雨上がりの虹のように

鋼野タケシ

雨上がりの虹のように



 1


 ぼくの名前は雨野 恵美夫で、略すと雨男になる。

 学生時代は名前のことをよくからかわれた。

 雨男なんて迷信。ぼくは信じていない。

 信じていないけど、彼女は信じている。


「今日のライブ、観に行くよ」

 美波にメールを送った。返事は素っ気ない。

「来るな。エミオがいると雨が降るから」

 美波には断られたけど、ぼくはライブを観に行った。

 今日の天気予報は一日中、晴れ。

 でも、きっと今夜は雨が降る。


 新宿にある小さなライブハウスで、お客さんは数十人。    

 ドリンクチケットで引き換えたスミノフを飲みながら、ライブハウスの端で彼女の歌を聞く。

 狭いステージの上で、小さな身体から全力を絞り出すように彼女は歌っていた。

 真っ赤に染めた派手な髪の毛。口紅もアイシャドウも赤。耳に開けたピアスも赤。

 彼女がそんな恰好をするようになったのは十四歳の時だった。中二病だと思っていたけど、あれから十五年が経った今も彼女のスタイルは変わらない。

 今も、同じスタイルでステージの上で、歌っている。

 最後の演奏が終わった。


 熱心に拍手する数人の客と、お愛想で拍手をする数人の客。それから興味なさそうに、酒を飲みながらステージを観ている客。

 バンドのリーダーを務めるドラムの男が、最後の挨拶をしている。

 音楽性の違い云々。これからは別々の道を追求する等々。色んなバンドが口にする、ありふれた解散の理由。

 彼女は数十人のお客を前に仏頂面を浮かべている。誰の方も見ようとしない。誰とも目を合わせずうつむいている。汗が一筋、彼女の火照った頬を流れた。

 アンコールも何もない。それで、彼女の最後のライブは終わった。


 ぼくはライブハウスの分厚い扉を押し開けて外へ出た。

 空を見上げる。

 土砂降りの雨が降っていた。


 2


 東京の空はどうにも、遠い。

 離れていても「同じ空」だと多くの歌手が歌うけど、本当だろうか。

 生まれ育った故郷には高い建物はなかった。鉄塔と電線、それから電線にとまるたくさんのカラスだけが青い空を遮っていた。

 あの頃の空は遥か高みに、だけど見上げればいつも頭上にあった。分厚い雨雲は空を覆い尽くしていたし、雨は降り注ぐ天の恵みだった。

 東京の雨は、どこから降っているのかわからない。

 見上げた視界は高いビルに囲まれて、縮こまった空は薄い灰色に煙っている。雨の滴は空気に混じり、どこからともなく地上に落ちていく。

 東京の空は、やっぱり遠い。


「うわ、雨じゃん。サイアク」

「傘もってねーよ」

 ライブハウスを出る人たちが、空を見上げて溜息を吐く。覚悟を決めて走り出す人、ライブハウスに戻っていく人。ぼくはライブハウスを出て、スチールの非常階段に隠れるようにして雨宿りをした。

 ライブハウスの扉から、ギターケースを抱えた赤毛の彼女が出て来る。

 美波は空を、見もしなかった。うつむいたまま傘も差さず雨の中を歩く。

 彼女も同じ非常階段の下に来た。


「雨、いいの? ギター濡れたらまずいんじゃない?」

 彼女は返事をしない。ポケットからタバコのソフトケースを取り出すと、真っ赤な口紅を引いた唇でくわえる。

 カチンと音を鳴らして、赤いジッポのフタを押し開け――二十歳の誕生日にぼくが上げたものだ――何度も火を付けようとするが、ガスが切れているのか火花が散るばかりだった。

 彼女の真っ赤な前髪から、雨のしずくがポタリと落ちる。


「この天気がぼくのせいだとか思ってるんだろ? 昔から言ってるけど天気が崩れるのは気象の問題であって、ぼくがどこにいるかは何の関係もないよ。雨男なんて迷信だからね」

