第5話 芸術家


 他人を羨ましい、と言い切ってしまえるのはなんと傲慢なのだろう。他者を恵まれた者と理想化し、勝手に嫉妬し、それさえ隠して称賛する。

 そのしがらみから逃れるのは難しい。たとえ人と関わることを望んでいなくても。



 フローリングの床、暖色系の照明、造花の活けてある花瓶、苔色のソファ。

 犯罪被害者相談センターの清潔感と無味さを誤魔化すようなこの空間—カウンセリングルーム—には、犯罪に傷つけられてやってくる人間が絶えない。



 ぼくが今から記すのは、ある芸術家のことだ。名前や取り扱い番号は伏せておくが、そんなことはもはや意味がないかもしれない。


 これはぼくのための記録だ。


 ぼくが挨拶をすると、同じように頭を下げる男のオレンジ色の髪が揺れた。緩やかにパーマがかかった鮮やかな髪はおもちゃのようだが、頭皮近くは地毛の色が覗いている。

 よれたシャツや蝶ネクタイ、髪型などのおどけて見える容姿に反して、唇は硬く締まり、目には緊張の色が滲んでいる。


 ぼくはこの男性に見覚えがあった。少し前まで、メディアでもてはやされていた「稀代の天才画家」だ。テレビで画風にそぐわぬお調子者として出演していたのを見た記憶もある。


「本日は、どのようなことが……」

 いつものようにクライアントに対して話を振ろうとすると、その瞬間を待っていたように男性は捲し立てた。


「ええ、それがですね先生、私は数年前から集団による嫌がらせの被害に遭ってまして、例えば剃刀が送られてきたり電話や手紙で脅迫されたり、なんと家中の壁に生卵が投げつけられたりそれを落としたと思ったら落書きされたり他にも色々、それというのもきっと私が絵描きなんてやっているからなんですけども、作品が……」


「す、少し待ってください。落ち着いて」

 あまりのマシンガントークに記録を続けられず、つい流れを差し止めると、男性はハッとして話すのをやめた。


「すみません。緊張するとつい、こういう風に話してしまうんです」

 芸術家が項垂うなだれる様子は、容姿もあいまって糸の切れた操り人形のようだ。


「いえ、止めてしまってすみません。こちらも話をなるべくしっかり聞かせていただきたいので、ゆっくり聞かせてくださると嬉しいです」


「はい。では順を追って話しますね……」


 芸術家の話をまとめると、このような内容だった。


 芸術家は、国際的な賞も受賞したことがある画家であり、国内での人気もそこそこ——と謙遜していたがおそらくかなり——高く、専業画家として生活していた。

 しかし、ある作品を発表し、それが世界の注目を集め、メディアに露出しだしたことをきっかけに嫌がらせが始まり、精神に異常をきたしてしまった。

 しばらくの療養を終え、活動を再開するとまた嫌がらせが始まり、警察などの対応も追いつかないほどになったため、活動休止を余儀なくされた。


 不思議なことに、活動を休止する決意をした途端、発表もしていないのに嫌がらせはぴたりと止んだそうだ。


「警察の人も頑張ってくれてるのは知ってるんだけど、未だにどんな団体や集団が犯人かもわからずじまいで……」

 このままだと画家としての人生は終わりかもしれないし、だったら何をしていても楽しくない、と芸術家は嘆いた。


「勝手な提案かも知れませんが、国外などはどうですか。嫌がらせする人達も、そこまではついてこないと……」

 ぼくの提案に、芸術家は首を横に振る。


「いえ、駄目だったんです。活動休止前に

 国外の芸術祭に招かれて、宿泊施設内のアトリエで絵を描こうとしたけど、配達を頼んでおいたキャンバスが切り刻まれて届いたり、芸術祭の関係各所に私の展示を中止しろと電話がかかったりして……」

