第4話 番外編

こちらは、木古 おうみ(https://kakuyomu.jp/users/kipplemaker)様から誕生日に頂いた「愚かな鏡」二次創作小説です。

作者様より許可をいただき掲載しています。ありがとうございます。




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 鏡は濁って、冬の空の色だ。


 俺は前髪に慎重に鋏を入れながら、昔読んだ海外小説で、結婚して家を出る長男が、風呂場の鏡に石鹸で聖書の中の句を書き残すシーンがあったと思う。大工よ、屋根の梁を高く上げよ、と。

 俺は神を信じていないし、弟もそうだったと思う。だから、鏡面に書くことなど何もないのに、どうしてこうも石鹸を擦りつけたように汚れているのだろう。


 少し切りすぎたかもしれない。写真では奥行きがなく髪型の全体像がわかりにくいが、辿れるほど確かな記憶もない。

 蛇口をひねって、洗面台に散らばった髪を流す。鋏の刃を洗って、石鹸置きの上に乗せた。


 目を上げたとき、一瞬鏡が二枚あるのかと思う。

 くだらない錯覚だ。俺は立てかけたままの写真を手に取る。小さいな鏡に見えたのは、先月死んだ俺の双子の弟の遺影。

 そして、汚れた本物の鏡には、写真の中の弟と同じ服を着て、同じように髪を切り、弟と似ても似つかないほど暗い目をした俺がいる。


 ***

 今座っているのは弟だろうか、俺だろうか。リノリウムの床に反射する影を見て思う。

 ブルーのチェックのシャツに、学生のような白いカーディガン。遺影の弟と同じ服装だ。俺だったら絶対に着ない。

 地元の古着屋で何とか似た服を見つけたが、弟はきちんと襟を正していたのに、俺の買ったシャツはどうしてもくたびれて、直せば直すほど型が崩れる。ネクタイでも締めようかと思ったがやめた。写真と同じなのが何よりも大切だ。

 俺は弟の鏡になってみようと思う。それから、弟になる。一ヶ月前、死んだのはーー殺されたのは俺で、その死を弟が悼んでいるのだと思う。


「お待たせしました」

 響いた声に、俺は現実に引き戻される。今いるのは被害者支援センターのカウンセリングルーム。椅子に座って、部屋に入ってきたばかりのカウンセラーと向き合っているのは弟ではなく、俺だ。

 カウンセラーは音もなく椅子を引き、俺の前に座った。俺の名前を読み上げてから彼は、

「今日が初めてですよね」

 と、静かに微笑んだ。優しげだがどこか壁一枚隔てたような表情に、なぜか俺の家の曇った鏡を思い出す。カウンセラーというは皆、こうなのだろうか。


「はい……先月、弟が亡くなりまして」

「それはご愁傷様です」

「その死因が、他殺だったわけですが……」

 思わず口にした他殺という言葉に驚くでもなく、カウンセラーは手にしたファイルを開いた。付箋のついた頁に目を落とした瞬間、彼の瞳孔がわずかに開く。弟の遺影に使った写真は、ニュースでも流れたはずだ。目の前の男が、死んだ兄弟と同じ格好をしていると気づいたのだろうか。


 ファイルから視線を上げ、彼は慎重に言葉を紡ぐ。

「弟さんのことはぼくもニュースで見たことがあります。大々的に報道されていましたよね。印象的でしたので……」

「印象的というのはやはり、動機が、ですか」

 カウンセラーは少し間を置いてから、はいと答えた。


 綺麗だったから。犯人はそう供述した。

 綺麗だったから自分のものにしたかったのに、暴れたから殺したと言った犯人は、怪物のように醜いわけでもない、ただ鼻と輪郭の丸い男が犯人だった。

 俺と弟は一卵性の双子だから、同じ顔をしているのだろうが、自分も弟も美しいと思ったことはない。ただ、陰気で細い刃物のような眼や、薄くて血管が透ける病人のような肌、俺の顔の悪い部分がすべて良い方に働いているのが、弟の顔だと思った。


「犯人は取り調べ中に自殺したと聞きました。気持ちの整理がつく前に、その矛先を失うのはお辛いでしょう」

「えぇ、まぁ……」

 机の上で組まれたカウンセラーの白い指を見ながら、俺は言葉を続けるべきか悩んでいる。狂人だと思われるかと思ったが、口を開いた。

 狂人の相手をするのがカウンセラーだろう?