「うるさい」

「今日のライブ、良かったと思うよ。二番目の曲とか。なんて言うか……まあ、良かったよ」

「テキトーなこと言ってんじゃねえよ」

「本心だって。普段はロックとか聞かないから、他と比べての良し悪しはわからないけど」

「ロックじゃない。ヘヴィメタルだ。なんでも一緒にすんな」

「そっか。そうだったね。まあなんでも一緒だよ。音楽好きを自称する連中はすぐにあのバンドはロックじゃないラウドロックだとか、ヘヴィメタルじゃないスラッシュメタルだ、とか、妙にカテゴリにこだわるよね。美波のジャンルがメタルだろうと歌謡曲だろうと興味ないよ。ぼくが好きなのは美波の歌なんだから」

「お前のそういうところ、ホントにムカつく」

「好意を隠さないところ?」

「人を小馬鹿にするところだよ。あと、人の話を聞かねぇところ。あたしは来るなって言ったはずだ」

「ぼくは行かないなんて言わなかっただろ?」

「蹴飛ばすぞ、クソ」

 彼女は火の点かなかったタバコを握りつぶし、携帯灰皿に突っ込む。


「バンドを解散するって聞いたからさ。美波のファンとしては何としても行かないと」

「……どうでもいいんだよ。バンドの解散なんてよくある話だろ」

「泣きそうな顔して言っても、説得力がないよ」

「うるせえな。黙ってろ。蹴飛ばされてえのか、クソ」

「そうやって汚い言葉で本心を隠すのは、美波の悪いクセだな」

「知った風な口を効くんじゃねーよ」

「知った仲だからね、多少は」

「黙れ、クソ野郎」

 ビルに囲まれた薄汚い路地裏に、ざあざあと雨が降り続く。目の前の道路をタクシーが通り抜け、水たまりをぱしゃりと撥ねた。

 隣に立つ美波は、赤い前髪の下でムスっとしている。

 真っ赤な髪に赤い口紅。仏頂面もいつも通り。彼女は十代の頃から少しも変わっていない。自分のスタイルを貫いている。

 表情だけが、あの頃よりも暗い。


「バンド、解散しちゃったけど。音楽は続けるの?」

「こんな時に聞くんじゃねーよ。終わったばっかだぞ」

「だって、次はいつ会えるかわからないだろ」

「あたしが音楽続けようがどうしようが……エミオには関係ない」

 灰色に煙る空を、美波は忌々しげに睨んでいる。

「どうでもいいんだよ、クソ」

 口汚い言葉で本心を隠すのは、彼女の悪いクセだ。


 3


 引っ込み思案で口下手で、真面目で堅物の女の子。それが昔の美波だった。

 学校では成績優秀、クラス委員長や生徒会なんかにも所属して、ぼくのようなお調子者の男子にからかわれて怒るタイプの女の子。

 ところがある日、美波は髪の毛を真っ赤に染めて登校して来た。


 十四歳の、夏休みが明けた登校初日。

 急に奇抜なファッションに目覚めて「個性的」を主張する無個性な連中はそれまでにも大勢いたが、美波はそういうタイプではなかった。

 地味で目立たない生徒だった美波の急変に、クラス中が騒然となった。教師たちも彼女が「グレた」ことに慌てていた。


「宮野のヤツ、なにがあったんだ」

 幼馴染のぼくから事情を聞き出そうとするが、ぼくだって知らない。

 だから美波が髪の毛を真っ赤にしたその日、ぼくは彼女に直接たずねた。

「どうしてそんな色にしたの? ゼンゼン似合ってないけど」

