第3話-2

「飛び込めだァ?」


 胴間声を上げたのは、学ランとカッターの前を開けて真っ赤なTシャツを露出させた、絵に描いたような不良姿の煉児だ。


「砂浜に倒れたところから、目を覚ますんじゃなかったのかよ。せっかくの衣装がズブ濡れになるだろうが」


 詰め寄る煉児に、カントクは失笑する。


『濡らさなければ意味がないだろう。君たちは、海から漂流してきたのだよ?』


 煉児は三白眼を見開いた。俺たちも、動揺していないといえば嘘になる。


 砂浜に打ち上げられた十人の男女。それを演じるのに、髪の毛や衣服の表面を濡らし、あとは砂汚れのメイクを施す程度で支障はないはずだ。わざわざ本物の海水で全身をグショグショに濡らす必要はない。映画は、あくまで加工品だ。


『これからの撮影が思いやられるね。これが私のやり方だ。本物に勝るリアルはない』


「きゃー!」


 ザバーン、と背後の海が大きな水音を立てて、何事かと振り返ると、波打ち際を蹴って海にダイブした絵磨が、セーラー服をずぶ濡れにして笑顔を弾けさせていた。


「みんな、早くおいでよー! 楽しいよー!」


 一同、呆気にとられる。最初に吹き出した明日火が、短いスカートをはためかせてエマのすぐ隣に飛び込むと、幹太、陽色、新一、それから鈴子と、みんな気を抜かれたようにエマに続いた。


「佑くんも、早くおいでよー!」


「あ、あぁ……」


 楽しそうに水を掛け合う絵磨たちを見ていたら、俺の足も自然と砂浜に吸い寄せられていた。どのみち、俺はカントクに逆うつもりなどない。この人の考え方は、面白そうだ。


 ザボン、と飛び込んだ俺に絵磨たちが歓声を上げる背後で、煉児が苦々しげに舌を打った。他の全員が海に入ってから、煉児は銀髪をかきむしり、悪態をついてようやく入水した。


「おい、佑! あそこの岩場までどっちが先にたどり着けるか競争だ! 犬掻き縛りな!」


「ねぇねぇ、今思ったんだけど濡れたブラウスってエロくない? ほら佑、どうあたし、せくすぃー?」


「ユウくっ、ここらへん、私足つかなガボボボボボ」


 三人のバカがいっぺんにしゃべると地獄だな。


『……今、本土では真冬だ。南の島とは言え、冷たくはないのかね』


 たぬきの着ぐるみで表情は読み取れないが、きっと呆れ果てているだろうカントクがそれだけ言った。


 何はともあれ、全員ぐしょ濡れ。倍以上にも重たくなった制服を引きずるようにして、俺たちは砂浜に上がった。冬の冷たい浜風が、あっという間に俺達の体温をさらっていく。


「おい、お望み通り濡れてやったぞ。浜に打ち上げられてどれくらい経ったかも分からねぇ人間が、こんなにずぶ濡れの方が不自然だと思うけどな。これで満足か? ならさっさと撮影を始めようぜ。凍えちまう」


 濡れ鼠の煉児が低く吠える。カントクは短い両手を「まぁまぁ」と言いたげに差し出して、全員を見渡した。


『諸君、適度に散らばってその場に倒れたまえ。こちらからあちらに向かって、ドローンで舐めるように空撮する。顔がよく映るように向きや角度を考えてくれ。主演の二人は、一番あちら側に並んで倒れてもらおう』


 カントクの指示に、俺たちは淀みなく動いた。アシスタント役らしきたぬ先生が操縦するドローンが、低空をテスト飛行するその軌道を確認して、綺麗に顔が映るような倒れかたやロケーションを熟考する。


 間もなく、横に広い砂浜に、不規則に、ある程度の等間隔で十人が倒れた。お遊び気分は、とっくに全員抜けていた。緊張感で張り詰める現場を、冷たい浜風が吹き付ける。粗い砂粒に頬を押し付けて、濡れた前髪を軽く横に流すと、俺は息を深く吐いて目を閉じた。


『君達は、既に、気を失っている』


 あぁ、その通りだ。撮影が始まる瞬間独特の空気が、現場全体に浸透していく。心音が弱まり、呼吸が浅くなっていく。俺たちは、今、気を失っている。最初に主演の二人が目を覚ますまでは、絶対に、ピクリとも動いてはいけない。


