最終回 俺たちの戦いはこれからだ!

 筑前筑後です。

 突然ですが、筑前筑後春秋はこれにて完結いたします。


 筑前筑後先生の次回作にご期待ください。




            完!!


また別のエッセイシリーズを立ち上げますので、どうぞよろしくお願いいたします。


……っと、文字数が足りないので、新作短編の冒頭部を特別に




第一回 人殺し本所押上男女睦みのあと


 男女の睦み合う声が激しさを増すと、上下に軋む床の振動も次第に大きなものになった。

 江戸の郊外。本所押上にある、庭付きの一軒家。かつてはある俳人の居宅だったのを、去年の暮れに薬種問屋の坂田屋万吉さかたや まんきちが買い取って、自らの妾宅としたのである。

 黒装束に身を包んだ次郎八が、その床下に潜んで一刻ほどが経とうとしていた。

 夜。四つにはなるだろうか。視界には暗闇しかないが、昼であっても床下はこんなものだ。それに夜目が効くので、何の支障も無い。

 先ほどから、万吉が女を執拗に責め立てている。それは床から伝わる振動だけでもわかった。責めながらも、

「ここは、こうするのだ。ああ、いい塩梅だよ」

 などや、

「堪らないねぇ。お前は筋がいい」

 と、気色の悪い囀りで、女に手練手管を仕込んでいる。

 女は〔おみち〕という。歳の頃は十八で、深川にある小料理屋の小女だった。働いているところを、万吉に見初められて妾になったという経緯がある。

 顔には幼さが残り、身体も豊満とは言い難い。女として熟れるにも幾分か歳月を要するが、それでも数々の浮名を流した万吉を魅了するだけの身体ものは持っているのだろう。五十路を迎えた万吉が、五日と開けずに通いつめているのだ。

 そうした事を調べるのも、仕込みの一つだった。相手を知り、行動を把握した上で殺す。それで仕損じる事はぐっと少なくなる。

 次郎八は、銭で殺しを引き受ける始末屋だった。今回の仕事ヤマは、両国一帯の裏を統べる嘉穂屋宗右衛門かほや そううえもんという老爺から持ち込まれたものである。嘉穂屋は両替商でありながら、裏の首領おかしらとして、江戸の暗い世界では随分と名を売っている。善人ではないが筋目は通す男で、次郎八に無理な依頼を押し付ける事はない。銭払いも良く報酬も正当なので、最近では嘉穂屋の依頼しか受けてはいないほどだった。

 女の声が大きくなった。違う男の名を呼んでいる。正確に聞き取れないが、万吉の名ではないのは確かだ。

 別の名前が出たのは初めてだった。間男でもいるのか。諍いが始まるのかと思ったが、万吉の動きもお路の歓喜も激しいものになっていた。

「留蔵さん」

 今度は、はっきりと聞こえた。次郎八の中で暗い喜びが芽生えそうになったが、すぐにかぶりを振った。女が原因で死んでいった男を、次郎八は三人ほど知っている。誰も凄腕だったが、一瞬の色情が命取りになったのだ。それに、女に心を奪われるような歳でもない。三十五の次郎八の心は、既に乾ききっている。

(いや、歳は関係ないな)

 と、次郎八は内心で自嘲した。

 今、床板を挟んで自分の上で激しく動いている万吉が、そうなのだ。今年で五十になるが、十八の小娘に入れあげて、本所押上にまで足繁く通っている。

 しかも家付きの女房が怖いのか、護衛も伴っていない。暗殺を目論む次郎八にとっては幸いな事ではあるが、どうやら女房が家中を采配していて、奉公人に夫の行状を報告させているらしい。昔から女遊びが激しい男で、そのツケを払っているのだろう。それでも、浮気を止められない。万吉の女遊びは、もはや病としか次郎八には思えなかった。

 女房の妬心を恐れる小心者を、何故に始末しなければならないのか? その理由はわからないし、わかりたくもない。何より、依頼者の名前や理由を問うのは、治郎八のような始末屋には御法度だった。

 ただこの万吉と共に、もう一人さなければいけない。柳本庄九郎やなぎもと しょうたろう。公儀の旗本である。

 仕事ヤマの説明を受けた時、流石の次郎八も難色を示した。殺しは、一件に対し一人。勿論、護衛を始末する事もあるが、す対象は一人であるのが慣例だった。それに対して、嘉穂屋は理解を示しながらも、

