永遠のお姫様

@ichiuuu

第1話魔法はいつ溶けてしまったの?

【永遠のお姫様】

               

この物語の舞台はブリターニア王国。時は煉瓦造りの家々の屋根にて、小鳥たちが鳴き交わす静かな朝まだき。朝の光が少しずつ、やわらかに民のことを起こし始めている。早起きのパン屋などはもう、ふっくらしたパンをねり始めている。

その美しい朝に、彼女はゆっくりと紅茶を淹れていた。丁寧にじっくり、ひとつの工程すらおろそかにせずに。二人分ティーカップを温めて、白いキッチンに並べ、お湯がほどよい加減に冷めるのを待つ。ワイルドストロベリーの描かれた、伝統的なデザインのカップ。彼女はそのティーカップを見つめながら、自嘲の気分がこみ上げてくるのをこらえていた。

(私がこの生涯で、二人分ティーを淹れられるようになったのは、あの人のおかげかしらね)

 あの憎んでも憎み切れない、あの人のおかげ。あるいはここまで来られたのも――そうなのか。

 そんな彼女の質素なマンションの一室に、ドアの激しく叩かれる音が響いた。普通の女なら、驚いてその非礼を咎めるところだが、さすがは【鋼鉄の女】と呼ばれたこの女は落ち着き払っていた。優雅な足取りで玄関に向かい、純白のドアをおもむろに開いた。

「アラン、この朝にどうしたことです」

 そこには秘書の、背の高い美青年が立っていた。褐色の肌に、白いのりのきいたシャツ、紺のサージ姿。私服でひげも剃っていないとは、よほど何か急ぎの用事があったのだろう。彼は初夏の朝に流れる汗も構わず、口迅に告げた。

「マダム、大変です……!! 」

「そのマダムというのはおやめなさいと言ったはずです」

「お叱りはあとで受けます。大変なんです……!! これ、これが今市場に出回って、新聞も……!!」

 そうしてアランがふところから取り出したのは、一冊の本と、新聞であった。

「この本は印刷所から無理にかっさらってきました。明日には発売になるそうです……!!」

 【鋼鉄の女】この初老の女性、マリアは、ショートの、整えられたグレーの鬢を耳にかけ、眼鏡を取り出して本をぱらぱらとめくってみた。そして絶句した。

「これはどういうことなの」

 ようやっと、声を絞りだした時、彼女はアランの持っていた新聞もさらうように取って、まじまじと見つめた。そこには。

【ブリターニア国王、ご退位を遊ばしたい!! ご退位後は平民女性と結婚か】

と書かれていた。

「あの男お……ああ、殴ってやりたい」

 それからマリアは、こめかみを押さえながら、アランをとにかく部屋に招き入れた。彼女が右わきに、アランより奪い去りかかえる本のタイトルは、【私の青春のすべて】。筆者はジョージ・オウンド・ブリターニア。

 この国の第二十六代国王である。

 ブリターニアでは、王は絶大な支持を得ていたが、所詮はお飾り人形であった。政治の実権を握るのは政治家で、王族は政治的発言力を持ってはならず、たた大陸最古の王族として、最強の外交の使者として、存在していればよかった。マリアとて何度も拝謁たまわったことがある。あのにっくき国王に。

権力を牛耳るは政府、その中心にいたマリアは、様々な国家の危機を乗り越えてきた、まさに鋼鉄の女だった。

琥珀色の紅茶を手ずから淹れてやって、マリアは、飴色で統一された調度に囲まれた部屋にて、苦い顔で言った。

「で、これはあの大馬鹿ちゃら男が、真実本人が書いたものなのね」

「はい……残念ながら。王室の紋章も裏もとっています」

 くううと、マリアはまたこめかみをおさえた。まさか七十になって、若き日の恋人に、暴露本を出されるなんて思ってもいなかった。ましてお互いに今は身分を持った身で。あの男は昔からふざけていた。八十にもなって、国王という王冠を授かってきたくせにまだ、ふざける気なのか。

自称・回顧録を、さっきぱらぱらと読んでみたが、実名こそふせられているものの、ブリターニア国民なら誰でも、マリアと分かる書きかたで、自分が書かれている。ああ、腹立つ。マリアは立ち上がり、玄関の靴箱に秘していたあるものをそっと取り出した。

