揉めない人と揉めるが揉める

 差別の有無について議論する前にそれぞれが持つイメージについて話し合うことになった。象徴的なものとして、検証するのは呼称だ。つまりは巨乳と貧乳がそれぞれどう言葉で表現されているか。

「巨乳、爆乳、豊乳、デカパイ、ロケットおっぱい、スイカップ? デカチチ……ええと、これで出たのは全部書いたか?」

 上がった意見をホワイトボードに一つ一つ書き出してコーヘーは腕組みをして唸る。

「今はあんまり言われんようだが、『ボイン』とも昔は呼んだのう」

「さすが校長、古臭い」

「フィクションだと奇乳とか魔乳とか超乳なんて言葉もあるよお」

「なにあんたそういうの趣味あんの」

「あ。深くは追求しないでネ?」

 豊くんも菊水さんも挙手せずに発言しているけれど、とりあえず円滑に進行しているのでとやかく言うのはよすことにした。

「今回は一般的なものに限りましょう。特殊な例については趣旨から外れると思うし」

「異論は無いっスよ」

「じゃあ次は貧乳側。各自意見は?」

「とりあえず『貧乳』だな」

「無乳、ナイチチ、チッパイ、微乳」

「ビ?」

「ビミョーのビ」

「〝美しい〟のほうもあるっスよね」

「はぁー? それってそっち側に入れる分? 大きいと崩れるって言われてるみたいでムカつくんだけど。大体、形が整ってるから〝美しい〟になるんなら、形を作るほどボリュームが無いそっちのことは言わないんじゃない?」

 大いに盛り上がっている。これほど滞りなく進行するのは千爽が沈黙を守っているからという要因が大きい。

 千爽は長机の上でもうずっと座禅を組んだままぴくりとも動かないでいる。両の踵を上へ向けた結跏趺坐で瞼を閉じ、口元は微笑んで見える。悟りの境地に達しているようにさえ感じるこの忍耐に対し敬服せずにはいられない。自然と両掌が合わさり頭は下がった。

「っていうか、ボリューム無いのに『おっぱい』って呼ぶの?」

「そっから否定します? 根底じゃないっスか」

 一瞬千爽の眉がピクリと揺れた。それはわずかな変化だった。けれどそれまで完全な凪に等しい平面だったところに起きた違いだったせいで無視できないほど大きく見える。

「話がズレてる。今はそれぞれの呼称についてだけ話して」

 すかさず会議の流れに修正を入れる。

 千爽は今その穏やかさからは窺い知れない努力で堪えてくれている。彼女の器が許容できるレベルを超えないよう会議を誘導しなければ、現状悟りに向かっているエネルギーがそのままの強さで真逆へ向かうことになるだろう。

「えーと……無乳、ペチャパイ、つるペタ」

「洗濯板、まな板」

「盆地胸、えぐれ胸」

 発言が相次ぐ間その内容を気にするよりもひたすたらハラハラして千爽の様子を見守った。幸い微笑に戻ってはいたが、それが本当の心中を表わしていないことくらいはわかる。笑顔の裏に歯を食いしばり血の涙を流しているのが透けて見えるようで、独りでにもらい泣きしてしまいそうになった。

「ちょっとそこまでで待ってくれ。記録が追いつかない。えー……盆地、と」

 果たしてこれで進展していると言えるのかは定かではないけれど、ともかくギリギリのところで安定している。せめて維持したい。

「しかし、こうしてみるとわかり易過ぎるくらいに性質が分かれたな。どちらの所属か曖昧な『美乳』を除けばほとんどが褒め言葉と悪口に分類できる」

「でも『ちっぱい』は響きが可愛くてアタシ羨ましいけど? ほら、巨乳(こっち)側のってなんかものものしいのばっかりじゃん?」

「確かに、凄みのある字や言葉が用いられているものが多いな。しかし『ちっぱい』は『ちっちゃいおっぱい』の意味だろう? わざわざ小さいと指摘するからには悪意があるだろう」

「でも呼び方には愛がこもってるんじゃないっスかね。ほら『ちびっこ』なんか、『ちび』自体は差別用語みたいに言われてるっスけど、愛があるっしょ」

「『ちびっこ』は小さいことについて表しているわけじゃないから意味が違う。『ちっぱい』は小ささを特徴として分類する以上、やはり大きなおっぱいと比較されている。比較対象になるのは個々人が無意識の趣向や有意識の信念によって定める〝標準〟であり、言わば絶対の〝乳原器(パイスタンダード)〟だ。『この年齢であれば当然この程度には成熟しているであろう』という、呼称で言うなら『普乳』に当たるイメージか? 夢見がちなアンケートの最多数によればおおよそCからDのラインだな。それと比較されているんだ」

