平和への道

 学校へ戻るとまず豊くんの案内で演劇部を訪れた。空手部・剣道部をあと回しにしたのは今体育会系の女子の群れに入っていくのが怖かったからではなくて普段触れない部活動に興味があったからだ。文化祭で劇を見る機会はあったけれど、文字通りの舞台裏と聞けば見てみたくもなる。

「へー、結構体も鍛えるんだ。ランニングだけなら運動部並だし」

 壁に貼ってあるトレーニング表を眺めて千爽が頷く。

 備品入れ替え事件の時、もしかするとコーヘーはこれを見て演劇部を対象から外したのかもしれなかった。運動部と文化部両方の性質を初めから持っているなら、入れ替えて体験させる狙いはそもそも意味を成さない。

「発声は肺活量がものを言うからねえ。それに本番では一回でいい演技でも、繰り返し練習する体力は必要だし」

 豊くんによると今もほとんどの部員はランニングやら発声練習やらで出払っているそうで、室内は閑散としている――はずなのだけれど、とにかく物が多くてそういう雰囲気でもない。部室というよりまるで倉庫だ。

「ランニングとか発声は外だし、芝居の練習は別に場所借りるんだ。ここは基本的に物を置いとくだけの場所だよ。揮発性の塗料なんかは美術部のほうへ置かせてもらったりもしてるし」

 実に混沌としている。立てかけられたカキワリや生徒用とは違う木製の机椅子に、牙が迫り出した南国風のお面。一番多いのはダンボール箱で、劇のタイトルらしい名前が書き付けられている。雑多ではあるもののどこに何があるかはわかるようになっているようだ。

 中々気付かなかったけれど、一見十畳くらいに見えていたこの部室はまだ横に続きがあった。積み上がったダンボールで形作られた門のような入口にかけられた布を手でよけて奥へ進むと、その先にはたくさんの衣装が並んでいた。ここはドレスルームで入り口の布は目隠しらしい。

「よかったら着てみる?」

「え、いいの?」

「他に体験してもらうようなこともないからねえ。女の子は釘打ったって面白くないでしょ?」

「でも、美朱は体験入部だからいいかもしれないけど……」

 部活を変えるつもりはない。千爽も同じだろう。

「いいよいいよ。ただ僕が着てみてほしいだけだし」

 そう言われると女として悪い気はしない。

 コーヘーも少しは関心を持ってくれているかと気にすれば、学校で合流した押風くんと一緒になって小道具の剣を手にポーズを決めている。こんなガキに期待しただけ馬鹿を見た。

「僕こっちで待ってるから衣装は好きに選んでね。いやあ、仕切りがあるとはいえ同じ部屋で女の子が着替えるなんて興奮するなあ。試着室の周りをウロウロするの好きなんだけど、僕もうほとんどの服屋は出入り禁止になってるからチャンス減っちゃって」

 かといってこの豊くんのように赤裸々な変態気質になられても困る。もしこれが男子の一般的な心の第二次成長ビフォー・アフターだったらどうしよう。

「で? あんたはなんで真っ先にソレなの」

 早速衣装を身につけると千爽に文句を付けられた。選んだのはオニギリを持った三角頭の不思議な怪獣の着ぐるみだ。

「だって、これはこれで着るチャンス少ないかなって思って。まんまと豊くんを喜ばせるのもなんか嫌だから、これなら制服脱がないでも着られるし」

「それはわかるけど。やめなさいムカつく」

 おどけてポーズをとって見せても千爽は納得してくれなかった。とは言え本気で不満に感じているわけもないらしく、チラチラと並んだドレスに気が行っている。

「着たいなら着ればいいのに」

 言えた義理じゃあないけれど、千爽は普段着飾ったりすることがまずない。ヘアピンに色がついていることだけがかろうじて発見できるオシャレで、それすら無くなれば黒縁眼鏡をかけて学級委員に立候補しそうな勢いが生まれる。

 本当ならヘアピンも黒になるはずだからファッションに興味が無いわけではないことは気付いていたけれど、それを難しい性格が抑え込んでいることもよくわかっている。この演劇部訪問が千爽にとっても良い機会になってくれたらいい。

「意地っ張り、気取り屋、見栄張り、堅物」

「なによいきなり」

「言われたくなかったら素直になって気に入ったの着なよ」

「怪獣に言われても説得力が無い」

「自分のポリシーに従ってこうなんだから、これはいいの」

 初めからそういう好奇心が薄いというのもあるけれど、工夫して着飾ったところで見せたい相手は仕切りの向こうで必殺技を繰り出しているので大変虚しい。怪獣で出て行ったほうが喜ぶに決まっている。

「え、へぁっ……ちょっとなにすんの!」

 言い合っている間、化粧道具を眺めていた美朱が行動を開始していた。問答無用で千爽を脱がしにかかっている。

「へっへっへ、大人しくしなねーちゃん。暴れると壁が崩れて男どもに見られるよ」

 体力で劣るハンディを口先で補い千爽の抵抗を封じていて感心した。甘味で吊るしか手段を持たなかった私よりもずっと扱いがうまい。

「ええっ、それはやめてよお」

 仕切りの向こうから野太い不満が聞こえた。

「御開帳はもちろん究極の楽しみではあるけど、見えないなら見えないなりの楽しみ方があるんだ。僕はまだ若いんだから、今のうちに色んなフェチズムを刺激しておきたいんだよ。これからどんな方向にでも成長する可能性を摘まないでほしいなあ」

