第2輪 約束

 深々と頭を下げ謝辞を述べる親子の姿を背中に焼き付け、少年は後ろ手で軋り声を上げる扉をゆっくりと閉めた。

 赤銅色の前髪をさらう涼風がひやりと首筋を撫で、少年は思わず肩を震わせた。

 天に広がる紺青。鮮やかに輝く小さな星彩たちをその身に纏わせ、その周りを肩身狭そうに漂う片雲が、いたずらに吹く清風に散り散りにされていく。

 あと何度、この素晴らしい景色を目に焼き付けることができるだろうか。そこまで考えて、少年は糸が切れた操り人形のようにかくりと膝を折った。

 突如こみ上げてきた喉元を締め付ける熱い塊を必死に嚥下し、少年は同じくらいの熱と締め付けを訴える左胸を、右手で圧する。

 ただの気休めだ。だがそうだと分かっていても、そうすることでしか正気を保てない。


「──フレアっ!!」


 前方に屹立していた大樹から、悲鳴にも似た声とともに飛び出してきた、小さな影。

 子犬のように転がり出てきたそれは、発作に苦しみ喘ぐ少年──フレアの傍らに膝をついた。


「また無茶をして! なんであんな高難易度な魔法を……!」


「すみ、ません……ナツ。ちょっとした、気まぐれです……っ」


 ナツと呼ばれた少女──ナツハは焦燥をジルコンブルー色の瞳に浮かべ、慣れた手つきでフレアの背中をさする。

 彼の手足は氷のように冷え切っており、元々色白だった肌は色を失っている。額には大粒の汗を滲ませ、両の瞳は固く閉ざされていた。

 幾度となく深呼吸を繰り返し、発作の波が落ち着いてきたところで、フレアはようやく胸から手を離した。


「──ッ、もう、大丈夫です、ナツ。ありがとうございます」



 何度咎めても、彼は"それ"を──"治療"に必要以上の効果を有する魔法の使用を、やめようとしない。それは、これまで彼と旅をしてきて、すでにわかりきっていたことだった。

 だがそれでも、ナツハは言わねばならなかった。とがめねばならなかった。

 魔法を使うたび、彼が命を縮めていると知ってしまってからずっと、ナツハはフレアの耳にたこができるほど、口を酸っぱくして言い聞かせていた。

 彼が自分との"約束"を、違えないように、忘れることのないように、と。

 半ば呆れたように微笑んだナツハは、自らの純白のスカートの裾についた土を払うことなく立ち上がると、フレアに手を差し伸べる。


「まったくもう! こんなに言っても聞かないなんて……あのグズでノロマなシュバルツ魔道団でも、もう少し聞き分けがいいと思うわ」


「あはは、ナツは厳しいですね」


「そう思うんだったら、使う魔法はちゃんと選んでよね!」


 差し出された小さな手をフレアは握ると、全体重を預けることなくほんの少しばかりの助力を得て腰を上げた。


「ありがとうございます、ナツ。助かりました」


「はいはい、どういたしまして」


 よわい七歳の少女、ナツハ。172cmと比較的高身長なフレアと比べると60cmほども差があるため、並ぶと胸の高さのところにちょうど彼女の頭が来るといった具合である。

 視線を合わせるためにフレアが膝をつくと、ナツハは不思議そうに首を傾げた。


「フレア?」


「……さっき駆けてきたとき、花弁が散るのが見えました。僕との"約束"、守ってくれましたか?」


「当たり前でしょう。多分きっと、このワンピースの裾についてたものじゃない? ほら、ここだけ欠けてる」


 神妙な顔でそうナツハに問うたフレアは、彼女の着ているワンピースにあしらってあるいくつもの花に目をやった。

 ナツハが持ち上げてみせた裾には、彼女の言うとおり、ちょうど一輪分の花が欠けているのが確認できた。


「あたし、フレアと違ってちゃんと言いつけは守れるもの。ちょっと小さいからって──」


 得意げに胸をそらしたナツハの言葉は、小さな衝撃と温かな感覚に遮られ、行き場を失った。


「──良かった。まさかと思って、僕……」


「……バカね。あたしだって、まだ死ぬわけにはいかないもの。そのくらい、ちゃんと理解してるんだから」


 フレアに抱きすくめられたナツハは、愛おしげに彼の髪を片手でくと、両腕を彼の首の後ろに回した。


「ナツは大人ですね」


「少なくともフレア、あなたよりはね」


「ふふっ、そうですね」


 くすくすと小さな笑いを零し、二人は肩を震わせる。

 抱擁を解いたフレアは、ナツハのスカートについていた土を丁寧に払い落とすと、懐に仕舞い込んでいた黒い包帯を取り出した。


「ナツ、巻いてくれませんか?」


「いいよ。少し、かがんでくれる?」


 黒い包帯を受け取ったナツハはフレアの正面に立つと、彼の右側頭部から左目を覆うようにして頭に包帯を巻いていく。


「キレイな目なのに、どうして隠しちゃうの?」


「そう言ってくれる人は、ごくわずかです。大抵の人は気味悪がって、宿にすら泊まらせてくれませんから」


 フレアの右側の瞳は、髪と同じく赤銅色。対して左側は灰色の瞳に、瞳孔は白色であった。


「それに、左目はほぼ見えませんからね。隠したところで、なんの支障もありません」


「ふーん、変なの……はい、終わったよ」


「ありがとうございます。いつか、ナツにも分かるときが来ますよ、きっと」


 ぽんぽん、と大きな手のひらがナツハの頭を二度叩く。


「さて、行きましょうか」


 鼓膜を震わすテノール声。

 歩き出した大きな背中に、ナツハはふわりと笑みを零したのだった。

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沈黙の聖譚曲(オラトリオ) 奏佳(そうか) @nostalgia_1210

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