カスパロフの鏡

 第一戦の終盤は、ケイ有利の状態が続きながらもなかなか相手を詰めきれなかった。

 序盤でお互いに騎士ナイト僧侶ビショップを交換したため、チェックメイトをかけるには決め手となる駒が足りないせい――のようにも見えないこともなかったが、もちろんこれもケイの作戦の一つである。あえてとどめを刺さずにいろいろな手を試し続け、AIの思考ロジックについて少しでも多くの情報を得ようとしている。


「相手の逃げ回り方、よう見て参考にしいや」


 かすりが俺たちに言う。そう、ケイの対局が終われば、今度は俺があの様に、逃げ回りながら引き分けを狙わなければならない。

 七十三手に及ぶ長期戦の結果、ついにKH一号の画面に『投了』の文字が浮かんだ。


「勝者、白」


 時計係の草加くさか副委員長がそう告げると、ケイは「ありがとうございました」と頭を下げて、会議室を退室した。


 さて、ケイはこの対局を通してKH一号の思考パターンをかなり解析し得たはずだが、問題は『それを生徒会側に悟られてはならない』という点だ。

 ケイがAIのロジックを解析し、それを元に我々にアドバイスを与えた事を生徒会側が察知したら、もちろん生徒会側はKH一号の設定を変更し、今までと違う指し手を指すように修正してくるだろう。そうなったら、ケイの努力が水泡に帰す。

 ケイが俺たちにアドバイスするためには、生徒会に悟られぬように、LINEなどでこっそりと伝える必要があるわけだが、そうなると困るのは、ケイのすぐ次に出番となる俺だ。

 俺は第二試合で対局するために、速やかに生徒会にスマホを預けて会議室に向かわなければならない。スマホを預ける前にケイとLINEでやり取りしたらいかにもアドバイスをもらっている感じに見えるし、二人で生徒会の目の届かないところでこそこそ話し合うのももっと怪しい。どうやってもケイから情報をもらう方法がないのだ。

 だが俺は今回の対局のために、事前にある作戦を練っていた。もちろんその作戦を実行に移すためには、俺にはチェスの知識が足りない。そこで事前に、ケイに相談していたのだ。俺のやりたいことをするためには、相手がどう指してきた時にどう返せばいいのか、ということを。この作戦さえ上手く行けば、第一試合でケイが掴んだ情報を教わらなくても勝てる算段はある。

 ケイから事前に送ってもらっていた資料を、最後にもう一度ひととおり見返すと、俺はスマホを生徒会に預けて会議室へと向かう。そしていよいよ、第二試合が始まった。



 先手であるKH一号がキングの前の歩兵ポーンをe4へ進める。すかさず俺も歩兵をe5へ進める。生徒会室ではかすりが俺の手を見て訝しんでいるはずだ。せっかくシシリアン・ディフェンスを教わったのに、それと違う手を指しているのだから。だが、俺がシシリアン・ディフェンスについて教わりたがったのは、普通にその定跡どおりに指すためではない。カスパロフがIBMのコンピュータ「ディープ・ブルー」と戦った時の戦略を真似るためだ。

 一九九七年のディープ・ブルーとの対戦、先手と後手を入れ替えて計六戦が行われたうちの第三局のことだ。この対局において、カスパロフは奇策に打って出る。ディープ・ブルーに組み込まれているオープニングの定跡データベースにない様な手を指したのだ。ディープ・ブルーもKH一号と同様、あらかじめ組み込まれたオープニング定跡どおりに指せる間は、その定跡どおりに指すことで思考時間を節約している。早い段階で定跡から外れることで、ディープ・ブルーは持ち時間を多く消費することになるし、悪手を指す確率も上がる。

 ある本によると、この時のカスパロフの手は、まるでシシリアン・ディフェンスの白と黒の手を入れ替えたようであったという。

 チェスは将棋と違って、白の定跡をそのまま黒が打っても通用しない。ゆえにディープ・ブルーにはシシリアン・ディフェンスの白黒逆転パターンの定跡などインプットされていない。対するカスパロフにとって、シシリアン・ディフェンスは得意中の得意戦術である。白黒逆転という応用を簡単にやってのけられるほどに。


 それと同じで、俺がシシリアン・ディフェンスを覚えたのは、自分がそれを指すためではなく、相手をシシリアン・ディフェンスの白黒逆転パターンに誘導するためなのだ。誘導する方法は、ケイに考えてもらった。敵がこう指してきたらこう、違う場合はこう指せば誘導できると、親切に何十通りも図解入りで教えてくれた。100%暗記できているわけではないが、できる限り覚えてきたつもりだ。それを使って、相手をシシリアン・ディフェンスの白黒逆転に誘導し、持ち時間を消費させ、悪手を誘う。


 名付けて、『カスパロフの鏡』作戦。

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デタラメ高校変人部 夢樹 @yumekix

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