 こんなくだらない内容にも係らず声は大真面目に緊張の滲んだもので益々呆れる。着ぐるみを選んだことは正しかった。

 同じく脱力していた千爽はその隙を突いた美朱にすっかり制服を脱がされてしまった。

「ひゃあ!」

 コンプレックスになるほど締まりに締まった身体はスポーツ用の下着がよく似合っている。色もグレーと想像を裏切らない地味さだ。

「え、いつもは更衣室とかでも豪快に着替えてるじゃない」

 高音を発してその場に屈み込むという意外な行動に出た千爽を見下ろして疑問をぶつけると赤面の涙目で睨み上げられた。

「自分で脱ぐのと無理矢理脱がされるのでは大違いでしょうが! あんたみたいにいつも隅っこでこそこそ着替える奴だけが羞恥心を持ってるわけじゃない。大体男子に聞こえるとこでそんなこと言うな!」

 これは私がデリカシーに欠けていたと反省に浸る前に、驚きで引き戻される。

「うひぇー、掌ごついくせにチョーすべすべじゃん! 運動部なら擦れてボロ雑巾だろうから馬鹿にしようと思ってたのに、これ毎日何人の生き血を浴びればこうなんの?」

「わわわっ! なんで、やめなさい!」

 膝を抱え込んで丸くなった千爽に美朱が圧し掛かるようにして覆い被さり、肌を撫で回している。

 体格で負けていても腕力差からしていいようにされるはずがない。けれど千爽は羞恥心からか自分からは手を出さずにひたすら小さく閉じようとしている。それで容赦してくれる相手ではない。

「皮下脂肪どこやった? わあ、これが腹筋! なんだここも合わせたら凹凸になるんじゃん? これ数に入れれば全部で8つで牛より多いんだから自信持ちなよ。いよっ、この多乳!」

「凸も凹も触るな! っていうかへこんではない! やーめてー!」

 どれだけ固く守ったとしても指一本通る隙間をなくすことはできない。対する美朱からすれば攻めどころはどこでもいいのだから、指が触れる度に腕を動かして阻もうとするだけ不毛だ。

「ほうほう、ほうほうほう!」

「やめ……やめてって!」

 なんだろうこのテンションは。

 千爽の白い肌に赤味が加わるほど虚ろに漏れる息は荒くなり、それに合わせて美朱の執着も熱を増していく。

 着ぐるみで視界が狭まっているせいで淫靡な光景を覗き見しているような気分になった。目を離すことはできず、悪だと自覚しながら傍観している。魅せられるまま誘惑に乗っている現状を正当化し、自分を卑劣な出歯亀と誹らずにいるためには適切な弁解を用意しなくてはならない。

 見張り。そう、見張りだ。それ以上は危険なギリギリのところで中止させる為にこうして見ている。なので合法、合法だ。

 自己肯定に成功して改めて破廉恥なショーの見物に集中しようとすると、憤怒の形相と視線が合わさった。責任を果たさないことを恨んでいるようだ。千爽の良好な血色の理由は恥辱と思っていたら激昂だったらしい。

「違うよ? これはけっして千爽を見捨ててるんじゃなくて……そうギリギリ、ギリギリ危険なところで止める為に敢えての様子見なの」

「様子見してないで危険を未然に防ぎなさいよ!」

「あ、はい。そうですよね」

 怒鳴りつけられて正気に返る。我ながらどうかしていた。

「でもねえ千爽、さっきのあんた見惚れるくらい色っぽかったよ」

「……嬉しくない」

 余計に小さくなった千爽に近付くと背中にへばりついていた美朱が剥がれて立った。なんとなく悪霊っぽい。

「さあ、次はアンタの番ね」

 目に宿る光の妖しさが抜けないことからもわかるように美朱は自分の欲望を引っ込めるつもりはないらしい。指をワキワキ動かしながらにじり寄ってくる。

「怒れる怪獣は愚かな人類の思い通りにはならないのだ。がおー」

 間合いへ入るかというところで美朱が前へ出した足へ体重がかかるのを読んで、前傾した首へ怪獣の頭を被せ動きを制する。

「うわっ、ナニコレ暗い!」

 前後が逆の被り物では何も見えない。当然美朱は視界を回復する為に怪獣の首を持ち上げようと、立ち止まって想定した動きをなぞる。

「あんぎゃー」

 被り物が浮いて美朱の顎が覗く瞬間を見計い突きを放った。着ぐるみで固められない拳は緩く手の甲で撫でるように顎先を掠める。

「イタ――あれ?」

 突きの為に床を蹴った動きでそのまま前進して崩れ落ちる美朱を抱き留める。目も口も間抜けに開いて、狙い通り意識が飛んでいた。

 極力加減はしたし着ぐるみというクッションもあるけれど、やはり気分はよくない。千爽のように弄ばれるわけには絶対にいかないので止むを得ない犠牲だと納得はしていても、こうして自分が作り出した被害を目の当たりにすれば胸が痛んだ。今日はこんなことばかり繰り返している。

「静かになったな。まずいことになってるんじゃあないか? 放ったままでいいのか」

「え、じゃあ突入して……そのまずいことになってるとこを見るんスか? 『無事を確かめる為の正当な行為だー』 とかって言ってその幕突き破って? 賛成するっス、ついて行くっスアニキ。まずいとこ見たいっス」

「ちょっと静かにしてよお、ここから良いとこかも知れないんだから」

 仕切りの向こうから男子どもの声が聞こえる。声色が真剣なのがまた気色悪い。

「平気だから入ってこないでね!」

 呼びかけて聞こえたため息はコーヘーのものではないと信じたい。

「ほら、いつまでも拗ねてないで」

 気を失ってノビている美朱を座らせ、足元でぐずる千爽の脇に手を差し込んで立ち上がらせる。非難がましく睨んでくるのを無視して、傍らのドレスを一着取って広げ千爽の肩に当てた。

「あんたならどれ着たって入らないってことはないだろうから、どれでも好きに選んだらいいのに。あ、ほらボタンでサイズ調整できるようになってるし。さすがに素材はちょっと安そうだけど、案外丁寧に作ってあるね」