「とりあえず一大事だから、今すぐブリターニア宮殿に行くわ」

「いけません。あなた様に、鉄バッドはさまになりすぎです」

肩で切り揃えた黒髪を揺らし、アランが動揺する。マリアは嘆息し、やむなく鉄バッドを置いて、それから再びホールに戻って、分厚い回顧録をめくった。そしてバタンと勢いよくとじた。アランが苦笑して告げる。

「すごいことが書かれていましたでしょう」

「【Mリアのキッスは苺味】まで読んで読む気も減退したわ。何あいつ、こんなことを恥ずかし気もなく書くなんて。書かれた私の身になる気が、一ミリも感じられない。昔からそうだったわ」

 はあと深くため息を重ねるマリア。そんなマリアも、テレビをつける余裕はあった。点じたニュースもまさにこの話題一色だった。

「王もご高齢で、王妃様もとうに崩御されている。ましてや政略結婚であった。体調がお悪いという噂もある。その前に、恋人に報いたいのであろう」

 そう告げるキャスターもあれば、ニュースの別なキャスターは困惑顔である。

「しかし、王が退位となれば、様々問題が生じます。混乱もしましょう。これはなかなか難しい問題であるともいえるのでは」

「ところで、この王のかつての恋人であった、政治家志望のMリア氏というのはまさか、うちの元首相では」

キャスターがやんややんやと騒ぐなか――。

「もう駄目、我慢ならない」

ついには、マリアが椅子を蹴り、急いてマンションを出、「静まれ、静まり給えー!!」

と叫ぶアランを引きずったまま、タクシーを呼び寄せた。

 その異様な雰囲気の中でのタクシーで、マリアはぱらと回顧録をめくりながら、渋い顔で、自身の記憶を探りなおしていた。あの日の記憶――、優しくて苦くて、たまらなく、愛おしい記憶たち。


今より約五十五年前、あの男ジョージは二十八歳、マリアは十八歳であった。ジョージはこのヨーロピアン大陸でも、名の知らぬものはない大国の皇太子さまであり、マリアには雲の上のお方だった。金髪碧眼で、優雅にして端正な身のこなしに、スタイルも抜群の七等身、彼が微笑むと泣く子さえもときめき、彼が挨拶の接吻を手にでもしようものなら、乙女どもは泣き叫んで喜んだ。そして泣きながら失神した。

ヨーロピアン大陸のすべての女子は、彼と結婚したかったといっても過言ではない。そう、マリアをのぞいて。

マリアは彼が気に喰わなかった。王族に生まれるという、生まれながらのステータスにくわえ、美貌と、優れた治政能力の片りんを見せ始めたこの皇太子さまは、何もかも持ちすぎていて、鼻につくと思わされたのだ。おまけに彼はこのあいだのチャリティーの場で、貧しい労働者たちがさらに搾取を受けている、という実態について記者に意見を求められ、

「さあ、僕にはよくわからないな」

とよりにもよって答えたのである。彼は恵まれすぎたのだろう。

(ほんっと、こんな阿呆な方が未来の国王で大丈夫なのかしら)

マリアは貧しいお針子の家に生まれた。父は母がマリアを産んですぐ家を出ていき、母は祖母にマリアを預け、自分は身を粉にして工場で働いた。その無理がたたって、マリアが七歳の時、母は世を去った。

父に捨てられ、母に死なれ、老い先短い祖母との貧しい暮らし――。それでも、勉強だけはマリアは頑張った。

学校ではクラスメートに、

「ほら、お前んち、教科書代もまともに払えないんだろう。これやるよ。嬉しいだろ。俺の鼻水ふいたテイッシュも挟んであるからな」

と散々にいじめられたが、それでもめげずに勉強を怠らず、毎日登校し、必死に勉強をこなした。

 マリアには夢があった。だから何でも耐えられた。

(いつか、私みたいな、貧しい人たちの味方になる政治家になるわ)

 そう心中誓っていた。

 そして彼女はブリターニア一の難関大学であるオックスワードに進学を決めた。もはやよぼよぼになった祖母も、泣いて喜んでくれた。二人で貧しい木のテーブルに、ささやかなご馳走と、シャンパンを並べて、合格を祝した。 

彼女はオックスワードでさっそく、政治研究会に入り、勉学を重ねた。

そんな時である。皇太子さまが、貧しい民への無理解を示したのは。

その記事を読んだ時、マリアは体が熱くあるほどの怒りを覚えた。この国の国王となるべきお方が、貧しさを知らぬでよいものか。

あまりもののかぼちゃでスープを作り、朝は一杯だけ飲み、昼はそのあまりにひとかけのパンをしみこませ食べるのだ。その屈辱、貧しさ、苦しさ、ひもじさ。

(このお人はそれがどうしても分からないのね。……そうだわ!)