「先生、事件に関して、週刊誌で何か見たことはありますか」

 カウンセラーは首を横に振った。

「すみません、そういった雑誌を読む習慣があまりなくて」

 確かにこの男がゴシップ誌を漁るのは想像できない。俺も弟の事件が載っていなければ読まなかった。記事のライターは俺の職場まで取材に来た奴だった。小型のマイクか何かを突きつけてきて、俺は受け取ったそれを握った拳でそいつの額を殴った。奴の皮膚よりも、手の中で潰れたマイクの、貝殻のような感触の方を覚えている。


「週刊誌で、犯人が自殺する前に言ってたことが書いてあったんです。被害者はみんな、現実で会う前に一度夢で会ってると。夢の中で見た綺麗な奴を探して逢いに行くんだと……頭の、病気だな」

 死人の格好を真似ている男が言えた義理かと、思っただろうか。カウンセラーは何も言わず俺が話すのを待つ。

「弟について、犯人が書いた日記も載ってました。夢で、スーツを来て大きな階段の前に立っている俺の弟を見たと」

「階段ですか」

「はい……弟は滅多にスーツを着ない、まだ学生だから。院生だったんです」

 カウンセラーは差し支えなければと、俺の仕事を聞いた。

「ブライダル関係です。そうは見えないと思いますが」

「そんなことありませんよ」

「……うちの式場はガラス張りで広い。ブーケトスをするための」

「階段もあるんですね」

 俺は首肯を返す。

「弟が職場に来ることになってたんです。両親の銀婚式のことで、俺が連絡を返さなかったから、仕事終わりに会って話すことになってた。もうすぐ上がりだってとき、弟が横断歩道の向こうにいるのがガラス越しに見えた。珍しくリクルートスーツを着てたからよく覚えてる。でも、いつまでも渡ってこなかった」

「そのとき、犯人に……」

「ええ」

 たぶん、奴はガラスに映った弟の姿を見た。式場の中の巨大な階段と重なる弟の虚像を。

 時計の針が終了時間を過ぎているのを示した。


 ***

 センターのトイレに付けられた鏡は、よく磨かれて曇りがない。それで見る自分の姿は、遺影そのものだと思う。むしろ、棺に入った弟に生前の服を着せた、趣味の悪い死体の写真だ。

「犯人は心神喪失状態だったと聞きます。その話もどこまでが本当かわかりませんよ。あまり考え過ぎないよう」

 カウンセラーは最後にそう言った。さっきまで向かい合っていたのに、彼の顔がぼやけてよく思い出せない。

「優しいひとなんだな、先生……」

 弟が死んで落ち込んだことも、犯人への怒りを燃やしたこともない。俺が葬式に向かう最中考えていたのは、親族は払う香典は五万でよかったのか、だけだ。

 それすらもお前はもらう側でいいんだと母に押し返されて、出さずじまいだった。


「俺は、優しくないからな」

 弟が身代わりになって死んでも悲しめなかった。この服も髪も、贖罪ではなく逃避だ。死んだのは俺で、弟は元から薄情だった兄の死など悼まなくていいと思うため。指名手配犯の変装とどこが違う?


 鏡が、雨上がりの路面の光を反射するガラスに変わり、白い大きな階段が浮かび上がる。俺が最期に見た弟の姿だ。ニュースで見た、この世にはもういない、大して醜くもない犯人が背後に見えて、その輪郭に俺は拳を振り下ろす。


