第3話 愛と錯覚


 ぼくは、必ずとか絶対とか、すべきなどと言う強い言葉をなるべく使わないようにしている。使うとしても当たり障りのないポジティブな意味の時だけだ。


 言葉とはそれほど、他人を追い詰め傷つけてしまいかねない鋭い葉なのだと考えている。時には降り積もり切り刻み、呪いとなってひとを縛り付けてしまうほど。


 相談者の名前や個別識別番号などに意味はないので書かない。

 これはあくまでぼくのための記録だ。


 フローリングの床、暖色系の照明、造花の活けてある花瓶、苔色のソファ。


 優しげな景観をしている犯罪被害者支援センターで、ぼくは似つかわしくない言葉を耳にする。


「あなた、絶対に童貞でしょ」

 正面に堂々と座るクライアントに甲高い声で宣言されてしまい、目を丸くした。

 とにかく、煙草を箱から出して火をつけようとする彼女を、片手を上げてやんわりと制する。


「すみませんが、カウンセリングルーム内は禁煙です。センター内に喫煙室がありますので面談後にそちらで」


「ふん。あたしにあっちで吸えと注意だなんて随分と偉いのね、センセイ?」


 渋々鞄にしまいこんで、彼女は覗き込むようにこちらを見る。わざと見るわけではないが、胸元が大きく開いた服なので自然と谷間が浮き出て見える。ぼくはふとホットココアにマシュマロをふたつ浮かべたドリンクを思い出した。


「ぼくは先生ではありませんよ。カウンセラーです」


「資格持ってんならよ、偉いんだからさ。ま、本当に賢い人はセンセイなんて言っても喜ばないもんよね、先生と言われて喜ぶ馬鹿でなし、ですっけ?」


 随分と口が回る女性だなと思いながら、それも当然だと思い直す。

 彼女は、詳しくは知らないが夜の街で客商売をしているのだから。


「で、どうなのよ実際。ドーテイ?」

 じっとこちらを見つめる目には、好奇とも好意とも取れない奇妙な光が宿っている。

 頰に置いた爪はネイルが施され、ラインストーンが煌めいている。


「すみませんが、ぼく個人に関する質問にはお答えできません」


 先ほどの話題は逸らし切れていなかったようだが、ぼくにはこう言って言い逃れる権利と義務がある。

 それに、こういう女性にわざわざ自己開示してもろくなことにならないと、経験で知っている。


「何よケチ。いいわよ、見ればわかるもの。あなたのこっちを見る目つきでわかるの、はしたない下等な女って思ってるんでしょ、金持ってそうな男にホイホイついていきそうだとか思ってるんでしょ。そういうふうに見るのは女を知らないからよ。あなたは絶対に童貞よ」


 言われた後から、ぼくの彼女への印象は図星だった気がして、すこしバツが悪い思いがした。

 彼女は顔を逸らし、どこか寂しげな横顔を見せている。構ってもらえないインコもこんな風だよな、などとくだらないことをつい考えた。


「うーん、ぼくはあなたをそのように思っていませんよ。さて……最近はどうですか?」


 本題に入れる前の前置きが長すぎたかと反省しつつ、水を向ける。


「どうもこうも、ないわよ。全部おしまい。自己破産申請は着々と進んでいるわ」


 彼女の話を纏めると、どうやら男に騙され多額の借金を負わされ、払いきれず自己破産となったようだった。

 こうして被害者支援センターに繋がっているが、金銭の補填などが十分にあるわけではない。

 彼女は事情を話し終えるまで、一度もうつ向かなかった。


 そして、話し疲れたのか、深くため息をついてから小さな声で語り出す。低くて暖かい、本来の声で。


「……あたしさ、一つ自慢してることがあったの。ほら、あたしってかなり美人じゃない?」


 多少面食らいつつ、話を進めるべく頷く。

 正直好みではないが、ある女優に似ているタイプの顔だなと思ってはいた。


「……綺麗になさっていて、多くの人が好意的に見るだろうなと思います」


「婉曲ね。まあいいわ、それでね、美人だから今晩どうとか、お客さんから数え切れないほど言われたけど、あたしは本当に好きな人以外とは絶対に寝なかったの。いくら積まれても受け取らなかった」