 彼女は真っ赤な髪の毛と同じくらい、頬を赤く染めていた。たぶん、怒ったのだと思う。

「これはあたしのタマシイの色だから」

「へえ。美波の魂はまるで赤ピーマンみたいだね」

 思えば、そんなことばかり言うから嫌われたのかも知れない。


 高校生になっても、美波の赤い髪は変わらなかった。

 最初は似合っていないと思った髪の色も、すっかり見慣れてしまった。

 彼女は私服を赤と黒の二色に統一し、制服のリボンも一学年上の赤色をつけていた。中学時代の真面目な優等生が一変、高校生の美波は不良の問題児になっていた。

 その頃エレキギターを買って、軽音楽部に入ったと聞いた。

「なに歌うの? 童謡? みんなのうた?」

「うるせえ、蹴飛ばすぞ」

 彼女は口調も乱暴になっていた。強がるためにわざとやっているのを知っていたから、ぼくもますます彼女をからかった。

「いいじゃん、教えてよ」

「……あたしが歌うのはヘヴィメタルだ」

「は? なんで? 今までそんなの聞いてたっけ?」

「エミオにもCD貸してやるから、聞け」


 彼女の敬愛するヘヴィメタル・バンドのCDを借りて、一通り曲を聞いたがぼくには理解ができなかった。

 とにかく歌詞が攻撃的で、言ってることがめちゃくちゃだ。

「人間はみんな愚か者」「この世は地獄」「だから焼き尽くせ」「皆殺しにしろ」とか、とか。

 何がそんなに不満なのか、とにかくそのバンドは人類すべてへの怒りと憎しみを詰め込んで、ドラムとギターで力任せに叩き付けるような音楽だった。

 愛と希望を歌うJポップと対照的に、彼らは死と破壊を賞賛している。ぼくにはなんだか、それが不気味に思えた。

「悪いとは思わなかったけど……なんでハマったの?」

「エミオにはわからねーか」

 理解できないことを率直に言うと、彼女は不敵に微笑んで――たぶん、本人は不敵に微笑んだつもりなのだと思う。ぼくには可愛らしい笑みにしか見えなかった――答えた。

「だったら次の文化祭、あたしがステージで歌うところを見てろ」

 ピシリと、ぼくに指をつきつけて言った

「お前の魂を震わせてやる」


 その年の文化祭で、ステージで演奏する彼女を観た。

 ギターを振り回し、頭を振り回し、小さなステージで小さな身体を大きく振り回し、アンプとギターを繋ぐシールドケーブルにつまづいてすっ転んでいた。


 4


 雨の勢いは変わらない。コンクリートを叩き砕くように、獰猛に降り注いでいる。非常階段に隠れながら、ビルに囲まれた空を見上げる。

「お前が来ると雨が降るんだよ」

 呟くように美波は言った。

「ぼくのせいじゃない」

「いいやお前のせいだ。さっさと帰れ」

 ぼくは苦笑した。

「帰れって言って、ホントに帰ったら怒るじゃないか」

「うるさい」

 ぼくも彼女も大人になったのに、昔とちっとも変わらない。

 ぼくらは互いに依存している。

「雨が止むまでここにいるよ」

 しばらく、雨の音に耳を澄ませた。

 これが静かな森や湖畔で、しとしと降る雨の音を聞いているのなら美しいかも知れない。

 鉄の非常階段にぶつかって、雨の滴がガンガンとやかましくわめいている。通り過ぎる人たちの足音に話し声。絶え間なく聞こえるエンジン音。エアコンの室外機が不機嫌に唸る音。これでは気分も滅入るばかりだ。