「衣装の一部は被服部に作ってもらってるんだよ。ライトを浴びた時一番よく見えるようにっていうコンセプトだから、光沢があるのが多いでしょ? 近くでじっと見たら安っぽく見えても、舞台上では映えるんだよ」

 豊くんの説明を聞いて、一緒になって感心していた千爽がはっと我に返って押し当てられた衣装を突き返してきた。

「私は部活見学に同席しているだけで、それ以上付き合うつもりはないから」

 頑固に意地張りの姿勢を持ち直して見せても視線はドレスに釘付けだ。そういうところもわかっていれば可愛いとしか思えないけれど、一見するだけではそうはいかない。千爽を生真面目で付き合いづらいと感じている生徒はきっと多いはずだ。

 私はそれを歯痒く思っても口に出したことはなかった。「こうしたほうがいいと思う」なんて意見はそれが正解であろうと押し付けでしかないからだ。友情が壊れるのを恐れて今まで何もしてこなかった。

「うるさい、着ろ」

 強く言うと千爽は目を丸くして固まった。強引に押し付けてドレスを握らせる。

「好きなことしようよ。自分を変えないのは自由だけどさ、それって達成して楽しいことじゃないでしょ? だったら楽しいチャレンジをして、我慢はやめようよ」

 全ての人間が幸せに向かって全速力で走っていく世の中しか認めないコーヘーなら、板を一枚挟んだ怠慢な友情はいっそ壊れてしまえと言うだろう。

 千爽との友情は本物だと信じている。こんなことで壊れたりはしない。

 ひたすら迷惑なコーヘーの騒動も終わってしまえば前よりも状況は少し良くなる。だから、千爽も今より素敵に変われる。

「あう。その……カワイイのがいい」

 長い沈黙のあとぼそぼそと口先で呟いた千爽は葛藤で頬を染めていて、私は小さく指差した先にあるピンク色の衣装を手に取った。

 これも胸を張って言えるけれど、私の親友はもう充分可愛い。


 ◇


「それいいじゃん。こっちのリボンと付け替えてみたら?」

「え、ちゃんとそのままにしといたほうがいいんじゃないかな」

「まさか校則とか気にしてんの? 意味ないじゃん、ただのコスプレなのに」

 千爽は目を覚ました美朱と一緒にファッションショーを楽しんでいる。着替える・鏡の前に立つ・はにかむ、一連の流れのくり返し。

 衣装の中に近隣他校の制服が一揃い見つかって、二人は今それをとっかえひっかえして盛り上がっていた。

 なぜここに他校の制服があるかについては嫌な予感が働いて仕方ない。芝居でわざわざ他校の制服を使うとも思えず、それも女子制服ばかりなのでさては被服部にも豊くんと共感する情熱家がいるに違いなかった。

「だって制服は普通にしてるのが一番よく見えるようにデザインされてるでしょ?」

「ウケる、なにそれどこの生活指導に吹き込まれたの。そのデザインした誰か・発注した誰かにとっての〝一番〟が自分にも〝一番〟合うんだって本気で信じてんの? 本当かどうか試しもしないでに本当に納得してるんだったら馬鹿丸出しじゃん。そりゃフツーにまとめるのが気楽だけどそれだけじゃなんにもならない――」

「あーもう、わかったわかった!」

 ファッションに対する覚悟を説く美朱を見ていると彼女への好感が高まった。自説を押し付けるまでにパワフルな信念はコーヘーと似ている。こうした情熱のタチの悪さは本人が「よかれと思って」やっていることだ。コーヘーからも同じ言葉をもう何度聞いたかわからない。

 けれどもう一歩踏み込んで考えれば、その刺激は自然にしていれば自分からはけっして生み出せないものだ。それを見過ごすのは勿体ないことじゃないだろうか。

 面倒だから。他人に言われて自分を変えることはカッコ悪いことだから。そうやって拒絶することは簡単だ。特に私たちのような思春期であれば他人に従わされるようなことには反発が起こる。

 他人の意見を否定することで相対的に確固たる自分を持っている証明にしようとする。その一方でどこかの有名な人物には喜んで影響される。世間が認める特別な人間に共感する自分もまた特別なのだと思い込む。

 そういう不健全な自己承認を繰り返しスカした態度で自ら退屈な人生に沈んでいくような選択をやめたら、何か得ることができるのか。そのひとつの事例をこれから千爽と美朱が見せてくれそうな気がする。そのきっかけになったのがコーヘーと自分だというのはふたりに話せばきっと怒られる密かな自慢だ。

「つーか、あんたスカート長いって。巻け、巻け」

「膝が出てたらなんかスースーして不安で……」

「なに女装した男子みたいなこと言って――えぇ……あー」

 美朱が何か思いついた企み顔を見せたかと思うと、急にぱっと仕切りの向こうへ顔を出した。

「男どもー、ちょっとこっち入んなよ」

 顔は見えないけれど声の調子からして意地の悪い顔をしているとわかる。

「おお、公開ファッションショーっスか?」

「そういう単純な楽しみもたまにはいいかもねえ。あ、脱ぐとこはまだ見せないでね」

 歓声にコーヘーが混じっていないってことに心が救われる。

「え、男子こっちに入れるの? なんか恥ずかしいんだけど」

「着ぐるみがそれ言う資格ないでしょ」

 女子としてごく普通な意見を述べるとばっさり切り捨てられた。言われても仕方の無い格好をしているにしても、まさか千爽に言われるとは思いもしなかった。横で頷いている美朱とさっきから気が合っていて、以前からの友人としては疎外感があって寂しい。

