ミステリー

淺羽一

〈掌編小説〉ミステリー

「犯人はあなたです」

 効果音があればビシッと鳴っただろう、反った指先がいっそ上を向くくらい人差し指に力を込めてS氏に向けてやると、彼は急に顔面を青ざめさせて震えだした。ペンションのリビングに集まった全員が一斉に、驚きと怒りのない交ぜになった視線を集中させた。

「違う、俺じゃない」

 大げさなほどに首を左右に振りながら、S氏は裏返った声でそう繰り返した。だが、そのあまりと言えば露骨な余裕の無さが、いよいよ皆の不信を確信へと変えていく。そしてまた、彼自身もそれを敏感に悟っているのだろう、だからこそ動揺の悪循環にはまったS氏の様子は滑稽なまでに無様だった。

「あなたはそこにいる奥さんと一緒の部屋にいましたね。そして、殺された彼女が部屋にいる頃を見計らって浴室に入り、そこの窓から先端に石をくくりつけたロープを使って、真下にある彼女の部屋の窓を割ったんです。あたかも、彼女を狙うストーカーが浴室から侵入しようとしたと見せかける為に」

 言いながら、大きく伸ばした腕を体ごと前へ倒して、窓の桟から身を乗り出して重りの付いたロープを振り回すと言う動きを再現する。言葉だけでは怪訝そうな顔をしていた者も、それで意味を理解してくれたらしかった。

「誤解だっ。第一、俺はロープなんか用意してないし、石だって無いだろ」

「石は事前に拾っておき、窓を割った直後に投げ捨てたんです。幸いにして、建物のすぐ前は林ですから探すことは困難です。そしてまたロープは、ほら、あなたが今もしているそのネクタイですよ」

「そんな……。そんなの出鱈目だっ」

「いいえ、真実です。なぜなら、この作業は彼女の部屋の真上にいたあなた方ご夫妻にしか出来なかったのですから。さぁ、奥さん。しっかりと思い出して下さい。ご主人はあの晩、あなた方の部屋にいる間にトイレに行き、ネクタイを外して出てきましたね」

 いきなり話の矛先を突きつけられたS氏の妻はかなり驚いた表情を浮かべたものの、己に集まる厳しい視線にとにかく何か話さなければならないと思ったのだろう、やがておずおずと口を開いた。「あの時は、私も他の用事をしていて……。でも、改めてそう言われれば、そうだわ、確かにこの人はトイレから出てきた時にネクタイを外していました」

 言い終える頃にはもうすでに、主人を見つめる彼女の眼差しは恐怖に染まっていた。

「洗面所に行ったらネクタイくらい外すだろっ」 最早、S氏の言い訳など誰一人聞いていなかった。

「良いですか、皆さん。こうして犯人は彼女の不安を煽り、ここ最近は改善されつつあった不眠症を再発させたのです。そして彼女はあの晩、恐怖を忘れて眠る為に、お守り代わりにバッグへ入れていた不眠症の薬を、つまりは犯人によってすり替えられていた毒薬を飲んでしまった。たった一錠だけしか薬が無くなっていなかったのは、そう言うわけなんです。まぁ、あれが毒薬であると言うことは、警察が調べればすぐ分かるでしょう」

「無茶苦茶だ。第一、俺は」

「いい加減に認めて下さい。今回の犯行は、バッグの中に薬があるなど彼女の普段の生活習慣をよく知り、またそれが置かれてある部屋へ彼女に警戒されることなく入れた人物、要するに、彼女を愛人にしていたあなたにしか出来ないんですっ」

 再び、ビシィッと決めてやる。直後、「だから俺は」としつこく言い訳しようとしていたS氏を、彼の妻がヒステリックな声で遮った。「もう止めて。私、知っていたんだから。あなたはバレてなかったつもりみたいだけど、あなたがずっと前から他の女と浮気してたってことはとっくに知っていたのよ。それが、その相手がまさか彼女だったなんて」

 その瞬間、その証言が駄目押しとなり、他の面々から「何て奴だ」 「最低」 「浮気を隠す為に殺すなんて」などと冷たい非難の声が上がった。

 遂に膝から崩れ落ちたS氏は、ややあってから蒼白な顔面でこちらを見上げ、涙混じりに言ってきた。「信じてくれ……。なぁ、頼むよ。本当に俺じゃないんだよ」 誰一人として、妻でさえ、彼に手を差し伸べる者はいなかった。

「Sさん……」

 ……んなこと最初から知ってるよ、と心底から呆れてしまった。本当に、惨めさもここまで行くと逆に滑稽で愉快だと思った。まったく、普段から嫁さん以外の女にうつつを抜かしているからこんな羽目に陥るのだ、駄目亭主め、と声には出さずに告げてやる。