 雨の音に混じって彼女の溜息が聞こえた。

 クセでタバコを取り出そうとする。ジッポに火が点かないのを思い出したのか、タバコのソフトケースを握りしめてポケットに戻した。


「ノドに悪いだろ? タバコ、やめればいいのに」

「……やめたくない」

「それは、どっちのことを言ってる?」

 美波は、すぐに返事をしなかった。何かを言いかけて、やめる。

 ステージ上で赤いショートカットを振り回して唄う姿とは対象的に、普段の彼女は自分の気持ちも率直に言えないほど、繊細だ。


「誰にも、言うなよ」

 美波はささやくような声で言った。

「これから言うこと。全部、秘密だからな」

「わかってる」

「エミオのおばさんにもだぞ。おばさんお喋りだから、すぐうちの親に話すし」

「言わないって」

「SNSにあげたりもするなよ」

「ぼくのツイッターはフォロワーが三人しかいないんだ。誰も見ないよ」

「それでもあげるな」

「わかったって」

 何度も念を押される。美波は迷っているようにみえた。

 彼女は想いを言葉にするのに時間が掛かる。だから感情を音楽に変えて、歌にして叫んでいるのかも知れない。

「……音がピッタリ合うんだよ、あたしたちのバンド」

 ようやく美波は重い口を開いた。


「好き嫌いとか、うまいヘタとかじゃなくて、音が合う合わないって感覚があってさ。あたしたちは完璧だった。ステージで演ってるとわかるんだ。ぜんぶの音が完璧になる瞬間が。だからいつも、ステージに立つのは最高に楽しかった……でも、売れないバンドで人気もないし、流行に乗る感じでもないし……このまま続けて意味があるのかって、うるさいこと言うヤツがたくさんいるんだよ」

 うるさいこと言うヤツには、彼女の両親も含まれているのだろう。美波の父も母も、普通や平凡を美徳と考えるような人物だ。だから破天荒な振る舞いを繰り返す美波とは、長いこと冷戦状態が続いている。

「気にするのは違うって思うし、あたしの人生だから好きにさせろって思うじゃん。でも、周りにも音楽を辞めて定職についたり、結婚して子供産んだりとか、そういうことが増えて来てさ。あたしはまだ29歳だけど、他のメンバーは30を超えたし。考えちゃうんだ。メンバーのみんな、そう。このまま続けて本当に意味があるのかとか、もしかしたら間違ってるのはあたしたちじゃないか、とかさ。少しずつやる気がなくなってるっていうか……負け犬の気持ちみたいのを、いつも漂わせてさ。それで次第にイライラするようになって、ケンカも増えて、あれだけ完璧だった音も合わなくなって、もう戻らなかった」