「なるほど」


 この手の話は傾聴に限るので、ぼくはほとんど沈黙を守り、言外に続きを促す。


「彼はね、お客さんでもなんでもない、ただのご近所さんだったの。あたしは昔からずっと親にあんたは水商売しかできないよって言われ続けていたけど、それでもお客さんとは絶対付き合わない、必ず昼の世界しか知らないような素朴な人がいいって話してた」


「彼は素朴ないい人だったのですか」


「とても。初心すぎるほどに。彼ったら、あなた絶対童貞よねって言ったら顔真っ赤にして、どうしてわかるの、って……」


 騙された男を思い出して少し口角が上がるのを見る限り、まだ情は残っているのかもしれない。


「どれほど交際していたのですか」


「二年くらいかしら。彼はあたしの理想にほぼぴったりの性格や容姿で、とてもいい人だったけど、そういえば色々と不思議なことがあったわ」


 彼女は腕を組み考え込むようなポーズをする。わざとではないのだろうが、自身のプロポーションを見せつけるかのように動き方が艶かしく、悪く言えばわざとらしい、と感じながらも、ぼくは頷き続ける。


「一緒に買い物に出かけた時、彼とはぐれてしまって捜した事があったんだけど、運悪く携帯の充電が切れてしまって、仕方なく周りの人に彼の特徴を伝えて探したのよ」


「ほう……?」


「彼は赤いジャケットを好んで着ていたから、赤いジャケットでこれくらいの年齢と体格の男性を見ませんでしたか、って…。でも途中で、彼は今日は紺のパーカーだった、って思い出したの」


「それで、彼には会えましたか」


「やっと会えたんだけど、彼は赤いジャケットを着ていたのよ。……新品のだけど」


「えっ」


「それでびっくりして、今日は紺のパーカーだったのに、どうして赤いジャケットに?って聞いたら、前着ていたジャケットが古くなってきたのを気にして考えていたら、たまたまいいジャケットを見つけて、あたしを探すのも忘れて買ってたって言うのよ。気に入ったからってタグまで切ってもらってすぐ着てるのよ!」


 当時の感情が蘇ったように女性は眉を吊り上げる。はぐれていた上に相談もなしに買い物されていたら、流石に気分は良くないだろう。


「それは、随分と驚かれたでしょう。大変でしたね」


「まあ、その時は怒ったわよね。あなたはあたしの知らないところであたしがびっくりするくらい勝手に動く所があるわよね、って言ってやったっけ。……それも、今思えば彼のせいじゃなかったかもしれないんだけど」


「と、いいますと」


 ここまで来て、彼女の表情が一気に暗くなる。罪の告白をするかのような、厳かで静かな表情だ。


「それより後に、些細なことがきっかけで喧嘩したの。その時にあたしがカッとなって、あなたはどうせわたしのことなんかどうでもいいに決まってる、あたしのことを都合のいい財布かなんかだと思ってるんでしょ!って言ってしまって」


「思ってもないことを、強く言ってしまったんですね」


「そうしたら彼、とても傷付いた顔をして……彼はその時フリーランスの仕事がうまく行っていなくて、あたしを頼ることもままあったから、将来への不安が募っていたせいもあるけど、絶対に言うべきじゃなかった」


「強く後悔なさったのですね」


「すぐに謝って、撤回した。その時はそれで収まったと思ってた。でも遅かった」


 彼女は記憶を手繰るように天井を見上げる。話はぽんぽんと進む。


「彼はまたニコニコして、あたしと暮らしてくれた。仕事もまた波に乗って、新しい事業への参加も積極的に考えてた」


 そこで、先ほどの大まかに纏めて聞いた話と繋がった。


「それで、新事業の資金繰りのための保証人をお願いされたんですね?」


「そう。あたしの収入だとかなりきつい額だけど、上手いこと通すからって、頼み込まれた。彼は親を亡くしてたから頼れる人もいないのわかってたし、絶対信じてるからね、って判子を押したけど……」


