第4話 淡い日差し

 望帝は馬を駆って水路の工事現場を見て回っていた。ベツレイが判を押したとおり、指揮を任された人夫は現場を仕切り、立派に代理を務めている。

 満足して宮へ向かう帰路、城壁内の役人が走ってきた。

「ベツレイさまのお屋敷に、賊が入ったもようです」

「妻はどうした」

「無事でございます。賊も、即刻取り押さえました。しかし、奥様はたいそう怯えておられます」

 馬を走らせベツレイの家に行くと、すでに縄をかけられた罪人が三人、雨上がりの地面に座らされていた。三人とも、旧都から使役にきていた者だった。ベツレイにより望帝と旧都のいさかいがまとまることに異を唱えていたとあって、すぐさま近衛に引きたてられていった。

 屋敷へ入ると、近所の女数人に囲まれたベツレイの妻が真っ青になって震えている。

「難儀であったな」

 声をかけると、ベツレイの妻は壊れた仕掛け人形のごとく首を縦に動かし続けた。女たちがなだめるのも、心に入らぬようだ。

 家の中は、賊に荒らされ、昼餉の支度で研いでいた米は散らばり、水に濡れた菜は籠もろとも玄関先に落ち、踏みにじられていた。藁葺きの屋根を支える柱には刃物による傷もつけられている。震え続けるベツレイの妻があわれに思え、望帝は提案した。

「家もこのような有様。一人では心もとないであろう。どうだ、しばらく宮へ来ぬか」

 役人が難色をみせた。宰相の妻とはいえ、最近にこの国へやってきた者だ。容易に、宮へ呼ぶものではない。遠回しに異議を申し立てるが、望帝は耳を貸さなかった。ベツレイの妻も、気が動転していたためだろうか。望帝の申し出に、必死の形相で頷いた。

 早速、宮から輿が運び込まれ、ベツレイの妻と、身の回りの簡単なものを宮へと運んでいった。

 賊に襲われた恐怖が去り落ち着くと、ベツレイの妻は身分にあまりある待遇にためらいを見せ始めた。宮の雑用だろうと、とにかく働きたいと申し出た。望帝はそれを許し、身の回りの雑事を行う侍女に、彼女の身を預けた。

 ベツレイの妻は、よく気がきく女だった。そして、一日の仕事を終えた望帝の強張った背や腰の筋肉をほぐす指圧の技に優れていた。それを褒めると、彼女は目を合わせぬよううつむき、小さな鈴に似た声で、

「工事に疲れた皆の体をほぐしているうちに、覚えたのでしょう。けれど、河の傍におられる、口の端に黒子のあるお方のほうが、わたくしよりもずっとお上手です」

と謙遜した。望帝の目に、ベツレイの妻が愛らしく映った。

 そもそも、望帝は愛情があって妻を迎えたのではない。この国の貴族階級に食い込もうと模索している時期に、己の理想に同調した一族の娘を娶っただけだ。貴族の娘であれば誰でもよかった。

 ある時は、ベツレイの妻に歌を所望した。水路工事の合間に、彼女が歌っているのを聞いたことがある。荒れ地の迦陵頻伽のごとくだった。

 ベツレイの妻は、広げた扇で顔を隠した。垣間見える首もとまで真っ赤になっている。

「お耳汚しをしてしまい、申し訳ございませぬ」

「いや、もっと聞きたい。よければ、聞かせてくれぬか」

 やんわりと言えば、ベツレイの妻はようやく扇を畳み、膝の上に両手をのせた。

「わたくしの国の、古い歌でございます」

 宮の部屋に、細い声がわたる。唇をふるわせ、白い喉を見せながら、ベツレイの妻は歌った。単調な調べが繰り返される。ときに高く、ときに低く。風にさざめく草の波に吸い寄せられる幻想をみて、望帝は我に返った。