 うつむく彼女の表情は見えない。真っ赤な前髪に、瞳が隠されている。

「……これからどうしたらいいのか、わからないんだ」

 美波の声はあまりにも小さくて、雨の音に紛れて聞こえた。


 まぶたをこすったのは、雨の滴を拭うためだろうか。

 口汚い言葉も男のような喋り方も、彼女が戦うためにしている武装だ。

 美波は魂の色を全身で表現し、歌い、叫び続ける。それは時に心ない連中の批判や冷笑の的になる。

 そんな連中から自分を守るための武装。どんな批判も失笑も跳ね除けるための盾であり、銃だ。

 武装しなければならないのは、彼女が脆く傷付きやすいから。

 生身の彼女は、とても弱い。


「約束のこと、覚えてる?」

 美波に尋ねた。

「……約束?」

 彼女はきょとんとしている。

 ぼくは苦笑した。彼女ならきっと忘れているだろうと思った。


 5


 高校の文化祭。美波はステージでの演奏が終わると、すぐにどこかへ消えた。

 大勢の生徒の前で、軽音楽部の先輩たちの前で大恥をかいたのが耐えられなかったのだろう。

 誰も近づかない校舎の最上階、屋上に繋がる階段に、美波はひとりで座り込んでいた。

「案の定というか予想通りというか……」

 薄暗く、じめじめして、空気が埃っぽい。ぼくはむせかえった。

「……なんでここがわかったんだよ」

 せき込むぼくに、美波が言う。

「わかりやすいんだよ、美波は」

 イヤなことや辛いことがあると、美波は誰も近づかないような場所を探して逃げる。

 ただし、それは誰にも絶対にわからない場所じゃない。辛うじて誰か、美波を心配して追って来る誰か(つまり、ぼくだけど)が追い付ける場所にいる。

 面倒くさいのだ、彼女は。


「まさか一発で居場所が当たるとは思わなかったけど。次はもう少しひねった方がいいんじゃない?」

「知った風な口を効くな」

「知った仲だからね、多少は」

 彼女は階段に座り込んだまま、うつむいている。

 締め切った窓の外では、ざあざあと雨が降っていた。

「すごい雨だな。あーあ、帰りまでには止むと思ったのに」

「エミオのせいだ」

「雨男だって言うんだろ? 関係ないよ、そんなの。まあ、たしかにぼくは雨に遭遇する確率が高いけどさ」

「……あたしの歌、どうだった」

「転んだ時にパンツ見えてたよ。他は覚えてないな」

「ふざけんな、バカ」

「まあ、良かったと思う。感動して泣きそう」

「テキトーに答えてるだろ」

「いや、ホントだって」

 グス、と洟をすする音が聞こえた。

 気付かないフリをした。美波の方を見なかった。

 しばらくはそうして、雨に耳を傾けていた。雨の音がカーテンになって、学校のざわめきがどこか遠くから聞こえる。真っ暗な空と、降り続く雨を見つめる。

 急に、彼女は立ち上がった。


 美波はぼくの真横を通り抜けて、階段を駆け下りる。

 埃まじりの空気を切り裂くように、ぼくに向かってピシリと人差し指をつきつけた。

「お前の魂を震わせてやる」

 文化祭の前に言われたのと、同じ言葉。

「エミオ、お前にわからせてやる。あたしの音楽で、お前の魂を震わせてやる! だから逃げるなよ。次のライブも絶対に観に来い。その次も、あたしがプロになったら武道館にも東京ドームにも観に来い!」

 あの時、彼女がどんな気持ちで言ったのかわからない。文化祭での失敗が悔しくて、自らを鼓舞するつもりで言ったのか。ただの負け惜しみか。

「わかった、約束するよ」

 少なくともぼくの目には、彼女は本気で言っているように見えた。

「次も観に行く。その次も。楽しみだな。今のうちにサイン貰っとこうかな」

「バカにしやがって!」

 彼女は悔しそうに吐き捨てて、逃げるように階段を駆け下りた。


 ひとりきりになると、雨の音がやけに大きく聞こえる。

 見上げた空は真っ暗で、しばらく雨は止みそうにない。

「自分勝手でわがままで、面倒くさいやつだな」

 誰もいなくなった踊り場で、湿った空気につぶやいた。 


 6


「ぼくの魂を震わせてくれるんじゃなかったの?」

「……覚えてない、そんな約束」

 彼女の声は弱々しかった。

「言ったかも知れないけど、何もわかってなかった子供の頃だろ。まさかそんな約束を律儀に守って、あたしのライブを観に来てたのか?」

「ぼくって律儀な男だからね。それに、美波が有名になって武道館とかでライブするようになったら自慢できるじゃん。ぼくはあのバンド有名になる前から、美波が文化祭で転んで泣いてた頃から知ってたよって」