 そこまで話して芸術家はため息をついた。こんなのはもうたくさんだ、というのが伝わってくる。


「本当に大変でしたね」

「でも、なんとかして描き上げたその時の作品は評判が良くて、芸術祭の中で賞をもらったんです。それで、やっぱりやめたくないなと思って」

 ふと、芸術家の表情が厳しくなる。

 何かを告白するような、聞いて欲しくないが絶対に言わねばならないというような表情。


「私は……この嫌がらせが時々、天の恵みじゃないかって思うんです」

「え……」

「勘違いしないで頂きたいけど、この嫌がらせを嬉しいと思ったことは一度もありません。周りの人にも迷惑がかかったし、実際かなり精神を病みましたし。それと、特別に信心深いわけでもない」


「ではその、天の恵みとは……」


「嫌がらせを受けて、もう本当に何もかも辞めて死んでしまいたい、と思った時ほど、いい絵が描けるんですよ」

 芸術家はぽつりぽつりと話す。その表情や仕草には、テレビに出ていた時のようなひょうきんさは微塵みじんもない。


「私、学生時代——ああ、美大でした——にも、絵を描いてたんだけど、いまいち上手くいかなくて。でも、教授に気に入られたせいで周りに妬まれるようになってから、絵が上手くなりだしたんです」


「それは、あなた自身の才能や努力に依るものでは……」


「もちろん、それはあると思う。大いに。けれど先生、そのことがあったから私は頑張れた、いえ、頑張るしかなくなったんです」


「なるほど」


「もうお分かりかと思いますが、10年ほど前に、私の代表作になった絵を描く前にも……これは話したくないのですが、とても辛いことがあって」


「そうだったんですね……」

 10年ほど前というと何となく心当たりがあるが、何も言わずにおく。


「情けないことですが、押しつぶされそうな不幸があるほど、私は絵を描けるんです。でも、そのことが本当に辛い……」

 彼は俯き、じっとしてしばらく動かなかったが、次に顔を上げたときは人の良さそうな笑顔になっていた。ぼくにはそれが仮面のように見える。


「弱音ばっかりで、駄目ですね」

「いえ、駄目ではないですよ」

「でも、天才画家らしくはないでしょ……——先生、自分で言うな、って突っ込んでくださいよ」

 そう言って芸術家は笑った。そのオレンジの髪や、明るい表情で称賛や嫉妬をやりすごしながら、一体いくつの苦難を咀嚼そしゃく嚥下えんげしてきたのか、ぼくには測りかねた。



 週を跨いで、また芸術家はやってきた。

 そして、嫌がらせの詳細な内容、そのことについての愚痴、活動を再開できるならやりたいこと、気になっているニュースについてなど様々なことを話した。

 話ぶりから、やはり復帰したがっていることや、それでも先に待つであろう苦難が恐ろしいことが伝わった。


 彼の家は、スプレー缶の落書きで混沌としており、町の景観を損ねていると苦情が来ているという。どうせ落書きをするならもっと芸術的だったらいいのにと呟く彼の瞳の色は、混ぜすぎた絵具のように少し濁っていて暗かった。





 そんなやりとりを何週間か繰り返した後、芸術家は何かを手に抱えてやってきた。


 鮮やかなオレンジの髪に、毒々しい紫の絵具がべったりとついているが、全く意に介さない様子で息を切らしている。


「梱包がギリギリで、遅刻しそうになってすみません」

「梱包とは……あと、その髪は……」

 ぼくが尋ねると、芸術家は自分の髪を掴んでから慌てたように話し出す。


「あ、これはですねまた嫌がらせに遭ってしまったみたいで、やっと梱包が終わったと思って油断した隙に待ち伏せしてたやつに絵の具をかけられたんだけどシャワー浴びてたら絶対間に合わないと思って、もう剃ったほうがいいかもしれないですね、でも」

「落ち着いてください」

「あ、またやらかしました、すみません。ちょっとソワソワしてしまって」

「大丈夫ですよ」


 彼は面談の前に、と言って包みを手渡してきた。A4よりは少し大きいくらいの長方形の、厚みはあまりない何かが、茶色いクラフト紙でやや雑に梱包されている。


「これ、もし良ければ先生にと思いまして。習作みたいなもので申し訳ないのですが」

「もしかしてこれは」


「私の絵です。昨日描きました」


「……お気持ちはありがたいです。けれど申し訳ないですが、クライアントからの金品の受け取りはできないことになっていますので」

 芸術家の顔が途端に暗くなったので、ぼくは慌てて進言する。


「ですが……もしかしたら、こちらの利用者であることを隠して、寄付という形でセンターに飾る、ということなら可能かもしれません。ぼくではなく、センターに問い合わせていただくことになりますが」


