熟れた太陽

風乃あむり

熟れた太陽


 熟れた太陽が沈みいくところだった。


 彼は眼鏡をよけて乱暴に目を擦り、はっきりとしない視界のまま、もう一度窓の外を見やった。


 橙、黄金、藤、飴色。


 あざやかな色彩が次第に鮮明になる。それらは微妙に重なり複雑に溶け合いながら、黄昏を形作り眼前に迫って彼を圧倒した。


 彼が目を見張るその中心に、太陽が滲む。


 柿のようだ、と思った。

 幼い頃、祖父と見上げた熟れすぎた柿。美味しそうだねぇと笑いあった。


 彼はまた目を擦る。


 気づかぬうちに、随分と疲れがたまっていたようだ。


 ――そうか、私はあまりに長く本を読み続けていたのか。


 表紙を開いた頃は、まだ暁の光を感じる刻限だったのに。


 一心に白い光の中、新たな物語に思いを馳せて最初の一頁目を踏み出した。


 ただ、今はもう疲れて目が霞む。


 手元の本に栞を挟んで、ページを閉じた。ついでに瞼も閉じてしまう。そうして揺り椅子の背もたれに身を任せ、自分の呼吸だけを意識した。


 息をしている。吸って、吐いて。


 吸って。


 吐いて。


 それだけのことを、膨大な頁に目を落としながら、どれほど繰り返してきたのだろう。


 彼の指が一枚一枚を捲り、また捲り、幾度も捲り、その指が艶を失い皺を重ね思うように動かなくなるまで、頁を捲り続けた。


 緩やかながらも起伏の大きい物語だった、と振り返る。愛すべき一冊だった。


 けれどもう黄昏が窓の外に迫って、光は刻一刻と失われていく。


 衰えた彼の視力では、これ以上文字を追うことはできそうにない。


 力を抜いた。眼鏡も外して脇にやる。太腿の上に本を置いたまま、だらりと足を伸ばして、腕は肘掛に預けた。

 きぃきぃと椅子が鳴る。体が微かに揺れる。 


 そして彼はそのまま深い深い眠りの世界に沈んでいく。


 吸って。


 吐いて。


 吸って。


 熟れた太陽が地平線の向こうに滴り落ちて消えていく。


 黄金色の残滓が、宵闇に向かって離別の光を投げかけていた。


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熟れた太陽 風乃あむり @rimuro

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