第5話 雲路をたどりて

 蒼白なベツレイの顔に浮かんだのは、蔑みと怒りだった。

「どうしてそのようなことを」

 猛る彼の目を見ながら、望帝は冷たく言い放った。

「すでに彼女とは夜を共にした。拒まなかったぞ」

 冷酷極まりないと、望帝ですら思った。しかし、ますます青ざめ震えるベツレイを見下ろしているうちに、胸の内からふつふつと憎しみの情がわき上がってくる。

 ベツレイには才能も、人望もある。美しい妻がいて、なにより彼には若さがある。他のものは、励めば望帝にも取り戻せるかもしれなかったが、若さだけはどうにもならない。それが、憎かった。

「あなたは、ご自分の力をお忘れか」

 するどいベツレイの言葉に、望帝の髭先が震えた。

「あなたの意にそぐわねば、命の保障はされない。そのような状況において、妻があなたを拒めるなど、あり得ないことではありませんか」

「いやなら断ればよいと、申したぞ」

「それでも断れぬのが、私たち下々の人間でございましょう。あなたもかつては同じ身であられたのを、お忘れか。王の命令を拒むことは、できないではないですか」

 立ち上がったベツレイの声が、鼓膜を変にゆるがせた。闇が迫る広間に、ベツレイの目が青白く浮かぶ。

「そうであったな」

 望帝は、目を細めながらも冷たく笑った。

「命令に従わぬ者、異を唱える者は、即刻処刑だ」

 言うなり、側の杖を振りあげた。ベツレイがのけ反る。王の証である黄金の杖は、真っ直ぐにベツレイの頭上へ落ちた。

 刹那、光が閃く。

 よろけたそのままの姿勢で止まったベツレイの胸元で、玉石が鋭い光を発していた。彼がこの地に流れ着いたときから身に着けていた、謂れの知れぬ玉だ。

 光は玉石を砕き、急速に広がって辺りを満たした。

 くらんだ目を腕でかばう望帝の耳に、喉からの含み笑いがきこえた。

『相変わらずよのう、そなたは』

 おかしげにくつくつと笑う声に、望帝は手当たり次第杖を振り回した。手応えはない。

『民の心を省みず、己の欲望のみを振りかざし。愚かなること、百余年まえから何一つ変わっておらぬわ』

 光に慣れた目に、影が見えた。上半身は白髪を結い上げた老女、下半身は蛇のような怪物が、のたりと立ち上がっている。喉から絞り出る声も女の顔も、かつて望帝が射抜いた先王のものだった。

「おのれ」

 歯を食いしばる望帝を、先王の声が笑う。

『さあ、返してもらおう。わが国を。わが民を』

「再びこの地を、まやかしで支配するというのか? いまや、妙薬だの神の地だの世迷い言で他国を退けることはできぬのだぞ」

『そのあたりは、あの男がよく分かっておるわ。わらわとて、玉を通じてずっと見ておったからな』

 化け物は悠然とかがむと、足元に散らばる玉石の破片を拾い上げた。

 そのひとつを、望帝にむけて掲げる。

『さあ、おぬしは本来の姿に戻るがいい。この地に、野の鳥は要らぬ』

 高く笑う化け物の姿が大きくなる。

 否。

 望帝の体が縮んでいく。小さく押し込められ、形を変えてゆく。叫び声はけたたましい鳥の声となり、化け物の力を振りほどこうと広げた腕に羽毛が生えた。

 そこには、一羽の杜宇(ホトトギス)の姿が残った。

『二度と、わが西王母の名の響くところに来るではない』

 杜宇となった望帝の肩が、意に反して持ち上がる。柔らかな羽が上下して、体が浮かんだ。

 化け物が、外を指さした。押し出されるように杜宇は羽ばたいた。

 つむじ風に押され、杜宇の体は東の野へ流される。背後からは、身をくねらせて怪物が追ってくる。動物的な本能にかられ、小鳥は無我夢中で羽を動かした。城壁を越え、河の上空を渡って荒れ地を横切った。怪物は、執拗に追ってくる。むき出した牙の間から涎を靡かせて迫る。