 しかし、芸術家は顔をしかめたまま唸るように反論する。

「うーん、絵を寄付っていうのはあまり好まないです。お金でなら使い道もないから散々しましたけど、絵は嫌だ。それに、これは先生の手元にあって欲しい。これは私をただの人間としてみてくれた事への、救われた気持ちへのちょっとした対価なんです」


「そうですか……」

 ぼくが躊躇ためらっていると、芸術家がふと、何かを思いついたように目を見開いた。


「じゃあこうしましょう。実は私、今日でカウンセリングを終わらせてもらおうと思っていて。活動を再開したから、ここでも嫌がらせが起きないとは限らないし」


「それは随分と急ではないですか。カウンセリングは続けてこそのものですよ」


「先生、それ今までも何度か言ってましたね。でも、もう担当医から許可をもらったんです」

 芸術家はオレンジと紫の髪を払って、ぼくのほうをじっと見つめる。


 彼と何度も面会する中ではあまり感じていなかった、特有の雰囲気……言い換えればカリスマ性のようなものを、このときぼくは初めて感じた。

 一つの道を極めながら、たくさんの出会いや出来事によって磨かれてきたもの。決意を人に伝え、引っ張る力。


「この絵を、忘れ物として預かっていてください。やっぱり要らないってなったら、売り払ったり、捨ててもいいので」


「……わかりました、とは言えないので、沈黙するとします。ただ、もしあなたが忘れ物をされた場合は、責任を持って預かりますね」

「先生、ありがとう」

 芸術家は、自分のわがままが通ってくれたことに素直に喜んでいたようだった。


「こちらこそ……ありがとうございます」

 ぼくは、嬉しいと伝えることが正しいのか分からないまま、言葉を紡いでいた。


 この会話をもってその絵についての話題は終わり、後は彼の今後の創作についての話を聞いたり、ストレスを受けた時の対処法について色々伝えたりしているうちに、面談時間は終了した。


 晴々とした表情で去った彼の後ろ姿には、光の加減で黒くも見える紫の絵具が、まだらにべったりと貼り付いていた。







 数ヶ月後、ぼくが知ったニュースはまさに寝耳に水だった。

 忙しくしている間に、ニュースを見逃してしまったらしい。


 芸術家は、既に亡くなっていた。

 自殺ではなく、殺人だった。

 自宅を放火され、大火傷を負った彼は、動けるようになってすぐに周りの制止を振り切って絵を描きつづけ、その絵をオークションに掛け、売上金の寄付先のリストを作ってから亡くなったそうだ。

 犯人はしばらくして捕まり、芸術家をずっと妬んでいたと供述した。嫌がらせをしていたのは犯人だけではないはずだが、それについてはほとんど情報が出てこない。


 寄付先には、環境保護団体、美術団体、孤児や被虐待児のための養護施設、障害者のための就労施設、シングルマザーのための母子生活支援施設などなど、さまざまな施設に加えて、ぼくの勤めている犯罪被害者相談センターも載っていた。


 それを見たとき、まるで長い言い訳のようだな、と思った。


 心ない人に殺され、残した作品による莫大な金額が各施設に寄付されたことで彼は英雄視され、遺された絵画たちの値段は日に日に吊り上がっている。

 彼の名は少なくともしばらくは、忘れ去られることはないだろう。


 彼は、残された時間が少ないと知ってから最善を尽くしたのだ。苦しみぬいた果てに作ったそれを、最も素晴らしい作品にするために、全てを注いだ。


 しかし彼は英雄ではない。ひとりの画家だ。

 そう思うのは、ぼくが彼に肩入れしすぎている証拠なのだろうか。わからない。


 ぼくは彼の——偉大な芸術家の絵を、今も持っている。けれど、この素晴らしい絵を、他の誰にも教えたり見せるつもりはない。


「羨ましい」などと、誰にも言われたくないからだ。












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愚かな鏡 銀文鳥 @silverbunchou

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