「ふざけんな、バカ」

「まあ、続けるにしてもやめるにしても、好きにしたらいいんじゃない? でも、美波がまたどこかでライブをするならぼくは観に行くよ。約束は守る男だからね」

「……来るな。お前が来ると雨が降るんだ」

「迷信だって言ってるだろ? 雨男なんて」

 美波はわかっていない。

 それともわかっていて、わざと言っているのだろうか。

 ぼくがいると雨が降るんじゃない。

 雨が降りそうになると、美波はぼくを呼ぶんだ。


「ひとりでやるのもいいんじゃない? エレキじゃなくフォークギターにしてさ。それならひとりで好きなだけできるじゃん」

「うるせえ。あたしはヘヴィメタル以外、歌う気はないんだ」

「なんで? こだわる必要ある?」

 彼女はまた黙った。

 ぼくも黙って、彼女の話の続きを待つ。

 間が必要だ。彼女が想いを言葉にするには、時間が掛かる。

 二人の沈黙を通り雨と、都会の喧騒だけが繋いでいる。

「……あたしが昔、真面目だったのは覚えてるだろ」

「ああ、うん。中学までだね。まだ髪の毛が黒かった頃」

 美波がうなずく。

「あの頃……毎日がつらかったんだよ」

「つらかった?」

「先生の言うことを聞いて、お父さんやお母さんの言うことを聞いて、クラスの友達と仲良くして……いわゆる『良い子』でいなきゃダメなんだって思ってた。でも、本当はつらかった。人と合わせるのは苦手だし、みんな仲良くだとか、クラスは仲間だとか……バカバカしいだろ? 親の言うことも教師の言うことも、クラスの連中が言ってることもみんな間違ってると思ってた。でも、それは自分が悪い子だからだとも思ってた。だからみんなと同じように、真面目に生きなきゃいけないって」

 真面目な優等生だった頃の彼女は、とてもそんな風には見えなかった。

 本当にどこにでもいる、普通の『良い子』だった。

「でも中学の夏休みの時に、テレビであるバンドが出てるのを見たんだ。イロモノ扱いの酷い番組だったけど……その歌はすごい攻撃的で。人間はみんな一人の例外もなく愚か者だとか、社会は不平等で、不完全で、もうどうしようもないから破壊しなくちゃならないとか、そんな歌なんだ。でも、それを聞いてあたしは感動した」

 どうしてヘヴィメタルなのか、どうして攻撃的で、野蛮で、暴力的な歌詞を好むのか。彼女がずっと秘めていたルーツに触れている。


「不真面目で、みんなに合わせることがイヤで『良い子』になれなくても、人間だから仕方ないんだよ。人間はみんな愚かなんだから、あたしが愚かだって当たり前なんだ。この世界が悪い人間が悪いって歌うのは、あたしは悪くないって認めてくれるのと同じ。この世は不完全で世界は地獄。悪いのは人間のすべてだからこんな世界は焼き尽くしてしまえって、弱くて口をつぐむしかなかったあたしの代わりに叫んでくれる。その歌を聞いて、救われた気がした。エミオにはわからないだろうけど」

 ぼくは普通の『良い子』として、当たり前に振る舞って来た。教師や親にも表向きは逆らわず、平々凡々と生きて来た。

 彼女の言う通り。ぼくには彼女の苦しみがわからない。


「社会への怒りや破壊を肯定して賞賛する歌は、弱い人たちの怒りや悲しみを背負ってるんだ。弱いままで、醜いままで生きてても良いって、叫んでる。だから、あたしもそうしようって思った。もう黙ってるのはイヤだ。叫ぶんだって」

 夏休みが明けたあの日、美波は髪の毛を真っ赤に染めて登校して来た。

 あれは彼女の決意表明、叫び声なのだろう。

 もう周りに同調はしない、ありのままの自分を貫くという意志の。

「……ぼくにはわからないな」

「知ってる。だからエミオには、あたしの歌が必要ない。いくら叫んでも、お前には届かないんだろ」

 本当にそう思っているのだろうか。

 美波はわかっていない。それともわかっていて、わざと言っているのか。

「美波の歌はぼくに必要ないかも知れない。けど、ぼくには美波が必要だ」


 ぴくりと、彼女の唇が揺れた。だけどぼくの方を見ようとしない。

「美波がどんな結論を出しても自由だけど、迷ってるなら音楽はやめて、ぼくと結婚しよう。音楽なんて続けなくていいじゃないか。実は今日のために指輪も用意してる……って言ったら、どうする? 音楽をやめてぼくと結婚する?」