 最初に恐れ、憂鬱に思っていた風とは違いマトモな話し合いの形になっている。物事に取り組む真剣さにおいてコーヘーは求められるレベルを破壊的なまでに越えた超人と言えるので、こうして横顔をじっと見つめ内容を聞き流してさえいれば名演説を打っているようにも錯覚できる。書記としてはあまりにも喋り過ぎだけれど、心配は杞憂に過ぎなかったのかもしれない。そう思えた。

「『ちびっこ』に対するのは『大人』だ。いや、『大人性』と呼ぶべき心身の成熟か。ただしこの二つは比較の関係にあるわけじゃない。間にあるのは差別ではなく区別だ。もしこの語句が例えば身長の低さを嘲る為に用いられるのであればそれは差別になるだろうが、一般的な用法としてはやはりお前の言うように『愛がこもっている』と捉えるべきだろう。とは言え、問題にすべきなのは発言者の意図よりその語句がどう受け取られたかこそが優先されるべきだと俺は考えるが、今はそれについては話さない。込めようと思えばほとんどの言葉に悪意は宿る。そのそれぞれを計ることは今この議会の目的とは違うからだ」

「子供と大人は比べるもんじゃないってのはわかったっスけど、比較すること自体が悪だって決め付け過ぎじゃないっスか? 無意識に基準作っちゃうことは実際確かにあるでしょうけど、そこから小さいおっぱいを見たからって必ず馬鹿にしてるってことにはならないっスよ。基準値からマイナスになるのと一緒に価値まで下がるわけじゃあないんスから。スタンダードがストライクってわけでもないっしょ?」

「それは……」

 押風くんの指摘っぽい物言いにコーヘーは言葉を詰まらせた。コーヘーを大人しくさせることが基本的な方針ではあるけれど、繰り広げられる会話の内容については理解を放棄しているので現在それが歓迎すべき流れなのかわからない。うん、司会は無理だ。

「それってさあ、単にあんたが巨乳好きってだけの話なんじゃないの?」

 菊水さんの追い討ちでコーヘーは大きく反応した。体を緊張させて背筋が伸び、急に青い顔をこっちに向ける。

「違うぞ? 断じてそんなことないからな?」

「あんたにいじめられてるなんて思ってないっての」

「ならいいんだが……そうだ、お前はどう感じる? この『ちっぱい』という響きに」

 傍観を決め込んでいた話題が真正面に回り込んできた。ここで答えなければ回答権が千爽に回ってしまう。

「まあ、他のよりマシだとは思うけど。でもその中のどれなら許せるとかいう話じゃないからね」

「こっちもおんなじ。言われて嬉しいわけじゃないんだから褒め言葉なんかじゃないっつーの。『キミ巨乳だね』なんて言われて『わぁ、ありがとうございますぅ』なんて喜ぶと思ってんのか腐れちんこのピちがいども」

 私の意見に菊水さんも頷いている。コーヘーはまた考え込んだ。

 こうして両側で意見をまとめコーヘーの勘違いを正しくしていくことがそもそもの狙いだった。何度か衝突はあったけれど、菊水さんが案外友好的な態度でいることがありがたい。

 感謝を伝え意思の疎通を図るべく微笑んで視線を送って目が合うと、それまでダルそうに頬杖をついていた菊水さんは一瞬真顔になってから意地悪そうに笑った。

「でもまあ、あっちみたいに悪口言われるよりずっといいけどね」

 にやにやと口元を緩め急に嫌味な口調になっている。

「比較が悪くないとか馬鹿なこと言ってるけど、だったらなんでそっちはそんな嫌な呼び方ばっかり集まってんのサ。スタンダードがストライクじゃないって? それが事実だとしても、スタンダード以下がストライクになるなんてあり得ないからそんなありさまになってんでしょ」

 『協力するなんて約束してない』。菊水さんが始めにそう言っていたことを思い出す。その時から匂わせていた通り敵に転じてきた。

 これはまずいことだ。彼女の立場からであればいくらでもことを荒立てることができる。現にコーヘーは興味津々で食い入るように菊水さんの話を聞いていた。

「やはりか? 菊水さんは万畳さんに対して優位を感じているのか? 性的な特徴を強く発揮している自分こそが優れた〝女性〟なのだと?」

「女っぽい女のほうが女として価値が高いのは当たり前じゃん? 性格とかが大事だっていうのはそりゃーそーだけど、それが胸の大きさと両立しないってわけでもないんだからサ」

 まるで菊水さんの弁を自身への侮辱と感じ取っているかのようにコーヘーが逆上していくのが見ていてわかった。肩に力が入り机に立てた拳がブルブルと震えている。

「その考えは己の内の意識に置いてだけでなく、世間にあっても同じ扱いになることを望んでいるのか?」

「望まなくても勝手にそうなってるし」

 明らかに意識的に煽っている。何を狙ってのことか計れずにいる私はただハラハラしながら様子を見守るしかなかった。

「その考えが争いを生むとわかっていながら続けるのか」

(争いを生んでるのはお前だ!)