「待って千爽、騙されちゃ駄目。奴は自分のプロポーションを活かせる土俵で勝負するつもりで、これは罠なんだから」

「あんた、こいつの友達として部活巡りに協力するんじゃなかったの? やってることブレまくりじゃないの」

 千爽は心底呆れた、という様子で怪訝な顔をしている。親友に疑いの眼差しで見つめられて悲しい。

「だってなんか千爽が、新しい友達ばっかりで全然構ってくれないし。オレだって色々試してるのに」

 着ぐるみショーを上演した歴史があるのか、はたまた被服部に私の想像を絶する趣味の持ち主がいるのか、妙に着ぐるみが充実しているおかげで私もその中から色々と選ぶことができた。割とウキウキしてポーズを取ったりもしていたのに、華やかな衣装に目が眩んだ千爽はまるで相手にしてくれなかった。

「あーもう、まったくあんたって子は……」

 千爽は更に呆れた調子で唸り、私の着ぐるみの頭を外して髪を撫でてくれた。耳の上から頬まで輪郭をなぞる指の動きが心地良い。

「あんな奇天烈な男に惚れたりするから、そういうわけのわかんない甘え方して発散しなくちゃならなくなるんでしょうが」

 返す言葉も扱いへの不満も無いのでされるがままにしておく。

 そうしたやり取りの間に男子が衣裳部屋側に入ってきていて、豊くんに満面の笑みで見守られていた。体育座りの膝に乗せた顔を右左に揺らして笑っている様は民芸品の置物に見える。何かのフェチに触れたようだけれど追求はしたくなかった。

「ホラ男子ども、張り切って衣装を選びな」

 美朱は本当にファッションショーを開催するつもりらしい。

 それもまた不都合がある。自分自身の羞恥については着ぐるみを貫けばいいだけなので問題ないけれど、コーヘーが観客として千爽や美朱を凝視するのは気に入らない。

「衣装指定していいんスか、こらたまりませんわ。有料オプションはあるんス? 後払いOKなら年収の三割ツッコむっス!」

「なに言ってんの。あんたらが着るんだっつーの」

 押風くんは興奮の頂点から一気に真顔になり、豊くんは持っていたヒモのような布がかかったハンガーをぽいっと脇に捨てた。

 開催予定だったのは〝私たちの〟ファッション・ショーではなかったようだ。

「あんたらは女子の問題にズカズカ踏み込んでんだからサ、少しは女子の気持ちにシンクロしないと。だから女装しろ」

 その切り口はとてもマズい、と私はひとりで戦慄した。あらゆる差別を敵視するコーヘーはこれにあっさり引っかかってしまう。趣味としての女装、異性の為の物を身に付ける自由。コーヘーは絶対に否定しない。

「ああ、そういうことなら構わないぞ」

 案の定あっさり頷いた。

(勘弁してよ……)

 動揺を顔に出さないよう固めた表情で内心の絶叫を抑え、それもすぐに辛くなって着ぐるみを被り直す。

 見たくない。他人の趣味を否定しない姿勢も気後れせず何事にもチャレンジする精神も立派だとは思う。ただ見たくない。

「しかし選べと言われても……弱ったな。なあナオ、お前が見繕ってくれないか」

 この唐変木はどうしてそんな残酷を強いるのだろう。泣けてきた。

 女装が避けられないのなら、せめて露出が少なく今日まだ千爽と美朱のふたりが身に付けていない物をと思って選んだ。黄色でリボンの多い、舞台衣装と言ってもどちらかというと昔の漫才師が好んで着そうなデザインのドレスだ。

「生地がワシャワシャするっスね」

「意外に動きやすいな」

 似たようなドレスを着て顔をしかめている押風くんと違って少しはしゃいで見えるのは気のせいであってほしい。

「へえ、二人とも細いんだねえ。ピッタリだよ」

 豊くんは完全にご満悦でこの状況を楽しんでいる。もしかしてそっちの趣味もあるのだろうか。嗜好の底が見えないほど深いだけに横の範囲も相応に広いのではないかとつい疑いが芽生えてしまう。

 女装への抵抗というわけではなく、物理的に衣裳が入らないので豊くんは着替えていない。着ぐるみすら無理そうだ。元々が着ぐるみのような体型なので、首だけ被って身体に模様を塗ればなんとかなるように見える。

「よーっし、それじゃあメイクもしよっか。ホラこっちおいで。美人にしてやっから」

 美朱は更にノリノリで、化粧道具と鏡を並べた机の前に陣取って手招きしている。これには押風くんが戸惑った。

「えぇ? 気持ちを理解する目的なら、うちの学校の女子で化粧してる奴なんてほとんどいないんスからそこまでは要らなくないっスか?」

「それアンタが良く見てないだけで、ホントになんにもしてない女子なんてほとんどいないっつーの」

 観察される予感がしてサッと手で顔を隠した。そのほとんどいないほうなのだけれど、化粧しないことが手抜きのように思われそうで嫌だった。指の隙間から見ると千爽も同じようにしている。

「実はアタシ、将来メイキャップアーティストになりたいから、練習台になってほしいんだ」

「だったらコスメ部に入ればいいじゃないっスか」

「アーティストは他人に迎合したりしないのサ」

「思いついたこと言ってるだけっしょ」

「えへっ」

「何もごまかされねえっスよ」

 美朱と押風くんが問答している間、コーヘーは腰をひねったり肩を回したりしてずっと落ち着かない様子だった。ドレス姿で寛がれても困るのだけれど。

「どうかしたの? 待ち針残ってるとか?」

「いや、そうじゃない。腰回りは絞れるから布は余らないんだが――そうだ豊、何かこの隙間に詰めるものは無いか?」

 コーヘーは胸元のたわんだ布を引っ張っている。そして数秒置いて、表情を凍りつかせたかと思うと取り乱して私のほうを見た。

「ち、違う! 俺は……俺は――! そうじゃないんだ聞いてくれナオ!」

 別に聞く耳を失くしたつもりはないけれど、むしろコーヘーのほうが何を言ったところで聞こえそうにないほどうろたえている。

 傍らで美朱は勝ち誇って胸を反らし調子をよくして高笑いをした。

「ホーッホッホ! 聞いた? 詰め物をしないと――胸が膨らんでないと女装は不完全なんだってさ。化粧よりも重要な、男子がイメージする女子の姿は胸が膨らんでるものなの。ハイ、これを証拠に完全論破!」