 緊張感が限界に達した瞬間、カントクが低く口を開いた。



『それでは、今から約二時間。日の沈みかける頃まで、そのまま待機』



 衝撃的な指示に、俺たちはそれでも身動きを許されなかった。


 煉児でさえ、短く呻いたのみで、顔を上げることさえできない。


 六百日かけて体に埋め込まれた役者のスイッチを、オンにされているからだ。


 オンにされたまま、放置されている。今動いたら全てが台無しになるという、強迫観念に近い何かが、俺の全身を意志よりも遥かに強い馬鹿力で押さえつけ、指一本動かすことができない。


『君たちは、今しがた、浜へ打ち上げられた。溺れて気を失ったのなら、目を覚ますまでには少々時間がかかるはず。その頃にはちょうど、オープニングにふさわしい夕空になるだろう。君達の姿もね』


 思い出したように、冷気を孕んだ突風が俺たちを襲った。誰一人、声一つ出せない。俺は遠くなる意識のなかで、猛烈な寒さと戦った。俺は既に、黒衣 佑ではなく、『シアター』のユウだ。カットがかかるまで、カチンコが鳴るまで、あの体には戻れない。どうしても戻ることができない。


 ユウは、気を失っている。知らない場所で、何も知らず、深く沈んだ意識の片隅に、極寒と塩の味を感じながら。横たわる体から、俺、黒衣 佑は締め出されて、風に飛ばされてしまう。


 どれだけ時間が経っただろうか。氷のようになった制服に包まれて、指の感覚さえないほど全身冷えきっているのに、不思議と体は震えない。なぜなら、ユウは、気を失っている。極寒の中にあっても、浅く、微かな呼吸を繰り返すだけ。


 ーー絵磨は。


 ふと、爪の先に至るまでユウに支配されていた俺の体に、俺の意識がほんのわずか頭をねじ込んだ。


 あんなに小さな体で、絵磨はこの寒さに耐えられるのか。凍え死んでしまうのではないか。


 そう思い至った瞬間、ピクリ、と、凍りついたようだった指が動いた。途端に魔法は解けた。俺はたちまちバネ仕掛けのごとく跳ね上がり、体を起こした。


「……は」


 日は、既に暮れかけていた。


 茜と濃紺が絡み合うような空と、黒い海。薄暗い砂浜に、倒れる九人の男女。映画のワンシーンみたいな、美しく、異様な光景だった。


「お、おい、お前ら起きろ。死んじまうぞ。カメラはまだ、回ってないだろ」


 そこまで乾いた声で言ってから、思い出したような寒さに全身を抱く。体は骨の芯まで冷えきって、歯がガチガチ鳴って止まらない。これほどになるまで時間の過ぎた感覚が全くなかった。まるで本当に、今まで気を失っていたような。


 ふと、少し離れた位置に立っていた、黒い巨大なたぬきの着ぐるみの存在に気づいた。カントクだ。彼と目が合う。


 全身の肌が粟立った。着ぐるみの顔は、表情など分からないのに、カントクは今、明確に笑った。


『やはり君だけ、半端だな』


 屈辱で頭が熱を帯びる。俺以外の誰一人、二時間もの間ずぶ濡れの体で浜風にさらされて、ついに身動き一つ取らなかった。


 隣の幹太も、その向こうの明日火も、寒さにやられて顔面蒼白、唇まで真っ青で、死んだように横たわっている。これが、カントク流のメイクなのか。自然の風で乾かされた制服や髪の痛み具合も、これ以上ないという状態に仕上がっている。


 幹太も、明日火も……普段はあんなにうるさいくせして。今だって、手を叩けばいつでもケロッと起き上がる用意ができているくせして。本当に、気絶しているようにしか見えない。


 いつもそうだ。俺は、カメラが回っているときのこいつらが、時々恐ろしい。


『黒衣君、そろそろ準備したまえ。頃合いだ。ーーでは、撮影を始めよう』


 カントクの合図で、一斉に大勢のたぬ先生が闇から現れ、カメラマン、アシスタント、照明、音響などのスタッフに早変わりする。俺は慌ててその場にもう一度うつぶせになって、どうにか再びスイッチを入れようと試みた。


 長い静寂を、やがて、機械の声が切り裂いた。


『ーーアクション』

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シアター 旭 晴人 @Asahi-Aoharu

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