 コーヘーの言葉に心の中でツッコむ。と同時に視界の端で新たに生まれつつある災いに気がついた。

 千爽が揺れていた。文字通り机の上で座禅の形のまま微振動している。

 無表情と憤怒を行き来する彼女の表情がその身の内で起きる葛藤の激しさを雄弁に物語っていた。揺れは次第に大きくなりガタガタと机の足を鳴らし始めた。

「いけない! 押風くん、貧乳を褒めて!」

「えっ、なんスか急に?」

 隣の押風くんは心配してか千爽に近づいては離れを繰り返していた。

「あんた貧乳サイドでしょうが! それしかその魔神を止める方法は無いの!」

「んな勇者みたいに言われても……」

 押風くんは困った顔で何度も千爽へ視線をやる。

「面白いじゃん。褒めるところがあるんなら褒めてみろっつーの。ナイチチのほうが好きな理由に〝ロリコン〟以外の理由があるならね」

 菊水さんはコーヘーから標的を外して挑発的に笑い、彼女の発言で千爽の鳴動は余計に激しくなった。早くなんとかしなければ。

 もう一度強い視線で発言を促すと押風くんは頭をかきながら菊水さんに顔を向けた。

「あー、えーと、小さい胸の女の子が好き=ロリコンっていう考えは間違いっスよ。現に俺はロリコンじゃないっスもん。貧乳のほうが好きっスけど」

「そりゃあんたも子供だからじゃん。その席に旗センセーとか校長が座ってみなって、即威嚇射撃だから。校長はどこにいても実弾直撃だけど」

「子供同士が合法で貧乳好き=ロリコンっていう考えは大人になれば必ずおっぱいが膨らむって前提の話っしょ? けど現実はそうじゃないっス。貧乳=子供じゃない。大人でもおっぱいは――」

「ちょっと待った押風くん、その論点は諸刃の剣だから話題変えて!」

 千爽の震えが激しくなっているのを見て中断させる。押風くんの勢いが止まったのを見て、菊水さんは笑みを強めた。

「あんた馬鹿でしょ。その話続けたってロリコン趣味を正当化することしかできないっての」

 彼女はこの会議で勝利するつもりだろうか。そんなことをすればこの学校で過ごしにくくなる。考えなしに動いているとも思えないだけに狙いを計り知れないことが不安で仕方ない。

「それじゃ話を変えるっス。さっき性的な特徴だとかって話になってたっスけど、じゃあ〝性的〟ってなんスか? なんの為におっぱいはあるんスか? 残念なことに……残念なことに! おっぱいはなによりもまず赤ちゃんの為のものっスよ。性で言うなら女性じゃなくて〝母性〟で、妊娠後母乳を出すことが唯一の機能っス。その役割はおっぱいの大きさによって成果が違ってくるもんじゃないんス。大きくなきゃ母乳出ないわけじゃないんスもん」

 私にはわからない情熱だけれど押風くんの弁舌に力が宿っていることはわかった。コーヘーほどの闇雲さもなく、しっかりとした意思でそこに座っている。隣(と言っても机の上)に座っている千爽にもそれは伝わっているらしく、いつの間にか鳴動は止まり表情は穏やかな微笑に戻っていた。

 感謝したい人がまた増えた。現れた時にはコーヘーの弟分ということもあって厄介者にしか思えなかったけれど、彼は千爽の変わりに矢面に立ち盾となれる人物だ。会議が始まる前にはありえない選択肢だったにしても最初から彼を誘っていればよかったとさえ考えが変わっている。

「だーかーらー、あんたはさっきからズレてるっての。その反論じゃおっぱい(乳房)がちっちゃくても赤ちゃんにおっぱい(母乳)あげるのに困らないって話にしかならないっつーの。今誰もそんな話してないから。目で見てわかる、ファッションとしてのおっぱい(乳房)の魅力でしょうが」