 杜宇は羽をふるわせた。口を開けば、耳障りな鳴き声が喉をつく。

 眼下に草原が見えてきた。月明かりに白く輝く草が、風に合わせて波打つ。ようやく、背後から化け物の気配が消えた。

 夜露を避け、茂みの中で杜宇は怒りと恥ずかしさに羽を震わせた。口を開ければ、夜の闇にけたたましく醜い声がほとばしった。それでも杜宇は鳴き続けた。喉から血が出るかのような声が、一晩中草原に響き渡った。

 東の空が白む。夜明けを待たず、杜宇は飛び上がった。重く垂れ込める雲をかいくぐり、宮を目指す。

 だが、国のほとりまで来たとたん、見えないなにかにしたたかに頭を打ちつけた。視界がゆれると、意識を失って急降下する。

 結界だった。

 怒り、杜宇は何度も飛び上がっては結界へ飛び込み、はじかれて落ちた。

 羽は抜け、口の端から血がにじんだ。それでも諦めず、力尽きて飛びあがれなくなるまで、結界に挑む。

 杜宇は気がつかなかった。

 結界にぶつかって気を失う度に、人界では数十年が過ぎていた。


 何度目に結界へ突撃したときだろうか。

 ふっと、杜宇の体は雲の中へ滑り込んだ。なんの抵抗もない。もはや、杜宇を止めるものはない。勝利の雄たけびをあげ、杜宇は一目散に宮を目指した。

 眼下にあったのは、黄金の海だった。たわわに実った稲穂が、穏やかな風に揺れている。田の間に煌めいているのは、蛇行する川の二点を結ぶ水路だ。豊かな国。人々の顔にも、満ち足りた笑顔が浮かんでいた。

 歓喜の叫びが、けたたましい鳥の声となって響き渡る。

 やがて、長く続く城壁が見えてきた。

 しかし、近づく宮の様子に、杜宇はギョッとした。あやうく羽ばたきを忘れ、重力にひかれるところだった。かつての宮は、影も形もなかった。見たこともない城が建ち、見知らぬ甲冑を身にまとった兵が闊歩していた。

 叫び、上空を旋回する小鳥めがけ、一本の矢が放たれる。宙で身を翻し難を逃れたが、地上から湧き上がる笑いに胸が悪くなった。国は、長い年月の間に様々な王の支配を受け、大きく変貌していたのだ。

 杜宇は鳴いた。喉が涸れるほどに鳴いた。

 けたたましい声に、頭の芯がしびれてきた。体は動くが、思考がぼやけてくる。元は望帝という人であった片鱗が、次第に薄れてきた。羽ばたきが弱くなり、杜宇の体は重力に引かれて落ちていく。不思議なことに、落ちていく先に雲が淡く広がっているように感じられた。

 雲の面に、淡く浮かぶ景色があった。

 荒れ狂う濁った河。雨に濡れた髪の下から己を見上げる、真っ直ぐなまなざし。細い記憶の糸はすでに、ほころび始めていた。そのまなざしの主の名も、思い出せない。しかし、後悔の念だけは強く、杜宇の心を締め付けた。

 あれは、己が最も強く求めていたものではなかったか。

 帰りたい。貧しくとも、彼と共に理想を目指していたあの場所、あの時へ。

 帰りたかった。

 最後の力を振り絞るように、杜宇は鳴いた。


 田の草取りをしていた少女が空を見上げた。

「ねえ、おかん。あの鳥は、どこに帰りたがっているの? さっきからずっと、カエレナイ、カエレナイって鳴いてるよ」

「お前には、そんなふうに聞こえるのかい?」

 額に浮かぶ労働の汗を拭いながら、母親が笑った。

「あの鳥はね、杜宇っていうんだよ。昔はこの国の王様だったのさ。国を豊かにした偉い人だったけど、我儘でね。だけど、一番信頼していた家臣にいさめられて、恥ずかしくなって鳥に姿を変えて国を出たのさ」

「へえ、そうなんだ」

「さ。さっさと草取り終えて、昼餉にしようじゃないか」

「はーい」

 空を覆った雲が割れ、ひとすじの光がそびえる峰を照らす。鳥は空を渡っていった。姿が遠く雲に溶け込んでも、カエレナイという叫びはかすかに残っていた。


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雲路をたどりて かみたか さち @kamitakasachi

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