「するわけ、ねーだろ」

 美波は吐き捨てるように言った。

「バカにすんな。誰も音楽を辞めるなんて、言ってない。これからどうするか、ちょっと迷っただけだ。ちょっと、弱気になっただけだ。バカにすんな!」

「だよね」

「あたしは音楽に人生を捧げてるんだ」

「知ってるよ」

 彼女にとって音楽は一時の気まぐれや青春の通過点ではなく、一生つづく本物だ。

 誰が何を言おうと関係ない。魚が泳ぐことは止められないし、鳥が飛ぶことも止められない。美波にとって音楽は本能で、息をするのと同じこと。

 高い山に登って息苦しくなったからって、呼吸を諦める人はいない。

 たとえどんなに苦しくても、あがき続けるだろう。

 最後の最後まで。


「あたしは誰とも結婚なんて、する気ない。だから一応、言っとくけど、相手がエミオじゃなかったとしても断ってるからな」

「なに? どういうこと?」

「だから……気にするなって言ってんだよ。あたしにフラれても」

「え? 結婚の話? 冗談に決まってるじゃん。美波みたいな面倒くさい女の子とは一緒に暮らせないよ」

 雨に濡れて蒼白だった彼女の顔に、朱が差した。

「バカにしやがって!」

 怒り、非常階段の下から飛び出した。

 美波は――もううつむいていなかった。世をすねて世界を睨みつけるようだった瞳で、曇天の空を見上げている。

 ぐっしょりと濡れた赤い髪。水を吸ったブラウスに、冷え切った彼女の細い身体が透けて見える。

 ぼくも空を見上げた。ビルに囲まれた、四角い、醜い空を。

「雨、上がったね」

 いつの間にか、叩き付けるような雨は止んでいる。


 美波は弱い。

 彼女の繊細な心には、時々どうしようもなく雨が降る。

 冷たい雨に打たれてうずくまり、逃げ出すこともできず、傘を差し出されるのを待つ。

 ぼくがいると雨が降るんじゃない。

 雨が降りそうな心模様になると、美波はぼくに助けを求める。

 心が曇って、雨が降りそうな時。弱い姿をさらしてしまいそうになる時、彼女はぼくを呼ぶ。そうしてぼくの差し出す傘の下で、ほんの少しだけ雨宿りをする。

 優しい言葉も抱擁も、彼女は何も求めていない。必要なのは、ただ雨が通り過ぎるのを待つための傘だ。

 だからぼくも軽口を叩く。深刻に悩む美波の気持ちに気付かないフリをして。彼女の背負う重荷にこれ以上、何も負荷をかけないように。

 美波は苛立ち、弱音を吐く。長い時間は必要ない。どれだけ土砂降りだろうと、彼女の心に降る雨は必ず止む。

 美波はもろく、弱く、そして誰よりも強い。

 冷たい雨に何度うたれようと、立ち上がる強さを彼女は持っている。


 わがままで自分勝手で、人の都合なんてお構いなしのどうしようもない彼女。

 彼女は雨上がりの空を睨み、言った。

「音楽、やめねーからな。諦めてたまるか。だから絶対、次のライブも観に来い」

 細い腕で、白い指で、ピシリとぼくを指さした。

「お前の魂を震わせてやる!」

 今は誰にも届かない言葉を、捨て台詞のように叫ぶ。

 ぼくの返事も待たず彼女は走り出した。真っ赤な髪の毛が揺れている。水たまりを気にもせず、ぱしゃぱしゃと水を撥ねながら、力強いストライドで走る。

 彼女の背中を、ぼくは見送った。


「ホント、自分勝手なやつだよな」

 雨が止めばぼくの役目は終わりだ。美波は差し伸べられた手を払いのけ、慰めの言葉に噛み付き、立ち上がって走り出す。脇目もふらずに突き進んでいく。それこそ弾丸のように。

 そしてまた、壁にぶつかり傷ついて、雨が降りそうになればぼくを呼びつける。それから自分勝手に言うのだろう。お前が雨男だから、雨が降るんだと。

 それでも彼女が望むなら、ぼくは雨男でもいい。

 美波の歌い、叫ぶ姿。傷の痛みも苦しみもすべて歌に変える魂は、雨上がりの虹のように美しい。

「自分勝手でわがままで、面倒くさいんだよ。美波は」

 美波の後ろ姿が見えなくなってから、呟いた。

 そんな彼女のことが、ぼくは好きなんだ。

 たぶんあの頃から、ずっと。


【了】

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