「機能美。無駄が無いってことはそれだけで美しいってことなんスよ。ゴテゴテと装飾を好む悪趣味は文化的に発展途上の証拠っス。シンプルな中にこそ本当の美しさはあるんス。思いっきり悪口だからさっきは控えてたっスけど……アニキ、巨乳の呼称に今から言うのを加えといてもらえますかね? この人みたいのは『駄肉』って言うんスよ」

 菊水さんは頬杖を外し、ずっと緩んでいた目元に力を入れて押風くんを睨んだ。流石に頭に来たようだ。

「今、なんつった?」

「だってそれ、毎日ぶら下げててなんか良いことあったっスか? 女として経験積んだ色っぽいオネーサンならともかく、ただ単に乳がでかいだけの子供が〝女の武器〟とか言い出したら笑うっスよ」

「あんたらみたいのが……勝手に――!」

 怒りのあまりそれ以上は言葉として出てこない。

「はいやめ! 一旦落ち着こう!」

 手を叩き、追撃しようとしていた押風くんを黙らせた。押風くんは今ひとつ納得できなさそうな顔で背もたれに体を戻す。

 考えを改めなくてはいけない。押風くんは千爽の為の盾となってくれるというよりただただ貧乳が好きでそこにいるのかもしれない。これでは千爽が沈黙した代わりに、より安定した火力が加わっただけのことだ。頭が痛い。

 沈黙していても菊水さんと押風くんは遠慮なく敵愾心を花開かせ、場はこれ以上ないくらいギスギスしている。楽しそうにホワイトボードに『駄肉』と書き加えているコーヘーを殴りたい。

 不意に、ガサゴソと音がすると思ったら豊くんがお菓子の袋をいくつも机に広げ始めた。無邪気な笑顔を揺らしお菓子の山を眺める様子は至福そのものに見える。

 会議が退屈だとか定期的にカロリーを摂取しなければ死んでしまうとか、そういうわけではないらしかった。一つ小袋をつまみ上げて包装を破り、ビスケットを菊水さんの顔の前に差し出した。

 菊水さんは急に鼻先に現われた物体に戸惑い、それがなんであるかを知ったあとは嫌悪の視線を豊くんに返した。

「なにこれ。同じデブキャラだと思ってんなら腹立つんだけど」

「甘いもの食べると気分が良くなる」

「んなの、あんただけだっつーの」

「女の子と甘いものと笑顔はセットでなくっちゃね」

 なんだろう。豊くんのまん丸い顔が一瞬爽やかイケメンに見えたから不思議だ。

 菊水さんも同じ幻覚が見えたのか、驚き顔で固まって唇はクッキーを受け入れてしまった。ぷいっと横を向いてモグモグ動く菊水さんの頬がピンク色で染まっていくのをついニヤニヤして見つめてしまう。

「ねえ、基本的に大は小を兼ねると思わない? たとえば大盛りは偉い」

 おもむろに議論を再開したのは豊くんだった。千爽に押風くんが味方したように、菊水さんにもナイトが現れた。主張の内容はなんとも豊くんらしい。

 押風くんはもちろん受けて立った。

「そりゃ選ぶ場合の話っスよ。これは行き来できないまったく別もの、帯に短し襷に長しって、言うならこっちのほうっしょ? おっぱいは途中で『これちょっと多いな』って思ってもオニギリにして残しておくことなんてできないんス」

「食べ残すなんて食べ物に対して不誠実だよ。それと、もしかしてオニギリを食べ残しの処理方法なんて思ってる? 殺すぞ」

「なんスか急にこわっ! んなこと思ってないっスよ。から揚げとかだって一晩置いてしんなりしたのも美味いじゃないっスか。食べ残しじゃなくて敢えて一日置いておくっていう調理法っスよ」

「あー、それならアリだねえ」

「いや食べ物の話をしたいんじゃなくって!」

 押風くんが豊くんのペースに飲み込まれている。このままうやむやになってくれれば雰囲気はマシになるけれど、根本的には解決しない。事実、コーヘーはペン先でノートを叩きながらもどかしそうな顔をしていた。

「少し、邪魔をしても良いか」

 ずっと角で静かにしていた校長が急に動いた。小さく挙げた掌が途方もなく大きく感じられて断ることもできない。発言を促すとその手でヒゲを撫でながらゆっくりと話し始めた。

「さきほど『おっぱいの機能』と『ファッションとしてのおっぱい』というテーマが上がったが、まだ他にも乳の価値観は残されているとは思わんかね。諸君らが話しづらいのもわかるが、乳はやはり『揉み心地』について検討されなければ片手落ちではあるまいか」