「本当に、本当に、きっと真犯人は別にいるんだよ……」

 だから知っていると、少しばかり面倒になってきた。と言うか、S夫妻の真上の部屋から長いロープと石を使ってあの女の部屋の窓を割ったのも、睡眠薬を毒薬とすり替えておいたのも、そもそもあの女と付き合っていたのも、全部何もかも俺なのだから。

 今さら、真犯人なんて出てくるはずがないのだ。

「……さぁ。立って下さい、Sさん」

「嫌だ、嫌だ」

「もう終わりなんですよ」

 冷徹な口調で告げて、彼の肩を掴んだ……直後だった。

「うわぁーっ」

 突如として感情を爆発させたS氏がこちらを突き飛ばしたかと思ったら、その勢いのまま唖然とする皆の間を突っ走り、部屋の壁に掛けられてあった猟銃に手を伸ばした。こっちはこっちで、簡単に尻餅をついた姿勢のまま「止めなさい」なんてしれっと言ってみる。パニックに陥ったり激昂したりしている時に冷静に指摘されるほど感情を逆撫でされることはない。当然ながら、そんな制止に効果なんてあるはずもなかった。

 腰だめに構えた銃の先端を振り回しながら、「近寄るな」と叫ぶS氏。

 なので俺は「皆さん、下がってください」とかなんとか格好良く言いながら、「これ以上ご自分の罪を増やしてどうするんですか」と一歩ずつ彼へと近付いていく。

「来るな」とS氏が悲鳴じみた声で威嚇してくる。けれど、足は止めない。

 勿論、猟銃が本物であり、実際に弾丸が込められていることは承知している。現に二日前にはそれで狩られた兎の料理をご馳走になった。ただ、同時に、現在は何者かによって細工がされていて、そのまま引き金を引くと暴発してしまうことも知っていたのだ。S氏まで残り数メートル。彼の指は引き金に掛かっていて、全身の筋肉は緊張のせいで酷く強ばっている。他の全員は皆、背後にいる。

 そろそろ頃合いか、そう判断して、大きく息を吸い込んだ。

 そして、腹筋を使ってその全てを声に変えた。

「止めろっ」

 その刹那、「ひっ」と言うS氏の声を聞いたのは、きっと俺だけだっただろう。なぜなら、驚きのあまり反射的に腕を引いた彼の胸の前でその銃が暴発したからだ。

 本能的に顔を覆っていた両腕をどけると、視界に飛び込んできたのは銃身の付け根辺りで破裂した猟銃の残骸と、その破片と衝撃によって胴体を真っ赤に染められた彼の姿だった。床に転がる彼の首筋は、無惨にもずたずたになっていた。一瞬遅れて、盛大な悲鳴が部屋中に木霊した。

 たとえ凶悪犯と言えど、やはり目の前で傷つかれると心が痛むらしく、背後から鼻声に混じって同情の声も聞こえてくる。だが、誰も近付いたり、ましてや声を掛けたりしようとまではしない。冷たいわけではない、状態が誰の目にも明らかなだけだ。

 そこで俺は仕方なく、全員を代表してS氏の亡骸に近付き、その傍らに膝を突いた。そしてまず、「火傷しませんように」と内心で思いつつ猟銃に手を伸ばす。幸いにして余熱こそあったものの掴めないほどでなかったから、慎重に持ち上げる風を装ってここぞとばかりに銃全体を触っておいた。余談だが、指紋は軍手や手袋をしていても残る場合がある一方で、そもそもが油分である為に火や熱によって消失しやすいと言う性質を持つ。ただし、それらはどちらも絶対でないので、もしも仮に心当たりのある場合は、念には念を押しておいた方が賢明だ。

 やがてゆっくりと、新しい指紋だらけになった猟銃を脇にどけて、そっと血やその他諸々で汚れた首――と言うか首があった辺り――に指先を添えた。ぬっちょりとした感触の下に、生存の証である脈拍なんて存在しなかった。

 不安と恐怖を涙で溶いて彩られた幾つもの瞳に、静かに首を振ってやる。

 改めて各人それぞれの反応が生まれ、それらをぼんやりと眺めながら、この凄惨な事件に幕が閉じられていく実感を抱いていた。





 存外に早く終わった警察の事情聴取から帰宅した夫は、テーブルに並ぶ温かい料理を見た途端、「あぁ、幸せとはこういうことか」なんて、大げさに喜びながら満面の笑みを浮かべてくれた。それに私は、ちょっとわざとらしいかなと呆れつつも、現実と幻想がぴたりと重なったとでも言いたげな様子に、結局は自分こそ幸せを感じてしまう。

「お疲れ様。色々と大変だったみたいね」

 背広を脱がせながらそう言うと、彼は「そうでもないさ」と広い背中を強調するように答えてきた。いつものことだけれど、このちょっとした強がりに、堪らない頼り甲斐と愛しさを抱いてしまうのだ。

