第5話
学校の最寄駅を降りたあたりで、ボクは顔の筋肉の準備体操を始める。
駅のホームを出て階段を下りてゆき、学校へと向かっていく。その頃にはボクの顔は、人に会っている時仕様に作り上げられている。普段の氷のような無表情から、緩んでいるように見えるあたたかい表情へ。この辺りにまで来ると、いつどこで知り合いに声をかけられるとも限らない。警戒するに越したことはない。
今日は幸い声をかけられることはなかった。心臓がホッと息をつく。一日の内の第一関門はとりあえずクリアだ。経験として、咄嗟に人に声をかけられるとボロが出やすいという統計が出ている。登校中と下校中は警戒度が高めなのだ。
後は、黙々と授業を受けて、昼休みと休み時間の間だけ気を張っていれば良い。
ボクは自分は人とは違うのだと自覚してから、それをどうにか人に悟られまいとすることばかり考えて生きてきた。そして、考えた末に行きついたのが、寡黙キャラという位置づけだ。要するに、発言をするから化けの皮が剥がれてしまうのだ。それならば、発言をしなければ良い。沈黙は金なり、である。
小学校高学年でその事実に気づいたボクは、中学時代には完璧に大人しい奴という位置づけを手に入れることに成功した。それでも果敢にボクに話しかけてくる奇特な奴もいるのだが、稀にそういう奴に話しかけられたときだけ、最低限の受け答えだけをすれば良い。そうすることでほとんどのリスクを回避できる。
気を張り続けてそろそろ顔の筋肉が痛くなってきたという頃に最後の授業の鐘が鳴る。ボクは鏡の前で練習を重ねた完璧に近い作り笑いを浮かべてクラスメイトにまた明日、と手を振り、足早に学校を出る。
学校にあまりいすぎると、気分が悪くなってくるのだ。
一つには、そもそもボクという人間が、他人と会うこと自体にとてつもなく神経をすり減らしてしまうから。
もう一つは、自分の醜さをどんどん浮き彫りにされていくようだから。
小学時代からいつも、友達と楽しそうに話していて心の底から笑い合っているクラスメイト達の姿を、教室の隅の方で陰ながらに見てきた。本を読むふりをして、ひっそりと会話の内容に耳を傾けたりもした。
けれど、その度に思うのだ。
その話のどこが面白いのか、ボクには全く分からない。
なのに、ボク以外の皆は口をバカみたいにあけて、笑っている。皆が皆、そこまで笑うのならば、きっと面白い話なのだろう。
分からないのは、ボクの壊れた心の所為なのだ。
中学時代にはクラスメイトの会話に密かに聞き耳を立てることもやめた。
分からない外国の言葉で話しかけられ続けても、全く理解できないのと一緒だ。もちろん彼らが話しているのは日本語なので、外面としての言葉の意味は分かる。それでも面白さが分からないのは、本質的には理解できていないからなのだろう。
なにはともあれ、今日も何事もなく学校をやり過ごすことができた。
最寄駅に着いたところで、ボクはスイッチを押したかのように無表情に戻る。緊張の糸がほどけたことによって一気に押し寄せた疲れは鉛のように重かった。
ボクが家路についたところで、学校周辺に入ってから一言たりとも発さなかった死神さんは、口を開いた。
「貴方様。一つうかがってもよろしいでしょうか?」
「なに?」
死神さんがとことこと前に歩いて出てきて、ボクを真正面から見つめる。緋色の瞳が、ボクを真っ直ぐに射抜くように見つめていた。
身体ごと焼かれてしまうのではないかと思う程に、強い視線だった。
「昨日貴方様がお母様と接しているのを見ていた時にも思ったのですが……貴方様は、どうして他人と接する時、そんなにも気を張っているのですか」
ドキリとした。
彼女は呆けたボクにとどめを差すかのように、核心に触れるその言葉を放つ。
「貴方様は学校にいる間中、周りを警戒していた。そして、他人と話す時、楽しくもないのに笑い、くだらないと思っているのに感心したふりをする」
彼女の言葉は鋭利なナイフとなって、ボクの心臓をじわじわと抉ってゆく。
生温かい真っ赤な血が、べたつく様に心臓を這っていくようだ。
それは、ボクが最も言われることを恐れていた言葉だった。
耳鳴りのように何度も彼女の言葉がボクの中で木霊する。
心臓を落ち着かせるように、深呼吸をした。
落ち着いて、冷静な思考を取り戻す。
ボクは、死神さんの前で表情を取り繕ったことは一度もない。彼女の前では、まともな人間らしい振る舞いをする必要がない。だって、彼女は死神であり、ボクなんかよりもずっと常軌を逸した存在なのだから。
見抜かれたわけではなく、最初から見せていた。
本来の、空っぽなボクを。
焦る必要なんて全くないのに、柄にもなく取り乱してしまった。
ボクは、自嘲気味に口角を吊り上げる。
「そう、だね。君の言うとおりだ」
「何故、そんなことをする必要があるのですか?」
馬鹿にしているのでもなく、あざけるのでもなかった。その柘榴の唇からは、心の底からわき出た純粋な疑問がほとばしっていた。
たしかに、ボクは六日後には死ぬのだから、他人からどう思われるかだなんて全く気にする必要がない。そうはいっても、長年の習慣は身体中に苔のごとくこびりついており、そう簡単に剥がせるものではないのだ。
ボクの本来の素顔を隠している偽りの仮面は、これはこれで今やもう一つのボクの顔だった。他人が近づいてくるのを察すると、ボクの仮面はボクが意識せずとも、この顔に憑依する。
「死ぬというのに、なお他人からどう思われるかを気にしているなんて、滑稽だと言いたいの?」
ボクの乾いた笑いに、彼女は切れ長の瞳を大きく見開いて慌てて首を横に振った。
「そういうつもりで言ったわけではありません。ただ、他人と話す時も、私と接するときと同じように正直に接すれば良いのではないかと思ったのです」
何を言い出すかと思えば。
君は、ボクの物心ついてからの十五年近くの努力を、全否定するというのか。
「ボクは……皆とは違う……」
唇が震えて、言葉が途切れる。
いつだって、楽しいときに笑って、悲しいときに泣ける普通の人間になりたいと願ってきた。そして、そんなことを思っている空っぽなボクを皆から見抜かれてしまうことが、とても恐ろしい。
だから、醜くても滑稽でも、演技し続けてきたのだ。
君はそんなボクを、無様だと笑うのか。
彼女は、真っ直ぐに滑稽なボクを見据えている。
「貴方様、気づいていますか。今の貴方様は、無表情なんかじゃないですよ」
ハッとした。
彼女の磨き上げたルビーの瞳には、唇をぎゅっと噛みしめて、彼女を睨むように目つきを尖らせたボクが映っていた。
死神さんが微笑む。
「貴方様の心はちゃんとここにあるのです」
その月光よりも白く、折れてしまいそうな細い腕をボクの方に伸ばしてボクの胸を指差した。
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