 マリアはそこで、みなが流行っている遊びに興じようと思った。

オックスワードでは、著名人におふざけで、ファンレターを送るのが流行っていた。勿論、そういった著名人が、学生相手に本気で返信など返さないが、まれにバースデーカードを送ってくれたり、電話がきたりするので、学生の間で、ささやかな暇つぶしとして、そういった遊びが確かに流行を見せていた。ある者は結婚式に呼んだら、女王がやってきた、という話も真実だったと語り継がれている。

それもまあ、馬鹿らしいが一興と、マリアもみなに内緒で、手紙を書いていた。お相手はもちろん、先日の世間知らずの未来の国王さまに。

【あなた様は本当の貧しさを知っておられます。それは貧しい、あわれな人たちにおこころを寄せられないことです】

 そう結んで、手紙を夜のテンションのまま、ポストに投函した。女王、皇太子、王子には一日に千ちかく手紙がくる。それを知らぬマリアではなかったから、もちろんこのお手紙のことなど気にもかけぬと思っていた。一応、自分の属する政治研究会の、チャリティーバザーの知らせは、手紙にはさんでおいたが。

(ふふ、私ったらなんて馬鹿なことを)

 自嘲の気分をこらえ、マリアは銀の長い髪を風に遊ばせ、ポストから去っていった。

 そしてチャリティーバザーの日がきた。マリアはせわしく売り子として働いていた。灰色の石造りの大学のホールを貸し切って、洋服やらベビーグッズをところせましと並べる。

(よかったわ。結構お客様が来てくださって)

 だけれど、もちろん、あの男は来なかった。未来の国王は、あのひげ面は、この色鮮やかなバザーの品じなと人込みの中にはいなかった。

(あらいやだ。私ったら、何を期待しているのかしら)

 マリアはまたおかしくなって、午後にある政治討論会の準備もひそかに始めた。その時だった。

「お嬢さん、これはおいくらかな?」

「あ、はい」

 顔をもたげて、思わず絶句してしまった。そこには紺のスーツに身を包んだ、美しい男が立っていた。ひげを剃り、ダークカラーの帽子をかぶり――、確かにこれでは、未来の国王とはばれないであろう。

「皇太子……殿下……」

「お手紙ありがとう。君がマリアだね?」

 それから国王はにこやかに語りだした。歯の浮くようなセリフを、優雅にだらだらと。

「やあ、君の瞳のとび色はなんと輝かしいのだろうね」

とか、

「宛名にはチャリティーの主催者マリア、としか書かれていなかったから、探すのに手間取ってしまったよ。このいじわるなマイプリンセス」

など。

 マリアはどぎまぎしていた。まさか、本気で来るとは。よくある現象だとは思うが、こんなことは読者諸君にはないだろうか。ある政治家の文句を並べていて、いざその政治家が眼前にやってくると、思わず頭を下げてしまう――。うん、やはりなかなかない現象である。

 しかし、未来の鋼鉄の女マリアはさすがであった。人目にたたぬように片膝を折り曲げて、すぐさま微笑を浮かべた。

「私のあの文句の垂れようを読まれても、来てくださるあなた様のご厚情に感謝します。未来の国王陛下」

「この僕を貧しいとはね。笑ったよ。苦笑だけれどね」

「この後、その貧しさについて、この大学のホールで討論会をやるんです。よかったら」

「もちろん参加させて頂こう。君からは学ばせてもらえる機会が多そうだ。ねえ、マイプリンセス」

 そう言ってこの上なく美しい男が、また手の甲にキスを落としてくるのを、マリアはくすぐったいような、なんだか腹立つような気持ちで見つめていた。

 マリア主催の討論会やチャリティーは盛況に終わり、そののち、人気のなくなった夜のホールでマリアは一人、後片付けをしていた。

その心中は複雑であった。

(あのバカ皇太子さま、絶対途中で帰ると思っていたのに。最後まで討論を聞いて、それどころか貧しい民の現状のところで涙を浮かべてさえいた。気に喰わないとは思っていたけれど、悪い人ではないのかもしれない)

