聖域

 瞼は堅く閉じて指で覆い、耳に親指を入れて情報を遮断しようとしても物音は聞こえてくる。一つは押風くんの泣く声。小さい子供でもないのにめそめそとしゃくりあげる声が聞こえる。

「うひ、ちょっと……せめて手だけにしてよお」

「ん、意外にしょっぱい。だって普通こういうの揉むだけじゃ済まないじゃん」

 他の分については詳しく構いたくない。もういい加減に限界だ。色々と。

「ねえ! いつまでやってんのかな!」

「退屈ならあんたも一緒にやったらいいじゃん? 丁度二つあるし、ほら分けたげる」

 塞がった耳に聞こえるこもった声でも菊水さんが心底楽しんでいることは伝わった。

「それ続けてなにか役立つことがわかるわけでもないんだし。ていうか、いいからよしなさい! お、女の子なんだから」

「ふふっ、そうね」

 菊水さんの笑い声を最後に、弱々しく続いていた豊くんの悲鳴が止まる。それから充分な間を置いてから慎重に慎重に目を開いて状況を確認した。

 満足そうな顔で席に戻る菊水さんと半裸の豊くんと押風くん。豊くんはすぐにシャツを着て身なりを整え始めたけれど、押風くんはよほどショックだったのかたまに道に落ちているのを見かける軍手のようにぐったりと、茹で上がったモヤシのようにしんなりして床に横たわっている。泣き声はいつまでもやまない。

「始まった時はマジウザいと思ったけどサ、こんなに楽しいことになるなんて、チョーありえなくねー? あんたもいつまでも泣いてんじゃねえよ。失礼じゃん?」

 ここへ来て、こんなことで菊水さんのテンションが上がっている。

「……そんなに嫌だった?」

「そんなそんな、とんでもない。想像してたのとは逆だったけど僕はこういうのを期待してここに参加してるんだから、こうなってこそ本望だよ」

 一方豊くんは上気した顔を溌剌と輝かせている。彼の人物像について見解を改めたほうがよさそうだ。味方ではなく敵という範疇にも収まらず、校長と同じく理解の外の変質者だ。

「うわぁ、あんたそういう下心で参加してたんだ。サイテー、ウケる」

「女子がおっぱいについて話し合うなんて聞いて興奮しない男子のほうがおかしいよお。っていうか、みんなほんとは興味あるのに出てこないだけなんだ。ムッツリなんだよ」

「言えてる」

 菊水さんはなんの恐怖心もないようでゲラゲラ笑っているけれど、私は自分が置かれている環境がつくづく魔界であることを思い知って身震いをした。

「なんだったらもっとシテくれてもいいよ」

「やめてよアタシまで変態みたいじゃん。必要なことは確かめられたからもういいっつーの。駄肉だなんて言われたけど、あたしのおっぱいとあんたの本物の贅肉と比べたらやっぱり別物だってわかったから。あんたの模乳は用済み」

「舐める必要は、なかっただろぉ……? このビッチが」

 ようやく心を持ち直した押風くんが立ち上がって席へ戻る。とはいえ移動する足元はおぼつかず心細そうに制服の胸元を掻き合わせ俯いている。貧乳側の大幅な戦力ダウンは否めない。

「ムカついたんだからしょうがないじゃん。それに言っとくけどアタシはあんたと違って誰にも触らせたことなんてないかんね。ビッチなんて言われる筋合い無いっつーの」

「へえ、意外だねえ」

 感想は豊くんと同じだったので一人頷く。

「アンタ、ハッキリ言うね。まあいいけど。とにかくそういうわけだから、今この場であたしのを揉もうなんてのはお断りだし、揉ませて感想なんて聞いたことないかんね。体験談が無いのはそっちの万畳さんもおんなじでしょ。だからあんたらのを使ったの」

 自分を犠牲にするという精神がないことを責めるつもりはない。そんな高潔性はこの場ではあまりにも勿体ない。

「ただアタシとこのデブのおっぱいは別物だったけど、万畳さんのはその辺の男と変わらなくね? 壁撫でた感想集めたっておんなじだって」

 笑う菊水さんからの攻撃を受けて、これまで状態を維持していた千爽がぼんやりと光を放ち始めた。室内がいくらか明るくなったようだ。これはありがたい奇跡や絶対にエコエネルギーとは程遠いものだ。開放されたらきっと恐ろしいことになる。

 どうにか千爽の気が紛れるような方向へ話を持っていかなければ。

「議長は何かありませんか?」

 これと言って旗先生を信頼しているつもりはないけれど、ここぞという時に大人に助けを求めてしまうちっぽけな自分が悔しい。

「急にこっちかよ? そりゃ先生だから頼っちゃいかんとは言わんが」

 本校一、面倒見の悪い教師はやはり気だるく答え、それでも首を右左に曲げてストレッチしながら姿勢を正してここで初めてまっすぐ椅子に腰かけた。

「じゃ、先生から一言」

 咳払いを挟んで話し始める。

「今更本会議の趣旨を真っ向から否定するようなことを言わせてもらうが、俺自身は乳の大きさに好みが無い。むしろどうでもいいと思ってる。だからこのアンケートに出てるような、どちら側の支持者の意見も俺に言わせりゃクソくだらない。