 男子に女装を持ちかけたのは美朱だが、これが狙いだったとしたらどの時点で思いついたのだろう。

『女装には胸が足らない』

 コーヘーがそう思ったことだけは差し当たり真実なのだろう。結局差別意識を持っているのは自分じゃないかとコーヘーを責めるべきか、それともこの期に及んで攻撃をしかけたきた美朱を嘆くべきなのか、ただただため息しか出ない。

「クソぉッ、俺の中に棲む悪魔よ……出ていけぇぇ!」

 這いつくばり床を叩いて慟哭しているコーヘーがとりあえずうるさい。

 千爽は男子がこの場にいるというのに、一体いつの間に着替えたのか元の制服に戻っていた。

「どうしたの、千爽さん? 早まっちゃ駄目だからね?」

 冷めた顔で美朱に近付いていくので間に入る形でついて動くと千爽は美朱の隣、化粧台の椅子に座った。化粧品を手に取りおしろいをはたき、口紅を目尻に引いて化粧を、ただし戦化粧を整えていく。

「おー、なんか手馴れてんね。意外な女子力。ん? この場合戦闘力?」

「感心してないでいいから手伝って!」

 大急ぎでコットンにクレンジング液を染み込ませて千爽の顔をとんとん叩いて変身を妨害した。右ができあがれば右を、左ができあがれば左を崩してぐるぐると入れ替わるうちに千爽の顔面は化粧の滲みで酷いことになっていき、とうとう鏡でそれを見ている千爽本人が噴き出した。

「ヒヒっ、なにこれひっどいの! わかった、わかった。もういい。あー……私絶対人生損してるわ」

 疲れきった声を漏らし、千爽は前屈みに塞いで膝の間に顔を埋める。

 千爽のお人好しについてなら同じ感想を持っているけれど、少なくともこの問題が片付くまではお人好しでいてもらわないと困る。

「ほらあれ見てよ。ほんと、なんで私がこんな苦労してなきゃいけないんだか。馬鹿場かしいったらありゃしない」

 振り返ればコーヘーが復活して男子たちはウィッグを胸に詰め「カラフル胸毛」とはしゃいでいた。

 あんな馬鹿どもに振り回されている自分が心底悲しくなる、その点についてはまったくの同意見だった。


 ◇


 舞台用だから強力なのか執念の賜物か、千爽のメイクを完全に落とす前にクレンジング液が切れてしまった。豊くんが言うには部費は余っているので補充は問題ないそうで、今必要な分は美朱と二人でコスメ部へ分けてもらいに行くことになった。

「お――邪魔しましたァ!」

 コスメ部の部室を出るとすかさず閉めた戸を全力で押さえる。「出て来るな」と念じたのが何秒だったか、恐慌状態のさなかで正確に把握できないけれど、我に返れば中の様子は静まっていて追ってくるつもりはないらしかった。

 吐息で体の力を抜き、美朱と顔を見合わせ頷き静かに音を立てないようそっと離れる。

(コスメ部……恐るべし!)

 目的は達成できたものの、クレンジング液以外の思わぬ贈り物に苦しめられることになった。

「はー、チョービックリした。今の部長に変わってからナチュラルメイク派と分離したって聞いてはいたけど。チョー過激じゃん」

 廊下の壁に持たれて話す美朱の顔はギラギラに輝いている。グロス、マスカラそれから私にはわからない様々な手法で煌かされてしまったせいで眩しくて表情が見えない。

「過激って、そりゃあまあ過激だったけど」

 コスメ部は訪ねてみればものの見事なギャルの巣窟で、化粧落としが欲しいと話したら途端あっという間に美朱はこんなギラギラにされてしまった。運動神経の全てを注いで必死で避けに徹した私も無事では済んでいない。

「くー、屈辱ぅ……右顔面持っていかれた……」

 目の周りに厚く乗ったメイクを撫でて確かめ、前へ突き出した付け睫毛を引っ張る。がっちりと張り付いて痛むだけで取れない。

「やっぱり、コーヘーの騒動のせいで憎まれてるのかな」

「違うんじゃね? あいつらアレ多分好きでやってんだよ。楽しそうだったじゃん」

 一連の出来事に関して美朱は前向きな感想を抱いているようだった。

「っていうか、嫌ってるならこんなにたくさんくれないって。ほら、こんなだもん」

 貰った瓶は二人それぞれ両手に抱えるだけ、クレンジングだけではなく美容液やらなにやら大量に受け取っている。美朱が体を揺すって抱えた瓶を示すと、瓶は胸の上で弾んでぶつかり合いカチャカチャと音を立てた。水面を跳ねるトビウオさながらの踊りっぷりで活きの良さを見せている。思わず目を奪われた。

「凄い」

「ほんとねー。でもなんかこれ、買ってるんじゃなくて科学部の連中に作ってもらってるらしーよ」

「へえ、文化系って横の繋がりあるんだね。うちは掃除と基礎運動を合同でするくらいしかしないや」

 私が「凄い」と言ったのはもちろんコスメ部の備品の豊富さではないけれど。

「繋がりっつーか、なんか色仕掛け? 言うこと聞かせてるんだってさ。さっき見た化粧台とかは豊が作ったんだってさ。即OKだったってよ。チョーありそう。アタシもさっきその色仕掛けメンバーに勧誘されたし」