 歌は終わっていた。窓の下では、虫が鳴いている。どこか遠くで犬が吠えた。

 深い息をつき、望帝はしみじみと目の前の女を見つめた。

「そなた、名をなんと申す」

 低い問いに、ベツレイの妻は身を縮めた。そのまま衣の中へ隠れて消えてしまうかの勢いであったが、歩み寄った望帝の手に腕をとられ、唇を震わせる。

「わたくしは、卑しい身分のものでございます。名など、無きに等しいもの」

「では、新しい名をつけてやろう。これからは、翠と名乗るがいい」

 握った女の腕が、冷たくなっていく。

「勿体無いことでございます」

 雪のように顔を白くして震える女に、望帝は柔らかく笑って見せた。

「構わぬ。仮にもそなたは、わが国の宰相の妻だ。その身分にふさわしい名だ」

 ベツレイに話が及び、ようやく翠は小さく頷いた。

 旧都へ出かけたベツレイが、たびたび報告の伝令を送ってくる。旧都を牛耳る祭司たちを懐柔するのにてこずっている様子だ。帰りが遅くなると聞くたびに、翠は一回り身を細らせた。

 他国から運ばれる珍しい食べ物も、翠の気分を明るくしない。望帝は翠の身を案じ、気分転換に国の境にある平原へ出かける用意をさせた。

 そこへ、兵が駆け込んだ。

「水路作りの人夫たちが、工程についてもめている様子です。いかがなさいましょうか」

 馬にまたがろうとしていた望帝は、一瞬手を止めたが、ひらりと鞍にまたがった。

「伝令をだせ。水路については、宰相に一任しておる。奴に聞け」

 兵は一礼すると、近衛長へ知らせに走った。

 平原を散策しても、翠の表情は晴れなかった。故郷にも似た草原が広がる景色は、気を紛らわせるどころか、逆に望郷の念を起こしてしまった。望帝は数日を平原で過ごし、翠の気分が変わらないとみると宮へ引き返した。

 戻ると、大臣が駆け寄った。

「隣国の王が、この国を訪問したいと遣いをよこしております。いかがなさいましょうか」

 望帝は、苦虫を百匹噛み潰した顔になった。先王の時代、この国に伝わると噂された不老不死の薬を求めてやってきた王の末裔だ。遣いが持ってきた文書をみれば、やはり妙薬を求めている。

 妙薬など、ない。ただの、先王のまやかしにすぎない。

 しかし、断れば隣国の王は強大な武力を背景に、山岳の豊かな小国であるこの国に圧力をかけてくるだろう。灌漑に大金と労働力を注ぐ今、隣国と戦争をする余裕はない。それなりのもてなしを用意しなければならない。

「面倒なことを」

 苛立ちをこめてつぶやくと、大臣が両手をもんで同意した。

「貿易により集めた、周辺各国の料理を用意しなければなりませんな。また、この国の強さをなんらかの形で見せ付けねば、かの王はつけあがってきますゆえ」

「うむ。不老不死の薬がないとなると、なにで国力を示すか」

 腕を組んでみたが、望帝はこの懸案を考えるのも嫌だった。重い気持ちを抱えていると、無性に翠の澄み切った歌声を聴きたくなった。

「よい。この件については、宰相に聞け。伝令を出し、なにかいい案がないか聞いてみろ」

 分厚い手のひらを振ると、もの言いたげな大臣を残して翠の元へ足を運んだ。


 隣国の王への対応を協議するためベツレイが宮に戻ると連絡があったのは、その数日後だった。

 知らせを聞くなり、翠の頬に赤みがさした。顔色が見る間につややかになり、落ち着かない様子で、乱れてもいない髷を整えるように、そっと髪に指を滑らせる。上質な絹の肌着を通し感じる翠の指圧も、軽やかに舞っているようだった。

 ベツレイが都へ戻ってくる。

 待ちかねていたはずなのに、望帝の心は晴れなかった。それどころか、今触れている翠の指も声も、宮から城郭内の屋敷へ帰ってしまうと考えると、無性に落ち着かない。ましてや、ベツレイの腕の中でほほ笑むであろう翠の姿を想像すると、怒りさえ覚えた。