「無理だとは承知しておりますが、この仕事ヤマを踏めるのは次郎八さんだけなのですよ。急ぎはしませぬが、成否によっては嘉穂屋の身代が揺らぐほどでしてねぇ。腕が確かで信も置ける次郎八さん以外に、任せられる人はおりません」

 と、粘ってきた。いつもは無理強いをしない男だけに、意外であり緊迫感もあった。結局は、次郎八が折れた。嘉穂屋には、色々と世話になっている。今回の仕事ヤマは、恩返しというつもりで受ける事にした。

 兎も角、旗本と薬種商を同時にさねばならない。不思議な組み合わせだけに、殺す理由に興味が湧かないわけではなかった。そして思い当たる節もあったが、その思念はすぐにかき消した。

 始末屋として、自分が得るのは報酬だけでいい。後はいらない。真実も正義も必要はしていない。銭だけがあれば、それだけでいい。それ以上を求めれば、待っているのは死だった。

 今回の報酬は、八十両。半金の四十両は既に受け取っている。しかし、その銭の大半が、嘉穂屋から買う阿芙蓉あふように消えていた。

 貰った銭を、すぐに渡す。滑稽であるが、それほど阿芙蓉の毒に魅了されていた。

 阿芙蓉を吸えば、過去を忘れられる。悪夢を見ないし、疲れも取れる。魂が解放される心地がするのだ。

 しかし、吸い過ぎれば稼業に支障が出る。その辺りは、上手く付き合っているつもりであるし、嘉穂屋も多くは売ってくれない。だが、こうした緊張状態では、無性に吸いたくもなる。

 治郎八の額に、じわりと汗が浮かんだ。

 長雨の季節である。幸いにして雨は降ってはいないが、床下はじめじめとしていて、息苦しさもひとしおだった。 

(もう少しの辛抱だ)

 と、次郎八は首の御守り袋を引き出して、一度鼻に押し付けた。特有の甘い香り。それだけで、胸がすっとなった。この中には、阿芙蓉の欠片を入れているのだ。

(よし、やれる)

 埃と黴臭い床下で、蚯蚓になっているのもあと四半刻もないだろう。そのうち、嬌声は途絶えて、万吉が外に出て来るはずだ。

 ひとつきの間、次郎八は万吉を見張っていた。そうする事で、習慣というものがわかってくる。万吉はお路を抱いた後、そそり立った魔羅もそのままに、外に出て夜風を浴びるのだ。時には庭の隅で放尿する事もある。

 そうした行動をつぶさに観察し、時期を見て仕留める。それが次郎八の流儀だった。今回の仕事ヤマでは、もう一人殺さなければならないので、柳本には相棒と呼べる男をつけていた。

 不意に、男女の声が獣の雄叫びのようになった。そして床板が激しく軋み、静寂が訪れた。

 次郎八は蜥蜴トカゲのように素早く張って床下を這い出ると、縁側にほど近い木陰に身を隠した。

 襖が開く。裸の万吉が出てきた。腹が出た、浅黒い肌を持つ男。顔にも体型にも下品さしかない。見たくもない怒張した魔羅も、濡れたままだった。

 万吉が周囲を見渡して、裸足で庭に降りた。いつもの壁際で放尿でもするつもりなのだろう。こちらに近付いてくる。次郎八は懐から吹矢を取り出して、息を殺した。

 殺しの道具は、様々だ。これでなくてはいけないという、変なこだわりは無い。吹き矢を選んだのは、体躯の良い万吉の膂力りょりょくを考えての事だ。反撃される前に、針に仕込んだ毒で動きを封じる。その為に、吹き矢を選んだ。

 顔が見えるまでになった。左頬の大きな黒子。嫌悪感しかない、旺盛な精力を感じさせる顔だ。

 吹き矢を構える。万吉。目の前を通り過ぎる。完全に背を向けた時、次郎八は音も無く飛び出した。

 吹矢を放つ。万吉の背中に刺さるや、片膝をついた。痺れ薬の毒。その隙に駆け寄り、首に手を回した。左手で髷を掴み、右手を顎に当てた。持ち上げるようにして、一息で捩じる。嫌な感触が、両手に伝わった。

 息を確認するまでもなかった。次郎八は首筋に残った、吹き針を抜き取ると駆けだした。塀を一息で飛び越える。外に出ると、家屋より百姓地の方が多い。

 江戸とはいえ郊外にもなると、この時分には人影すら無い。次郎八は、自宅がある深川に向かって歩き出した。

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筑前筑後 春秋~小説とその周辺~ 筑前助広 @chikuzen

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