第6話

 死神さんは毎日、ボクにたくさんのとっておきを教えてくれた。


 雨上がりの葉っぱに載っている雫が、朝の陽ざしを受けて水晶玉みたいに光ること。

 夕焼け空は、街全体を真っ赤に染めて燃え上がらせること。

 あの家の庭でひっそりと咲く月見草は、日が暮れはじめると真っ白な花を咲かせ、朝が来るころにはほんのりと薄桃色に色づくこと。

 空気の澄んでいる日に見上げる夜空には、宝石箱をひっくり返したように、星が瞬いていること。その真ん中で、月が女王様のように冴え冴えと冷たく光っていること。


 今まで何とも思っていなかった灰色の風景は、死神さんのきらきらとした瞳に見つめられ、小川のせせらぎのような優しい声で語られることで、色味を帯びていくようだった。


 彼女と行き遭って初めて、世界はこんなにも色鮮やかだったのだということを知った。


 時折、彼女に言われるままにその光景に見入ると、死神さんはしてやったりという風に口角を吊り上げる。そんな時、ボクはきまりが悪くなって彼女から目をそらす。


 死神さんと過ごす日々は、いつもよりも、ずっと過ぎていくのが早かった。

 今日で、死神さんと行き遭って、六日が経つ。


 今日死の契約を交わすのだと分かっていてさえ、淡々といつも通りに学校に通い、ふらふらと散歩をしてから家に帰りつく。死神さんが心なしか浮かない顔をしているということを除けば、普段となんら変わることのない日だった。


 家族と夜ご飯を食べて自分の部屋に入った時、死神さんは静かにボクを見つめた。

 今日はいつもお喋りな死神さんが、珍しく唇を引き結んで、黙りきりだ。

 なんだか、そわそわしてしまう。

 心地が悪くなってボクが口を開きかけた時、彼女から先に声をかけられた。


「……貴方様。外に、出ませんか?」


 ボクは頷いた。


 真夜中。

 寝静まった街に、ボクの足音だけがコツコツと響いてゆく。隣を歩く死神さんは、こうして無表情で黙ったきりだと、背筋が凍りつきそうなほどに美しい。

 真っ直ぐに腰まで落ちた銀の髪が、さらりと揺れる。


 ボクらは、無言だった。

 やがて近所の小さな公園にたどり着き、立ち止まる。力なく揺れるブランコと、ゾウを模した滑り台が、淋しく月明かりに照らされていた。昼間には子供たちが元気よく飛び回り笑顔を振りまいていた場所だというのが信じられないくらいにひっそりとしていた。


 死神さんは無言のまま、その中へと入っていく。静寂に満ちた公園で、死神さんと二人きりだった。


 ボクは、ブランコに腰かけた。ブランコがボクの重みでみしりと音を立てる。


 死神さんが、ボクの目の前に立った。


 ボクの脈拍が彼女に聞こえてしまうのではないかと思えるほどに静かな夜。 

 その重い沈黙を破ったのは、死神さんの方だった。


「貴方様。貴方様は今でも、私と契約をして、死にたいと望んでいますか?」


 喉をぎゅっと素手で締め付けられたような心地がした。

 こんな風に、動揺することはおかしい。

 だってそれは、一週間前のボクが望んだことだ。


「……もちろん、だよ。分かりきったことを、言わせないで」


 微かに唇が震えた。

 死神さんは、ボクから目をそらさない。

 彼女は眉根を寄せて、ぎゅっと血の気のない唇を噛みしめながら、ボクを見つめている。


「嘘を、つかないでください」


 彼女の声も、震えていた。

 どうしてボクの命を奪いに来た君が、そんな顔をしなければらならないのだろう。


「嘘なんて、ついてないよ」


 どうしたって、声が震えてしまうのを止められなかった。

 死神さんはそんなボクを見て、何も言わずに口を噤んでいる。

 ボクは、目の前の彼女に言い聞かせるようにして、言葉を紡ぎだす。


「ボクは……優しくて大好きだったお婆ちゃんの死ですら、全く悲しむことができなかった人間なんだよ。ボクには、生きている価値なんてない」


 それは彼女への言葉であったと同時に、自分自身への戒めの言葉でもあった。

 その記憶は、ボクの心臓に蛇のように巻きつき、ぎゅっと締め上げる。

 あの日のことを思いだすと、頭が真っ白になって、動悸がしてくる。

 死神さんと行き遭って、もしかしたらボクにも、わずかながら心というものがあったのかもしれないと勘違いしそうになるときもあった。


 でも、やっぱり勘違いなのだ。


 あの日の罪は一生消えないし、ボクという恥さらしな人間は、母と父が死ぬときにもきっと同じことを繰り返す。実の親の亡骸が焼かれるのを空っぽな心で見つめている自分をあまりにもリアルに想像できて、眠れない夜すらあった。


 ボクはぎゅっと唇を噛みしめた。血が滲み、生臭い味がする。


「貴方様は……ずっと、苦しんできたのですね」

 

 ドクンと、胸が高鳴る。

 死神さんの紅の瞳が、慈愛に満ちていく。

 まるで、罪人を赦す聖女のようだった。


「やっぱり貴方様は、誰よりも美しい心を持っています」


 耳を疑った。

 今、彼女は、なんて言った?