「ちょっと前に刑事さんから連絡があって、今回も先生のおかげで事件が解決して感謝しています、だって」

「何だ、さっきまで一緒にいたのに、またあれからわざわざ電話してきたのか。……あぁ、なるほど、君へのフォローのつもりだな。事件のせいで、思いがけず泊まりがけになってしまったから」

「そんなに気を遣ってくれなくても良いのに。それとも、もしかしてあなたが刑事さんに、うちの嫁はそれくらいしてくれないと後が恐いんだ、なんてことを言ってたりして」

 ちょっと意地悪く冗談を言ってみただけなのに、彼は本気で焦ったみたいに「そんなはずないだろ」

 全くもって可愛らしい人だと思った。これで、警察内じゃどんな難事件もたちまち解決してしまう名探偵だなんて崇められているんだから、本当におかしな話だ。

「俺にとって、君はこの世で一番に素敵な奥さんだよ」

「はいはい、お世辞は良いのよ。それより、ほら、早く食べないと冷めちゃうわ」

「お世辞じゃないんだけどなぁ」

 そして彼は「本当だよ?」なんて軽く言いながら、テーブル席に着く。「いつもそうだけど今回の事件だってさ、しばらく前に君から貰ったメールがヒントになったおかげで解決出来たようなものなんだから」

「そうなの?」

「ほら、こないだちょっと熱っぽいって言ってた時にさ、花粉症と風邪の薬を飲み間違えたってメールしてきたろ。犯行のトリックに悩んでた時に、ふとそれを思い出したんだよ。それでピンと来たのさ」

 だから君のおかげなんだよ、と誇らしそうに笑う彼を見ていると、何だか本当に良いことをしたのだなんて自信が湧いてくるから不思議だ。

「私は頭が悪いから分からないけど、それで解決出来るなんて、やっぱりあなたは天才ね」

「頭が良くないなんてとんでもない。俺にとって、君は誰よりも最高さ」

「名探偵にそう言われるなんて光栄だわ」

 端から見れば馬鹿みたいに思われるかも知れないけれど、これが私達の日常なのだ。とても幸せで、とても穏やかで、これからもずっと続いていく。

「早く、君も座りなよ」

「えぇ。飲み物を出したらそうするわ」

 私達は相手が座るまで食事を始めない。だから私はさっさと冷蔵庫から、彼の為にキンキンに冷やしていた瓶ビールを取り出そうとして。

「あら、いけない」

 と、台所の流しの横で画面を開いたままほったらかしにされている携帯電話に気が付いた。さっき、料理の支度も一段落したので、後片づけをしながら昔のメールを懐かしんでいた最中にいつもの刑事から電話が掛かってきて、うっかり忘れてしまっていたのだ。

「どうしたんだい」

「私ったら、こんな水場に携帯を置きっぱなしにしていたみたい。濡れて壊れたら大変なのにね」

「君はわりとドジだからなぁ。まぁ、そこが可愛くもあるんだけど」

「もう、あなたったら」とかなんとか、やっぱりバカップルさながらの返事をしながら、肌が張り付くほどの生ビールを取り出して、代わりに冷蔵庫へ今し方に見つけたばかりの携帯電話を放り込んだ。それからさらにグラスを二つ取って、彼の横にちょこんと座った。

「携帯電話は大丈夫だった?」

「うん、助かったわ」

 携帯電話を取り出して、「ほらね」と待ち受け画面を開いて見せる。そこには彼の寝顔がフルカラーで写っている。

「良かったね」とちょっとだけ照れ臭そうな彼に笑みを返しながら、再び携帯電話を畳んでポケットにしまった。そして二人仲良く「乾杯」とグラスを合わせる。

 お酒に弱くてすぐに酔ってしまう妻らしく、泡に舌先を浸すようにビールを飲みながら、いけない、いけないと反省した。あんなもの、彼に見つかったら大変だ。刑事からの電話で今回もいつも通り事件が問題なく終わったことを知って、ちょっと気が緩んでしまったらしい。

「ぷはぁ」と気持ちよさそうに声を上げる彼の横顔を眺めながら、この穏やかな幸せをいつまでも守らなければならないと改めて思った。ちょっとした火遊びも、その後始末も、全てその為に必要なことなのだ。

 食事が済んだら、あの携帯電話も処分しよう。この世から消えた浮気相手用の電話なんて、今となってはゴミでしかない。結論はいともあっさりと出た。

 ただ、その一方で、家計を預かる身としては一つだけ気がかりがあるのも事実で。

「どうしたんだい、変な顔して」

「ううん。ちょっと、今月は電話にお金を使い過ぎちゃったかもって」

「何だ、それくらい平気だよ。気にしなくて良いじゃない」

「そうかな。うん、それなら良かった。ありがとう」

 優しい彼の言葉に安心しながら、少し勿体ない気もするけれど、今度はどんな携帯電話を買おうかと頭の中でカタログを広げた。


〈了〉

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