「えっ? それ聞いてない。なんで美朱だけ?」

「んじゃそろそろ戻ろー」

「ちょっと、フォローくらいしてよ」

 演劇部の部室へ戻る途中、美朱に聞いておきたいことを思い出して立ち止まった。同じ文化部棟で道のりは大してないので歩きながらだとすぐに到着してしまう。

「ねえ、さっきはなんで千爽のこと怒らせるようなこと言ったの?」

 女装を勧めた結果、コーヘーが詰め物を欲しがったことが偶然ならそのまま放置しておけばよかった。それをわざわざ助長したのだから始めから狙っていたように思えてしまう。真意は何処にあるのか。

 美朱は明後日のほうへ黒目を寄せて考えている風な姿勢を取った。

「んーとねー……アタシさ、アンタのカレシが言ってる『差別の無い世界』だとかそういうの、有り得ないと思うし全然興味ないんだけどー」

「彼氏違う違う」

「けどさー、身の回りのオトモダチ関係くらいはそうだったらいいなって思うし。アンタは〝友情〟ってどういうカタチだと思う?」

 唐突にぶつけられたメルヘンな質問。キモチのカタチ。失礼ながら不似合いに思えた。とてもそんな詩心を持ち合わせているようには見えない。

「まあカタチとかどうでもいーんだけどサ」

 答える前に自分でひっくり返されてしまった。

 メルヘン趣味を意外と感じるのは彼女が私に与える先入観が基準になっていて、見たり聞こえたりした範囲の情報の中で作り出された、骨の無い主観に過ぎない。未だに印象がそこから動かないのはその掴み所の無さのせいだ。けれどそれは当人の性質というよりも彼女との関係性のせいじゃないだろうか。友情のカタチを言うならば、まだ定まっていない。

 美朱は話を続けた。

「アタシは友達が欲しいんだけど、じゃあ『トモダチってなに?』って話。アタシいないから逆に友情って何だろってキモチワルイこと考えて過ごしてきたワケよ。喋って面白くて一緒にいて楽しいだけの相手なら友達じゃなくてもいい。傷つけない干渉しない利用しない、そんな赤の他人みたいなキレーな関係なら要らねー。これ、アンタならわかると思って話してんだかんね」

 確かに私は千爽のことを傷つけて干渉して利用している。今日の会議を見てそう思われているということだろう。不本意ではあるけれど反論できない。

「信頼とか遠慮とか勝ち負けとか、そーゆーの無視してないと〝情〟なんて呼ばねーと思うってワケ」

 言葉にして聞かされれば、彼女が求めているものは確かに〝メルヘン〟と納得できた。現実離れしている。

「それじゃあ私の使命は、そういう理想と全然違っててもあなたが『友達だ』って思えるような関係になることかな」

 当人が「カタチとかどうでもいー」と言ったからにはそういうことだ。今聞かされたことを気にする必要はまったく無い。あれこれ言ったところで彼女はただ友達が欲しいだけで、自分の考える友情こそが真実と確かめたいわけじゃあないのだから。たとえ私が当たらず触らずで優しいだけの人物として接しても、その結果美朱が「友達でいてください」と泣いて縋りつくのならそれはそれで正解と彼女は認めるしかなくなる。

 にも拘らず彼女がこれだけたくさん喋った理由は、きっと。

「美朱って、思ってたより可愛いね」

 抑え切れずに笑いがこぼれる。

 これだけヘソ曲がりを晒しても好感しか持てないのは才能と言っていいんじゃないだろうか。千爽と同じ才能だ。

「本当、友情ってなんなんだろうねー」

 顔を真っ赤にして先を歩き出した美朱の背中に呼びかける。返事はないけれど、そんなものは要らないのもまた否定できない友情なのだと思った。


 ◇


 演劇部部室のある廊下へ戻ると、部屋の前に出ている豊くんが見えた。一人あぐらをかいてニコニコ笑っている。

「なにやってんのアンタ、んなとこ座って……妖怪の役作り? できてる、ウケるー」

「妖怪って、心外だなあ。このありがたいルックスが目に入らないの? どう見ても七福神でしょ」

 自分でもそう思っていたのか。

「ほら見てよ、通りがかりの生徒にお賽銭いっぱい貰ったんだよ」

 そう言ってクッキーの缶を振るとジャラジャラと音が鳴った。

「うわ、ぼろ儲けじゃん。生活できそう。たくさん食べるからムリだろうけど」

 美朱と豊くんのやりとりを横にすり抜けて入口の前に立つと、戸が薄く開いていることに気がついた。触れかけた手を動かさずそのまま後ずさって離れた。

 振り返って豊くんを見ると、意味ありげに笑みを強める。

 言っちゃあ悪いけれど豊くんは下衆だ。その視線の先にこの隙間があるということは、必ずろくでもないエンターテイメントがある。覗き趣味だ。

「見てたら息が荒くなっちゃってバレそうだから離れてはいるけど、僕ちょっと眼はいいんだ。糖尿にも注意してるし」

 シュガーまみれで目の当たりにした食癖のどのあたりに注意があったのか、疑問ではあるけれど今はそれはいい。それよりも室内の確認だ。

 多少良心がチクチクと痛むのを気にしながらもう一度戸に近付いて中を覗くと、そこには千爽と押風くんがいた。二人並んで椅子に座り都合の良いことに横を向いている。

(これだ!)