 その後の彼女は前述した通りだ。

 彼は忽然と消えてしまい、彼女は借金を負わされ、自己破産へと至った。


「机の上に『知ってる?君が一度口に出した言葉は消えないんだよ』とだけ書き置きがあった。あたしってバカよね」


「……お辛かったですね。でも、あまり自分を責めたり決めつけない方がいいですよ」


 思い込みの激しさについては後々ゆっくり気づいてもらおう、と思いながら時間なので話を畳もうとしていると、彼女は微笑みながらさらっと言い放った。


「優しいわね。惚れそうよ。彼が帰ってこないなら交際を申し込みたかったわ」


 ぼくは本当に目を丸くした。もちろん「惚れそう」のほうではない。


「……帰ってくるのですか?あなたの元に?」


「ええそうよ、彼は必ず帰ってくる。彼はわたしの理想の性格だもの。二人でいることをやめられない性格なのよ。わたしはそう思っているし、彼もそう、わたしに許してもらえると知っている」


「……すみません、時間です」


「いいから、最後まで話させてよ。わたしを思い込みが激しくて馬鹿で一途で救えないお人好しだと思った?でもわたしはのこのこ帰ってくる彼を迎え入れる。やり直して、愛して、必ず幸せになる」


 彼女は語り続ける。時間は超過しそうだが止められない。彼女が「このことは必ず今話しきってしまう」と決めているからだろうか。そのはずだ。


「父親はいなくて、母親にずっと、あんたはいつか男にひどい目にあわされるって言い続けられていたの、自分がそうだったから同じはずだって。でももう、一度酷い目に遭った、。次もなんてことは絶対にないわ」


「あなたを破産させた人を、許せるのですか、愛せるのですか」


 そんなの、慈母どころかエゴの塊だ。

 喉まで出かかって、飲み込む。


「ええ。彼はわたしの理想の彼氏。それもこれも計算のうちだなんて言うほどあたしは賢くないけど、人生の帳尻は合わせられるのよ」


 カウンセリングに来ていてここまで自信たっぷりな人は初めてだったので、ぼくは動揺してしまう。


「でもね、やっぱり、こんなのっておかしいなって思ってたのよ。だから普通の、あたしを、夜の世界を、知りすぎていない人と話したかった。酷い目に遭ったことや、自己破産手続きの大変さを愚痴みたいにこぼしてみたかった」


「……すみません、今日はもう時間です。次回は来週ですね、来られない時はセンターを通してご連絡ください。お待ちしています。手続きは根気が要るでしょうが、頑張ってくださいね」


「あ、そうね。つい話し込んじゃった。ありがとう、また気が向いたら来るわ」


 彼女は意外なほどさっさと荷物を持ちソファを立つ。

 しかしやはり、去り際に思い直したように踵を返して、頰に手を当て話し出した。


「そうそう、さっき散々童貞童貞って言っちゃったけど、あなたって別に全然初心じゃあなくて、どこか影があるわよね。うん、絶対そうよ。あなたを愛する人たちが必ずいるのに、あなたは何が怖くて応えられないのかしら?一体、何が邪魔してるのかしらね?」


 マスカラで補強した長いまつ毛の奥の眼光が、彼女の異常な性質をちらつかせる。彼女の強い思い込みで、現実さえ捻じ曲げているように錯覚させられる。さながら魔女のようだ。

……本当に錯覚かどうかも、ぼくに知覚できている自信はない。


「……すみませんが、ぼく個人に関する質問にはお答えできません」


 定型文は、時に人を傷つけると知りながら、ぼくは他に言葉を選べなかった。


「そ。じゃあまた、近いうちに、先生」


 パタンとドアが閉じるまで、ぼくはその場から動けなかった。


 早く部屋を出て、喫煙室にでもどこにでも行ってくれ、と願っていた。




 記録用紙を纏め、退勤し帰宅すると、家の前にまた花が一輪置いてあった。


 それを拾い上げ、花瓶に挿し、枯れてしまった前の花を捨てた。




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