多分だが、この作品には「ディストピア」という言葉がよく似合う。ディストピアという言葉の正確な意味すらも知らないが、ただ直感的にそう思ったのだ。
人はとことん内側しか見ない生き物だ、外の現実から目を背けてまで内側にこもりしばらくすると外のことなんか忘れてしまう。それをディストピアと言わずになんと言えるだろうか。
もし、本作の主人公の行動を物語の誰かが見てしまえばそれは狂気の沙汰ではないと真っ向から非難されるかもしれない。しかし、だ。それは内側にこもり続け、外の世界など微塵も興味なさげにただ怠惰に生きていた惰性たる人間の言うことだ。それは端的にいえば「逃げ」である。
主人公は夏が嫌いだった。夏が嫌いで、それでも外の世界を見たいがためにぶち壊した。かつての人間が作ってしまった内側の世界をぶち壊して、儚げに咲き散る浄火を浴びにいったのだろう。
他の人も語っているが、読後はまさしく「甘い爆弾」を飲まされている気分だった。まるで時限爆弾を仕掛けられた気分だ。
それを爆発させるかどうか、飲まされた爆弾を四肢もろとも爆発四散させるかどうかは、私たちにかかっているのだろう。
水槽の中の脳という仮説、もとい思考実験があります。
人間の脳を取りだし、培養液に浮かべる。電極を通じて脳に様々な映像や知識の電気信号を送り続ければ、脳は通常と変わらない活動をし、意識のなかでは現実を暮らし、様々な経験をしているように錯覚する。この仮説を転じれば、実は人類の誰もが信じて疑わない《現実》というものも水槽の中の脳が受信しているだけの幻覚にすぎないのではないか。
それが、水槽の中の脳の概要です。
こちらの小説を読んでいて、ふとそのような仮説が頭によぎりました。
多くは語りません。とにかく読んで、あまい爆弾を呑んでしまったような、読後感を是非とも味わってください。