 私はぐっと拳を握り、首だけ振り返って肩越しに豊くんを見た。

「七福神って言うんなら恋愛は弁天様だから対象外なんじゃない?」

「現代はなんでも願をかけちゃうからねえ。恋愛成就なんて昔はなかったんだし、縁結びだけを考えたら――って、今は別にそんなことはどうでもいいよねえ」

「そうだね。どうでもいい」

 今回散々苦しめている千爽に何をすれば埋め合わせになるか、それをずっと考えていた。その解決は押風くんに委ねてもいいのじゃないか、そういう期待が湧いてきている。

 彼のことはよくは知らない。貧乳側に付いたのも「そっちが不利になるから」と話していた。けれど、結局のところ千爽に好意を持っていないならその席にはけっして座らなかったんじゃないだろうか。会議の開会時点から、彼にはコーヘーの志を支援する以外の下心があったんじゃないか。そうであってほしい。

 ここでの私の願いとはつまり、千爽に恋人を用意することだ。どれだけ根深いコンプレックスを抱えていようと、それを包み込み肯定してくれる存在に、これから押風くんがなってくれたらいい。その為には本人にその気がなくては困る。

 祈る気持ちで様子を観察して見ると押風くんはソワソワしていた。椅子の上でモジモジと重心を動かし、視線はあちこちをさまよう中チラチラと千爽を見る。

 乙女視点で語れば芽がありそうに思えるけれど、期待が強いばかりに進んで錯覚しようと積極性が働いているかもしれない。

 今ここで室内に踏み込んで介入するよりも、押風くんの自発的な行動が出てほしいところだ。

「いや、えーと、あのさ、みんな、遅いね」

 押風くんの挙動が怪しい。斜めに唇を傾けた顔面硬直は察するに作り笑いで、流暢に語って美朱と競った弁舌はどこへ行ってしまったのかといった別人ぶりだ。

 これはもう確定と見ていいんじゃないだろうか。気になる異性と一緒にいるせいでの緊張、そうとしか思えない。

 一方千爽のほうは目を閉じて腕を組み、まるで要塞のように堅固な佇まいをしている。「……あのね、よその部の備品を分けてもらおうってんだからそうそう簡単にはいかないのはわかりきってるでしょ。元になる部費の割り振りは決まってるわけだし、それをあとから行き来させようなんて、生徒会に知れたら問題になるルール違反なんだから」

 まるで響かないその態度は座っているのに仁王立ちに見えた。わかってはいたけれど、手強い。

「あ、万畳さんって剣道部だったよね」

(よし! そう、声出していこう! 体ほぐれるよ!)

 心の中で押風くんへ声援を送る。

「竹刀見たでしょ。だから何よ」

 取り付く島も無い。

「えーあー……ゴメンナサイ」

(あー、謝っちゃった)

 それにしても押風くんはいくらなんでも動揺し過ぎな気がする。

 もしかするとここで仲を進展させるつもりでいるから? 仕掛けるつもりでタイミングを計っているなら精神の負担が増すのはよくわかる。

 けれど今打ち込んで突き崩せる状態だろうか。千爽の堅牢ぶりは狙い澄まして付け入る隙があるとは思えず、ただ待ったところで好機が巡ってくるわけもない。かと言って少なくとも今の状態の押風くんにチャンスを自ら作り出す技があるとは思えなかった。早速敗色濃厚だ。

 いや、私は押風くんを応援すると決めたのだから、彼が何かするつもりでいるのならその成功を信じなければならない。

(がんばれ、ダメでも次があるよ!)

 完全に信じるというのは難しい。

「万畳さんってどういう男子がタイプなの?」

 唐突な質問に息を呑む。勝機を伺うだけの平静さは押風くんに残されていなかったようだ。だったらもうその空気を読まない攻めに賭けるしかない。

(いっけええええぇぇ!)

 心の中で吠え、千爽を睨み付ける。通じろ、届け。

 千爽が押風くんのほうを向いたので顔が見えなくなった。他の姿勢は不動で感情は読めない。

 かと思ったらすぐに首は元の向きに戻った。ただ前を見る眼差しは冷ややかで、押風くんとの温度差でふたりの間に気象前線が出来かねない勢いだ。

「胸の大きさがどうとかこだわらない人かな」

 思わずうな垂れる。完全な拒絶だ。今日の押風くんを知る限りこれで立候補はできなくなった。かといって否定すれば今後会議に参加できなくなる。ここで彼に離脱されてしまうのは痛い。

「大丈夫! 俺そんなの気にしないから!」

 元気よく答えた押風くんの声を聞いて前屈の深度が上がった。何を考えてそんなことを言い出したのかわからない。

(ああでも、男子で何を考えているかわかる人なんて、いるっけ?)

 と、横道へ逸れそうになった思考を持ち直す。

 ここで私があれこれ心配すること自体は無意味だ。意味があるのは千爽の反応で、私がすべきことはそこから今後必要な助言を見つけ出すこと。

 自分の役割を再認識し、上半身を持ち上げてまた戸の隙間へ顔を近づける。と、視界にさっきはなかった障害、木刀の切っ先が見えた。

「ちょ――うわっトォ!」

 体を持ち上げていた勢いでそのままブリッジして回避し、鼻先を擦過する飛来物に付いていく形で床を蹴り腕で跳ねて後ろへ飛ぶ。

 すかさず身構えたものの、追撃は無かった。ほっと安心すると同時に自分が着地したのが豊くんの肩だということに気が付く。

「わっ、ゴメン!」

「全然大丈夫。大歓迎」

 返事はスカートの中から聞こえた。慌てて飛び降り、動悸を抑える。ひたすら恥ずかしい。怒りに任せてひっぱたいてやりたくもなるけれど自分で招いたことなのでそうもいかない。