 筋肉の束が震える鈍い感覚と、破片が手に噛み付く鋭い痛みはほぼ同時だった。

 俺が手を離すと、粉々になった鏡が音を立てて崩れる。腕を伝う血の温かさと粘度が、遠く感じた。

 靴底が床を擦る音がして、振り向くと目を見開いたカウンセラーが立ってる。眼球は乾き切っているのに、なぜか彼の顔だけが霞んでよく見えない。


「すいません、鏡を、割ってしまって……」

 カウンセラーは開きかけた口を噤んで、俺に歩み寄り、血まみれの手を取った。ポケットから水色のハンカチを俺の押し当てる。

「先生、汚れますよ」

「お構いなく。すぐ病院へ」

 血が布から染み出し、カウンセラーの白い指や爪を汚すたび、感覚が戻ってくる。手の甲にもうひとつ心臓があるように、痛みが脈打つ。


「あなたは、」

 視線は真っ赤になったハンカチに落としたまま、彼が呟いた。

「弟さんが自分のせいで亡くなったと思っている。その罪悪感から、あなたは死んだのは自分で、弟さんがこうして生きていると思おうとしているのではないですか」

 布が膨らみ、吸いきれなくなった血が滴る。腐り出した水死体のようだと思う。

「罪悪感なんかないよ、先生。弟が死んだことより、俺にはそっちのがよっぽど問題だ」


 カウンセラーが目を上げ、正面から俺を見つめた。

「それを罪だと思って苦しむことで、あなたは充分すぎる罰を受けているんですよ」

 どこか色素が薄く、光も澱みも写り込んでしまう鏡のような目だと思う。

「先生、ニュースで弟の顔を見ましたか」

「はい」

「俺と、似てると思いますか」

 カウンセラーは真剣に考え込むような表情をして言った。

「あまり似ているの思いませんでした。お顔立ちは似ているのでしょうが、雰囲気が違って……」

 難問を出された子どものような答え方に、思わず笑いがこぼれた。自分で信じられないほど掠れた声だ。

 一面に散らばった鏡の破片はプリズムのように輝いて、そのすべてに誰にも似ていない陰鬱な自分の顔が映っている。



 ***

 四週間ぶりに訪れたカウンセリングルームは、相変わらず清潔で静かだった。白い床に映る自分は、黒いVネックのセーターにカーキのジーンズ、髪が少し伸びている。どこに行くときもしているような格好だ。


「手の具合はどうですか」

 このカウンセラーもそう変わらない。俺はわずかな縫合痕が残るだけの右手を見せた。

「全治一ヶ月で済みました」

「大事ですよ」

 彼がそう言いながらファイルを開きかけたのを制して、

「今日は相談じゃないんです。鏡の弁償を」

 俺は封筒を取り出す。弟の葬儀で出し損ねた香典だ。黒い水引をつけたままだったのを思い出し、慌てて外したのをポケットにねじ込んで封筒だけ渡した。


「お気になさらないでください」

「いえ、自分がやったことですから……」

 カウンセラーは二度断ってから不承不承というように受け取った。

「カウンセリングはもうよろしいんですね」

 と、彼は微笑む。なぜか今日は、霧が晴れたようにこの男の顔がはっきりと見えた。


「先生、ありがとうございました。いろいろとご迷惑を」

 そう行って部屋を出る際、カウンセラーが俺の名前を呼んだ。

「今日の服、とてもお似合いですよ」

「……どうも」

 彼は頷いて、今まで通りのどこか悲しくも見える笑みを浮かべた。自分の何かを削り取って、他人に渡す微笑みを作る、受難者の笑顔だと思った。


 ***

 センターを出て、俺は煙草に火をつける。弟が死んで二ヶ月近く、自分が喫煙者だということを忘れていた。指先から解けて空へ消える煙を見て、俺の家の曇った鏡を思い出す。

 カウンセラーの顔がよく見えなかったのも当然だ。俺は弟の鏡になろうとしていて、彼はいつだって被害者を写す鏡だ。鏡と鏡を合わせても、何も写らないに決まっている。


 視線を下ろすと、足元に小さな枯れた花が落ちていた。季節外れだがスイトピーだろう。

 昔、花好きな母親から花言葉は門出で、根には麻痺性の毒があると聞いた。

 このセンターに植えつけられたように、幾人もの被害者が立ち直り、あるいは潰れ、消えていくのを見送り続けるあの男のようだと思う。

「大工よ、屋根の梁を高く上げよ、か……」


 俺は花を拾って備え付けの灰皿の中に捨て、ポケットから出した水引を捨て、最後に火の消えた吸殻を捨てて歩き出す。

 冬が始まったばかりの空は、もう何年も拭かれていない鏡の色をしている。

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