それは初めて知る感情であった。今まで冷静怜悧で、常に正しい選択を選んできたはずの自分が、考えを改めるなんて。

(でも、討論会が終わったらお城へ帰ったのね。ホールのどこにもいなかった……ふふ、まるでおとぎ話のお姫様みたい)

だけれど、よかった。

「これで少しでも、貧しさについて知って頂ければ、いいのだけど」

「探したよ、僕のプリンセス」

「ぎょええええええ」

いきなり後ろから抱きしめられ、マリアは毛虫を踏んだみたいな雄たけびをあげた。ジョージは驚いて手をはなした。

困り顔のジョージを、紅顔のマリアが睨む。

「どうしたんだい、僕のプリンセス。まるで蠅に求愛されたかのような困り具合じゃないか」

「どうしたもこうしたもないですよ! いきなり人に抱き着くなんてっ」

「だけれど、女はみんなこうされると喜ぶけれどねえ」

 さも意外そうに言ってくるこの皇太子さまに、眉間にしわ寄せ、マリアがそっぽを向く。

「あら、それはごめん遊ばせ。私は王子様と関係のある女性のような身分高き人々ではないので。不躾なのでしょう」

「ははあ、それは今後は不躾を直しますので、一生おそばにいさせて下さい、という意味にとってもいいのかい」

「いい訳ないですっどこをどうとったら、そうなるんですか」

 マリアがごみをまとめて立ちあがる。

「とにかく、失礼します。冗談に付き合っている暇はありませんので」

「……冗談ではないとしたら?」

 この一言に、マリアがジョージの方を振り返る。ジョージは歩み寄って、腰を折って、マリアの手の甲にキスを落とした。

「君の討論会は素晴らしかった。君は貧しい人たちの希望だ。経済的な貧しさのみならず、心の貧しさを君は教えてくれた。こころの貧しさ、不寛容を訴える君の瞳は、この世界のどんな宝石より美しく、貴かった。僕は、君にもっといろいろ教えてもらいたい」

「……それは、あなた様の家庭教師になれと仰っているのでしょうか」

 マリアがどぎまぎしながらうろんげを装って問うと、ジョージはいいや、と首を振った。

「恋人になって欲しいんだよ」

 それにどうしてマリアが頷いたのか、それはいまだに自分でもわかっていない。あまりにジョージが、まっすぐにこちらを見つめてくるせいもあったかもわからない。ただ、決して、ジョージが皇太子さまだから、という理由ではないのは分かってもらえると思う。二人は秘密のデートを重ねた。ジョージは変装し、マリアも変装した。ある時は成金へ、ある時は王宮のゴミ拾いのボランティアへと。

二人で様々なコスチュームを、シチュエーションを楽しんだ。

 ジョージは優しく、紳士で、まっすぐだった。マリアからさまざまな話を聞くのが好きだった。その美しい瞳を見つめるのが、マリアもたまらなく好きだった。たまに通り雨のように降ってくる彼からのキスに、マリアは喜びを感じた。

いつかは公園でアイスクリームを食べながら、二人は夢を語り合ったこともある。

「政治家になりたいの」

そう語るマリアの瞳を見つめ、ジョージは。

「なれるさ。君ならば」

と力強く頷いた。

「ジョージの夢は」

マリアが問うた。

「僕の夢は、そうだな。温かい家族が欲しいな。今まで、いなかったんだ。そんな存在」

それなら私が――そう言いたかったマリアの唇は、不思議と動かず、その沈黙にジョージはマリアへとキスをした。

 そんなある日のことだった。

「マリア、君にお願いがある」

 マリアの部屋で迎えた朝、マリアが紅茶を淹れていると、ジョージがおもむろに言った。

「僕の母に会って欲しいんだよ」

 これに、マリアは温めていたカップを取り落としそうになった。ジョージの母、女王に、会う? そんなこと、そんなこと……。

「頼む。君が夢を持っていることは知っている。僕はその夢を永遠に応援したいんだ。願わくば、君のそばで。だから、そのために母に会って欲しい」

 ジョージの、「愛する人に無理強いは出来ないが……」という言葉に、マリアは沈思し、やがて頷いた。

マリアはその日、慣れぬ桃色の、フリルのついたレースのドレスを纏い、王宮の玄関ホールに招かれた。ジョージは緊張して、涙ぐむマリアの手をずっと握っていてくれた。やがて現れた女王は、七十を過ぎても矍鑠とし、白髪を上品にまとめ、大層気高かった。それから、彼女はくちどに言った。