 だが話は巨乳派に有利だ。その理由は『貧乳を選ぶ根拠が薄い』からだ。アンケート結果にも現れてはいるが、この数字は正確な貧乳派の割合を表わしてはいない。というのは、貧乳支持の中には不純物、『巨乳支持しない俺カッコイイ』というグループが紛れ込んでいるからだ。『女を見た目で選ばない硬派な自分』と思い込みたいんだよそいつらは。こう言った以上わかると思うが、そういう奴の意識にこそ『乳は大きいほうが上』という価値観が確立されている。『俺は巨乳が好きです』と述べる際のこのどうしようもない〝クソバカアホマヌケ感〟を回避する為に『俺は貧乳が好きです』と言わざるを得ないわけだ。

 だが、ここで冷静に考えてみろ。『貧乳が好きです』と誰かが真面目に言っていると考えてみろ。これはこれで変態だろ。

 と、いうように、わざわざ貧乳を選択する健康的な動機はほとんど無いと言える。例外を挙げるとしたら貧乳の造形を気に入った連中だ。それを否定することは難しい。が、造形を気に入るだけなら巨乳側にも同じことが起こりうるので、貧乳側に支持が集まるという話にはならない」

 堰を切ったように、というほどの勢いはない。相も変わらず憂鬱そうな物言いで、だがスラスラと流れて止まる様子がない。圧倒されてしまった。

「『胸の小さいことを気にしているところがイイ』という意見がある。他人がコンプレックスに苦しむ様子を見て自分の悦びにする変態の言葉だ。

 女性に恥じらいの精神を大切にして欲しいと望む傾向は珍しいもんじゃないが、これは乳の大きさには関係が無いことだ。それに羞恥心なんてのは同じシチュエーションを繰り返すうちにどうしたってそのうち薄れちまう。そうなれば貧乳そのものは変化しなくとも貧乳支持のモチベーションは下がる、としたらそれは本当に貧乳支持か? 何か違う別のフェチズムだと言えるんじゃないか? 

 さっき押風が機能美という点に触れたが、それに見合うものなら巨乳側だって持っている。簡素さに魅力が生まれるからと言って逆に飾り立てれば魅力が生まれないということにはならないからな。『乳は膨らんでいる』という〝様式美〟という言い方をしてもいい。

 また『貧乳はステータス、希少価値』という意見もある。こんなのは言うまでもないことだがお前たち身の周りを思い浮かべて本当に貧乳が希少かどうか――」

「もうヤメテェ!」

 悲鳴を上げたのは千爽だった。発光と振動を続けていた彼女が座禅の足を解いて机上に両手をつき泣き崩れている。

「千爽っ!」

 親友の傷ついた姿を見ているのは辛い。もうこれ以上矢表に立たせておくことも出来ず駆け寄ってひしと抱き締めた。

「本当にもうやめてください! ずっとやる気なかったのにどうしたって急に?」

「お前に司会任せといたらいつまでかかるかわかんねえからさ、どっちか片方を反論する気力を失くすまで叩き潰せば話し合いはとりあえず終わるだろ?」

「そんな……」

 目的を会議の閉会だけに絞ればそれが正しい。しかしそれでは犠牲になった千爽は、打ちのめされた側は今後どう生活していけばいいのか。第一それでは平等を敷くことができずコーヘーが納得しない。

 千爽をここへ呼んだのは自分なので、その結果傷ついた彼女を見て怒るのは筋が違う話かもしれない。犠牲になることはわかっていた。そのつもりで呼んだ。

 それでもけっしてそうしたいわけじゃあなかった。自分のせいだとわかっていてもここで怒らなければそれこそ真の不義理になると信じる。自分を守る為に今これを見過ごさなければいけないくらいなら、私はもう自分の正しさなんか求めない。二度と胸を張れない日陰者に堕ちても構わない。

 ところが、私が感情で動くよりも千爽が立ち直るほうが早かった。

「終わらせるですって? そんな結論で終わらせられてたまるもんですか……。いいえ、別に終わってもいいわ。会議なんかどうだっていい」

 立ち直ってはいなかった。私の腕を解き机から下りる千爽の顔は寸分の余裕もなくして引くついている。

「大体、女の胸のことばっかり言ってるけど、あんたらにも大小を比べてコンプレックスになるものはあるでしょうが。ちんちん! ちんちんについて話しなさい! 出すなら揉ん――」

 大声で喚き散らし始めた千爽だったが、みるみる勢いは陰り背中も丸まってその場にへたり込んでしまった。

「ちが……私、こんなこと言いたいわけじゃ……」

 顔を塞ぐ手を越してすすり泣く声が聞こえる。誰がどう見てもこれ以上は無理だ。

「いや、ちんちんは比べたりするもんじゃあないんだ」

「その話題はタブーっスよ」

「お腹で隠れるからもう何年も見てない」

 勝手なことを言って内股になっている男子一同を爪先で蹴り上げて回りたい気持ちを抑え、私は進行役として行なうべき務めを思い出す。

「一時閉会します。再開は追って連絡するからそれまで参加者の間で本件について勝手に話し合わないこと、よろしいですね。それから書記、さっきの千爽の発言は議事録から削除しといて」

 頷きと共にノートに消しゴムがかけられる。それで傷が癒えるわけでもない。この会議で壊されたもの以上の何かを生むことはできたかどうか、自信は持てなかった。

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