彼を自分の傍に縛り付けるために。
それを全て見透かすかのような凱の言葉に、気づけば考えるよりも先に叫んでいた。
「いやよ! 凱がいないとだめなの……あなたがいなくなったら、どうやって生きていけばいいかわからない……!」
駄々っ子のように首を振る龍に、凱は嬉しそうに微笑む。戦えなくなった俺でも、まだお前の傍にいてもいいのか。そう問う言葉に、コウはありったけの力を込めて言葉を紡いだ。
「絶対にいなきゃだめよ! ずっとそばにいるって、約束したでしょう! 勝手に私のそばから離れるなんて、許さないんだからっ!」
約束は果たしなさいそうじゃないと私も一緒に追いかけていくからねっ、と言い放った龍に、凱は困ったように笑った。ゆるく息を吐いて、ほとんど感覚のない手に力を込める。ゆっくりと持ち上げられた右手を見つめて、凱の目から涙が一つ零れた。
(――これならまだ少し、コウのそばにいられそうだ)
そうしてじわじわと流し込まれる龍の力に心地よさを感じながら、凱はゆっくりと目を閉じたのだった。
藍玉の涙 さかな @sakana1127
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