 人間の恥さらしであるこのボクに、誰よりも清い心があるとそう言ったのか? 

 わなわなと唇が震える。


 冗談じゃない。


「そんなのありえない! だってボクは、皆のように楽しいときに笑えない。皆のように悲しいときに泣けない。ボクには……心なんて、ない!」


 夜の公園に、掠れた自分の声が小さく木霊する。

 愕然として、目を見開く。

 まるで響いた自分の声に、感情というものがありありと宿っているように聞こえた。

 

 彼女は震えているボクの心の奥底を覗きこむように、じっと見つめている


「それでも、貴方様は、お婆様の死を素直に悲しめないということを悔やみ、悲しんだじゃないですか。それも、今でも苦しむくらいに、深く」


 稲妻で打たれたかのような衝撃が、脳髄を走る。呼吸が浅くなっていく。

 そんなこと、一度も考えたこと無かった。

 ピンで刺された標本の蝶のように身じろぎすらできなくなる。


 月を背負った死神さんが、優しく微笑む。

 この世の誰よりも美しかった。


「貴方様は、他の誰よりも、普通でありたいと願ってきた。それは、誰よりも、お婆様の死を悲しめなかったということを悲しんだということの裏返しなのですよ。貴方様は貴方様なりの方法で、お婆様の死を悼んだのです。ねぇ、貴方様。貴方様は、自分以外の他人は全員一つの物事に対して同じように感じられる共通感覚を持っているとお思いですが、貴方様の思う普通なんていうものは幻想なのですよ。そんな幻想はお捨てなさい」


 それはまるで、天から降り注ぐ甘いマナのようだった。

 その言葉は、清らかな水のようにボクの身体に染みわたり、毒を洗い流してゆく。


 心が熱く震えた。目頭に涙がたまり、彼女の姿がぼやける。喉はすぼまり、震えるようだった。熱いものを押し当てられているかのように、身体中が熱くなる。


 ずっと無いのだと思っていたボクの心を、死神さんは見つけてくれていたのだ。

 ボクは、死神さんと行き遭ってこの言葉を聞くために、十八年間生きてきたのかもしれない。


「……っ」


 その時、ボクは彼女の身体が淡い燐光を発していることに気づいた。

 愕然として死神さんを見上げる。


「……私はやっぱり、どうしたって憑りつく人間に生きてほしいと願ってしまうような、ダメな死神のようです。だって、生きているということは、やっぱり奇跡みたいなことなんですもの。だから、やっぱり今回も契約は不成立です」


 そう言って柔らかく微笑んだ死神さんの身体は、もう大分透けていた。

 彼女の華奢な身体の向こう側に公園の向こう側の景色が見えてきた時、肌が粟立った。


 彼女が、消えてしまう。

 ボクの前から、消えてしまう。


 酷く憔悴した。慌てて立ち上がって、彼女の身体に触れようとして、手が虚しく空を切る。絶望的だった。


「待って! いかないで!」

「さようなら、本当は誰よりもお優しい不器用な貴方様。どうか、心の感じるままに、生きてください」 


 この世界の誰よりも純真な心を持ち、ボクに生きていてほしいと願ってしまった死神さんは、今日という日が終わったその瞬間に、この世界を去った。


 ボクの頬を、一筋の涙が伝う。

 物心ついてから初めて流した涙の味は、塩辛かった。


 ボクはどうして、真夜中にこんな公園で、一人で泣いているのだろう。

 何か、すごく大切なことを、忘れてしまった気がする。

 それはきっと、絶対に忘れてはいけないことだったのに。

 だって、今、ボクは初めて、こんなにも悲しい。

 ああ。

 ボクにも、心があったんだ。


 ボクは、この日、ここで泣いていたことだけは絶対に忘れない。

 涙で滲んだ白銀の月が、いつもよりもずっと綺麗に見えた。

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死にたがりのボクは死神さんに出会った 久里 @mikanmomo1123

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