「今日もロントンはすごい人ですことね」

それからいかにも、面倒くさそうに扇で自らをあおぎ、マリアのことなど一瞥もせずに言った。

「で、私のジョージ、それが、あなたの?」

「それではありません。マリアです」

 ジョージの一声にも、女王はまったくたじろがず。

「その女性はどうも政治家を目指しているとか」

と訊いた。マリアはようやっと顔をもたげて女王へと声を発した。

「はい、貧しい人々の味方に、私は……」

「くだらない!!」

 女王のこのはきとした声に、マリアは一瞬身を震わせた。彼女のその心の中は、恐怖と、怒りに埋まっていくようだった。

「あなたのような身分のものが、王室に入りたいというならまず、そのくだらない、おとぎ話のような夢は捨てなさい。そんな、子供みたいなことを言って」

マリアの目は涙で潤み、顔を上げることが出来なかった。どうしよう、怒りと悲しみのやり場がない。この国の女王に、ずっと温めていた夢が否定されてしまった。どうしたら、どうしたらいいの。

その時、ジョージが叫んだ。

「マリアの夢はくだらなくなんかない!!」

その叱声に似た声に、王宮のホールは静まり返った。女王はしばらく唇をわなわな震わし、出ていきなさいと二人に命じた。マリアはジョージと王宮を出て、美しい前庭でかたく抱擁した。

「愛しているわ……」

 マリアは何度も告げた。

「愛しているのよ」

二人の抱擁は永かった。だけれど、

その三日後に、マリアはジョージよりの別れの手紙を受け取った。

(あの日から、私はあの男を見返すために、一層努力した。だから女性ながら、首相にまでのぼりつめられたんだわ)

 そう自分に言い聞かすように一人呟くマリアを、乗せたタクシーはもう宮殿の前にさしかかろうとしている。

ジョージの回顧録によればその顛末はこうである。

【女王がマリアとの交際に反対し、彼女と別れなければ、手を回して彼女の夢も、大学院進学の件も潰してやってもいいと脅してきて、逆らえなかった。僕はマリアを思い、身を切られる思いで、身をひいた】

「ふざけないでよ!!」

 回顧録を破りそうな勢いでほぼ読破したマリアは、急いた足取りで王宮に入っていった。もちろん衛兵があまたいるけれど、悪鬼の首相の顔を見ては逆らえない。回顧録の終盤にはこう書いてある。