 男子一同から「おお……」と感嘆の声が起こった。黙れ、死ね。

 良識を持って然るべき大人が大真面目に語るような内容ではないからというだけでなく、「余計なことを」と思った。それについての議論は貧乳側が圧倒的に不利だからだ。押風くんの顔色にも焦りが浮かぶ。

「んなの、主観的なものじゃないっスか。検討する意味なんか無いっスよ」

「主観結構。優劣が明瞭でない両者の差はいかに『隣の芝が青く見えるか』という観点で観察し、他人の羨望に写し見たほうが当人で自覚する範囲を洗うよりも長所はクッキリと見えてこよう。しかしながらこの場で今更相手を褒め合うよう促すのも酷というもの。であれば、〝揉み心地〟を主観に任せて調査するのもまた答えに近づく手段ではなかろうか」

 しんと場が静まり返った。この会議に登場してからずっとそうだけれど、校長にどう反応していいものかさっぱりわからない。

「あのさあ校長、中学生男子にそういうこと聞くなんざ、それこそ酷ってもんでしょうが。批評するほど乳揉んだ経験なんかありゃしないんだから。あるならあるで教職としては穏やかに聞いていられねーし」

 沈黙を破ったのは旗先生だった。ため息で喋るかのようないつもの調子で続ける。

「洞貫、お前山切の乳揉んだことあんのか?」

「それが……無い」

 コーヘーはノートにぽたぽたと涙の粒を落としながら答えた。

「誤解を招くから悔しそうに言うな」

「とまあ、こんな有様で揉み心地についての議論のやりようなんてありゃあしませんて。それともサンプルに菊水と万畳の乳でも揉ませます? なら先生混ざりたいな」

「旗くん、聖職者として相応しい言動を心がけたまえ」

「あんたが言うかそれ。ならどうやって揉み心地を語らせようってんだ」

「あー、先生方。猥褻が駄目なら、女同士ならどうっスか。こう……あるっしょ? 脱衣所とか修学旅行の風呂で『○○ちゃん胸おっきー』みたいな流れ」

 にやけた顔で指をワキワキと動かす押風くんに心から軽蔑の念が湧く。

「ねえしそんな流れ」

「ええっ、無いの!」

 顔つきからして同じように感じていた菊水さんが冷たく返事をして、押風くんは目が飛び出さんばかりに驚いて椅子から転げ落ちた。校長は卒倒して泡を吹いている。

「……そうなのか?」

 ふと気がつけばコーヘーまでが血の気の引いた顔でこっちを見ていた。

「おいおい、山切に聞いてやるなよ可哀想に。万畳よりマシとはいえそんな対象に選ばれるわけねーだろ?」

 こちらで反応するよりも先に旗先生の嫌味な口調が軽やかに滑った。今は自分に対する侮辱よりも、千爽の様子のほうが気にかかる。

 千爽は大人しい。とはいえ落ち着いているわけではなく、微細な振動をくり返している。あまりに高速なせいで輪郭がぼやけて見え、耳を傾ければ高周波の音を発しているのがわかった。それに机から少し浮いているようだ。このままにしておけば生物として新しいステージに進みそうな気がする。この進化への挑戦を親友として応援すべきか、どうだろうか。

「僕は結構揉まれるけどなあ」

 机に積み上げたままのお菓子を胃の中へ片付けながら豊くんが言う。コーヘーが彼の胸を揉んでいるところを想像したら相当におぞましいのだけれど、本人は平気な風で食欲に支障は無いらしい。

 菊水さんが鼻を鳴らして一笑する。

「女同士だと近寄っても来ないっつーの」

「お前そうやって男の夢壊してやんなよ。校長、もう一息で死ぬぞ」

 旗先生が忠告する通り校長は床で静止していて生命力を失っている。心なしか体格が縮んでいるような気さえした。

「で、どうすんだ? サンプルだなんだって言い張って押風が好奇心に負けてここで菊水の乳を揉んだらその時点で負けだろうが。俺はそのほうが助かるけどな」

「ほれほれ」

 菊水さんは胸を誇示して揺らし押風くんに見せつける。

「そんなの誘惑にもならないっスよ」

 押風くんは一顧だにしない。伊達に貧乳席に座っていないという気概を見せてくれた。

「あっそ。じゃあ力づくで行こうかな」

 椅子を後へずらし菊水さんが立ち上った。眼差しは確かな決意で固まっている。

「ちょ……ちょっと? 馬鹿なことしないでよ?」

 声をかけると大人びた流し目で妖しい笑みが返ってきた。彼女が一体何をしようとしているかは、私が考えていたよりもずっとずっと馬鹿なことだったとすぐ知ることになった。

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