 第一それどころではなかった。目の前には千爽が立っている。部室を出た廊下で、手には木刀。もうここは彼女の間合いだ。

「変だと思ったら……まったくあの手この手で……あんたは私のこと馬鹿にする為に頑張り過ぎじゃ――ぶふっ」

 無表情から迸る殺気が突然途切れ、いきなり噴いて笑いだす。

「ウヒっ――それあんた、なにその顔」

 そう言えばコスメ部で半面だけメイクをされたままだった。豊くんのリアクションがなかったせいで忘れていた。

「コスメ部に行ってスッピンで帰ってこれるわけないからねえ」

 彼はこういう事態に慣れているらしい。

「そうだ、メイクっていえばそっちこそどうしたの?」

 そもそもコスメ部にクレンジング液を貰いに行ったのは千爽のメイクを落とすためだった。そう言えば千爽はさっぱり綺麗な顔をしている。

「あんただって体育会系女子の嗜みとして洗顔フォームくらい持ってきてあるでしょ。ガシガシ洗ったら落ちたわよ」

 その手があったかと納得する。

「いいじゃない。ここの備品は減らしちゃってたんだから、貰ってきた分が無駄になるわけじゃないんだし」

「じゃあ私も顔洗ってくるから、千爽はさっきの続きやっててね」

 千爽の肩を掴んでくるんと方向転換させて演劇部へ押し戻した。中では押風くんが良い姿勢で待っている。

「それからさっきの押風くんは、私は関わってない混じりっけなしのノンフィクションだから」

「はぁ? だったらなんだっての。あんな変態に好かれたって嬉しくないわよ」

「胸の好みのこと言ってるの? さっき本人が『気にしてない』って言ってたじゃない」

「気にしてない奴があんな会議に参加するわけが――」

「あるでしょ。たった一つの例外が。別に貧乳に固執してるわけじゃなくっても会議に参加して貧乳を支持する理由があるでしょ」

 好きになった人が、そうだった場合。

「周りからどういう風に見られてたってさ、それだって一部なんだからいいんじゃない。好きになっちゃったら関係ないよ」

 貧乳が悪いもののような言い方になってしまったけれど、私が考えているのは別のことだった。惚れた弱みの致命傷。私はコーヘーがどれほど迷惑を振りまこうと見捨てることができない。

「要するに押風くんはあんたの近くにいる為に会議に参加して、あんたを守る為にあんたのことが好きだって主張し続けてきたわけよ。同じだけ愛情を返せなんて言うつもりはないけど、彼がどういう人物かわかる、そのチャンスくらい与えてあげてもいいんじゃない?」

 耳に口を近づけて小声で話すと、千爽はみるみる赤面して抵抗する力を弱めていった。あとは私にされるがまま足を進めて椅子に座る。

 自分を助けてくれる王子様を女が嫌いになるはずがない。

「それじゃあ押風くん、あとはよろしく。言っとくけど私の親友を辛い目に遭わせたら空手部の備品にするからね」

「ハイ! 頑張ります!」

 押風くんは脅しも気にしないくらい無駄に意気込んでいる。明らかに力が入り過ぎだけれど、「が……! ど……!」と謎の稼動音を鳴らしたきり黙る千爽もまたどっこいどっこいの状態なので良いバランスと言える。お似合いだ。

「じゃあ美朱の部活見学は私に任せて、ごゆっくりー」

 私だって誰でもいいから千爽を押し付けようとしているわけじゃあない。押風くんを信じて期待しているからだ。コーヘーの友達というだけでそう思うに足りる人物と見なしてしまうのは明らかに欲目だけれど、私はそれ以外のものさしを持たないから仕方がない。

「ナオ待って!」

 部室を出て行こうとしたところで後ろから声をかけられた。まだ逃げようというのならなんと頑固なのだろう。これは空手チョップの出番かもしれない。

 少し鬱陶しく思いながら振り返ると、椅子から立った千爽は脂汗を浮かべた余裕の無い顔で意地悪く笑っていた。

「ここまでのことを私にさせてるってことを理解して、あんたも腹くくんなさいよ。でないと許さないんだからね」

 私も、ピンクフリルを着る時が近づいている。

「そうね。お互いうまくいったら、こっぱずかしいガールズトークでもしましょうか」

「私のほうはうまくいかなくていいから」

「だったらその時は慰めてあげる」

「いやそうじゃなくて」

 千爽の焦り顔と押風くんの固まった笑いを確認してから演劇部の部室を閉じた。


 自分で塗った千爽とは違ってコスメ部の本格的な化粧だからか持参の洗顔フォームでは歯が立たず、結局貰ってきたクレンジング液を使うことになった。

 さっぱりした気持ちで演劇部の部室前に戻ると、戸は締め切られているというのに豊くんはまだ廊下で粘っていた。彼のことだから空想でも楽しめるのだろう。

「あれ、コーヘーどこ行ったの? もしかして奥にいたとか」

 衣装スペース側に気付けなかったとしたら、今になってまた中にお邪魔してコソコソ連れ出さなければならないとしたらいただけない。

「へ、山切さんが呼んだんじゃないの? メールで呼ばれたからって、急いで行っちゃったよ」

 携帯電話の定位置、スカートのポケットに触れると感触がなかった。持ち歩くようにしてはいるけれど学校ではほとんど使わないのでどこかで取り出した記憶も無い。一体どこへいったのか。

 落とし物をした。単にそれだけで済むことではないような勘が働いて急に冷えざわざわと悪寒に包まれる。

 廊下に校内放送のチャイムが鳴り響いた。

《マイゴノオシラセヲイタシマス》

 聞こえたのは人の声を繋ぎ合わせた合成音声だった。内容も知った人間しかいない学校内ではあり得ないアナウンスだ。

(敵だ――)

 直感する。

《校内にて、血迷った男子生徒を一人、体育館にて保護しております。お心当たりの方は急いでお越しください》

 美朱が横で何か言ったような気がするけれど、私にはもう聞こえなかった。

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