【そのあとで、マリアを守るために政略結婚に頷いた。打ち解けぬ、プライドのかたまりのような嫁との生活。それからの解放を、癒しを与えてくれたのが、今の恋人だった】

「ふざけないでっ」

マリアはまだ息巻いている。その瞳には滴をためながら。

「私が何のために、今まで独身でいたと思ってんのよ! 勝手に死んだら許さないんだから! この馬鹿ジョージ!!」

 足音を打ち鳴らし、王宮の衛兵たちと秘書のアランたちとがもみくちゃになりながら、マリアはジョージのベッドルームに入った。

すべてが飴色の調度で品があり、美しいベッドルーム。そこでベッドに半身を起こした、白髪のふさふさしたジョージは朗らかに笑った。

「やあ、マリア、久しぶりだね」

「何が久しぶりだね、よ! この回顧録、ふざけないでよっ」

 ジョージは楽し気に微笑む。

「いやあ、僕たちの美しい愛の思い出を、後世に残しておこうと思ってね」

「ふざけないでっ」

 そうまで叫んで、マリアは静かに、ジョージのそばに寄った。

「ジョージ……あなた、痩せたわ」

ジョージのその背中は骨張り、手もしみにたかられ、衰えて、かつて握ったあの柔らかな感覚はどこにもなかった。

ジョージが寂しそうに微笑む。

「ああ、もうじき、ダメだろう」

「死んで、しまうの?」

「ああ」

 ジョージが頷くのに、マリアは唇をかみしめて、それから訊いた。

「その、女の人のことを、愛しているの?」

「……ああ。君と同じくらい、ね」

 また寂しそうに微笑むジョージへ、マリアは涙をこらえて背を向けた。

「ちょっと待ってなさい。この馬鹿ジョージ」

 いまだもみくちゃになる衛兵たちから、アランをさらって、マリアは車を走らせた。アランがハンドルを切りながら、マリアに尋ねる。

「次は、どちらへ?」

マリアは足をくみ、腕を組んで叫んだ。

「ロントンの議会よ!!」

ロントンの議会は、ご想像の通り大混乱中であった。国王の退位、ましてそののちに、平民の恋人とご結婚されたい――、国家の存亡にかかわるぞ、と言わんばかりに、みながやんややんやと古い時計台の中で激論を交わしていた。

「国王陛下ももう十分にやってくださった。政府としてご退位を認めてもよかろう」

「ダメだ。国王は諸外国王族との信任も厚いお方。そんなお方にやめられては困るっ」

「この中に男はいないのですかっ!!」

 議論紛糾する国会議事堂に、女の凛然とした声が響き渡る。みながびくりと身を震わした。国会の議場の中心に、いつの間にかあの鋼鉄の女が立っていた。もうとうに、引退したと思っていたのに。みながぽかんとして、マリアを見つめる。マリアはマイクをかっさらうと、いきなり演説をぶちあげた。

「いいですか、みなさん。国王は国の主権者ではないのですよ! そのお方の交代があって、何の不都合がありますか? それに国民感情の件も、考えてごらんなさい。ご老体の陛下をいつまでも酷使して、と恨まれるのは、我々政治家なんですよ! 」

マリアはなおも声をふるって語りだす。

「あら、みなさん、お気に召さない? なんなら私がもう一度出馬してさしあげましょうか!? そうしたら国王の退位をマニフェストにかかげてさしあげるわ。その私に勝てる男がいらっしゃるなら、出ていらっしゃい。うけて立ちます! 」

 これに、議場の全員が静まり返った。あるうら若き議員は、伝説の首相の演説になぜか震えがとまらず、中堅のある議員は不思議な感覚を覚えていた。この人の姿はまるで、夫を守る妻のようだ――と。

 やがて議会の面々は、ひとり、ふたりと拍手を鳴らし始めた。その拍手は議会全体に広がっていき、波のようにいつまでも彼女に押し寄せ続けた。彼女はその中心で、手をあげてその声援にこたえていた。ただ一人で、気高く、まるで戦に勝利した勇者のように。

 そして、王の退位が正式に認められ、半年が経ったある朝。

ブリターニア首都、ロントンの朝のあいまに、彼女は静かに紅茶を淹れていた。いつかの朝と同じに、二人分。マリアはこらえられず、また、自嘲をもらした。

(馬鹿ね、私。あの人はとうに結婚してしまって、もう、二人分淹れてあげる義理もないのに)

 だけれど独り身なのに、ポットで二人分紅茶を淹れる【儀式】は、彼女の中で永く続いた大切な小さなセレモニーだ。生涯、自分は愛しい男とは結婚出来なかった。このもう一つの紅茶は、誰にも飲まれず湯気さえ残さず、消えていく。

だけれど、美しい淡い思い出とて、胸にいだいて生きていくことは出来る。自分がいつまで生きられるかは分からない。けれど、辛くても苦しくても、今の今まで生きてきた。それには、大切な思い出たちが人生を支えてくれた、という見方も出来よう。

 ノックの音が響いた。アランが入ってきた。部屋に招き入れる。

「マリア様、今、元国王陛下が……今」

「……そう」

 マリアは静かに頷いた。わかっていた。わかっていた。

「元国王は、ご臨終の際に、ご遺言を、どなたかに……残されたそうで」

「……それは?」

アランがマリアをまっすぐに見つめ、言う。

「天国で待っているから、のんびり来なさい。ありがとう、マイプリンセスと」

マイプリンセスとは、誰のことなのでしょう。王には王女はおられぬのに――。

 涙をふきながら、アランがマリアに問うた。マリアは微笑んでいる。

「さあ、彼とプリンセスの秘密だわ」

 淹れられた紅茶は湯気さえ残さず、琥珀色の湖面をたたえていた。

                  了

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