 望帝は、部屋の隅に控えていた別の侍女へ向かって手のひらを振った。躊躇いを見せながら、侍女は無言で一礼すると部屋を出ていく。共に下がろうとした翠の細い腕を、望帝は掴んだ。扉が閉まる。

 翠の顔は怯えに包まれた。望帝が引き寄せると、体を強張らせながらも拒まず、なされるがままに横たわる。結った髷に挿した金の飾りが、小さく鳴った。


 ベツレイが率いる一行が宮に着いた日も、相変わらず空一面を薄く雲が覆っていた。はるか青く霞む荒れ地には、掘られた水路が黒く、地上に伸びる蛇のように横たわっていた。

 行列が城壁に近付くにつれ、水路から人夫だろう、大勢駆け寄ってくる。馬を止め、語らっているのか、列はしばし動かなかった。宮の最上階に巡らされた高欄より城壁の先を臨み、望帝は苦い思いを抱えていた。

 翠と夜を共にしたことを、ベツレイに詫びたい気持ちで胸が押される。魔がさしたとはいえ、彼の信頼を裏切ってしまった後悔が、ひたひたと心に迫っていた。

 大臣を含めた協議は、何もまとまらず終わった。誰もが言下に私利私欲を忍ばせる様に、望帝は早々に協議を終わらせ、自らの部屋へこもった。

 宮の回廊にかがり火が灯される。夕闇が迫っていた。

 望帝は、ベツレイ一人を広間へ呼んだ。近衛に付き添われ参内したベツレイは、旅の疲れも見せず、旧都の様子を報告する。ベツレイを前にしても、望帝はどこか上の空で、おのれの体に残る翠の肌の湿り気を感じながら、居心地悪く座っていた。

「で、どうだ。馬鹿祭司どもの方は」

「時間がかかりましたが、心を開いてくれたようです。もちろん、こちらにとって具合の良いことばかりではありませんが、だいぶ本音を言ってくれるようになりました。そうすることによって、彼らが何を守りたいか、何なら妥協できるか、おおよそ分かってまいりました」

 頷き、望帝は髭をむしった。

「ご苦労だった。そなたは、よい聞き手だ。この様子だと、明日の協議もそなたに仕切らせても大丈夫そうだな」

 突然の言葉に、ベツレイはあわてて頭をふった。

「滅相もございませぬ。望帝さまがおられる場で、私のような者がしゃしゃりでるなど、とんでもございませぬ」

「よいのだ。そろそろ、引退も考えねばならぬところだからな」

 髭をねじる望帝の顔を穿つ勢いで、ベツレイがみつめてくる。ややあって、ベツレイが望帝の名を呼んだ。

「どうかなされましたか? 先ほど人夫たちも、もうずいぶんと貴方様をお見かけしていないと申しておりました」

「いい加減長く生き過ぎたのだ。政に関わるのも、疲れたわい」

「巷では」

 ベツレイが、ついと視線を反らせた。言いにくそうに唇を舐めていたが、意を決したように顔をあげる。

「貴方様が、政よりも女人に夢中になり、民を見捨てたと噂されております」

 的を射ているゆえに、望帝は否定もできなかった。まっすぐに見つめるベツレイの視線に耐えかね、忌々しい水鳥の彫刻をみやる。無言の望帝へ、ベツレイは続けた。

「工事現場では、みな困っております。水路が完成すれば田畑は潤うでしょうが、工事に人手をとられ、今ある田を耕す者がおりませぬ。旧都でも、地震による祭殿の修復をしたくとも、人夫として使役されているため……」

「もうよい」

 望帝は立ちあがった。全て、ベツレイの言うとおりである。しかし、それゆえに、堪えきれない気の高ぶりが理性の堤を越え、怒涛のように望帝を流していた。ベツレイへの謝罪も、渦に巻かれてどこかへ沈んでいった。

「すべて、この先はお主に任せる。この望帝に代わり、国を、政を統べればよい。その代わり、おぬしの妻を、望帝の后として召しあげる」

 はっきりと、ベツレイの顔色が変わった。

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