第3話 新たな道
唸りを上げた水は正面から流れきて大きく曲がり、堤の側面を舐めて左手へ去っていく。激しい雨に、水位は見る間に上がっていった。すでに堤の上から大人の背丈二つ分下ったところまで、水面が迫っていた。
「様子はどうだ」
雨に打たれながら望帝は、兵のひとりへ声をかけた。田の方から堤ののり面を見張っている兵たちは、緊張と寒さに青ざめた顔で頷く。
「まだ、大丈夫でございます」
河の中州を掘った土砂を積み固め、堤を去年より高く、強固にしている。背後に広がる田では、稲の先の方がかろうじて水面から頭を出していた。望帝は振り返って、ベツレイへ問いかけた。
「どうだ。もちそうか」
「分かりませぬ」
ベツレイは水の面をみつめ、そして空を仰いだ。空は一面に墨色の雲がたれこめ、雨のやむ気配がなかった。
望帝も空を仰いだ後、視線を感じてベツレイへ目を戻した。彼の日に焼けた額には、剃っていない髪が乱れ、黒々と張り付いている。
「念のため、高いところでご覧ください」
「それは、おぬしのやったことに責任が持てないということかな」
望帝が鼻で笑ってみせると、ベツレイはさらに顔をこわばらせた。
「河底は、十分にさらいました。しかし、それ以上の雨が降っております。堤のどこか一カ所でも弱れば、ここにおられる兵や役人の方もあなたさまも、一瞬にして水にのまれてしまいます」
「おぬしはどうする」
問われたベツレイは、額の髪を後ろへなでつけると、濡れて肌にはりつく貫頭衣の裾をもどかしく引きはがしながら跪いた。
「わたくしは、ここで見届けます。どのみち、治水が失敗すれば、死罪ですゆえ」
「ならぬな」
望帝は、冷ややかな笑みを作った。わざとふんぞりかえって威厳を誇張し、太い声を発した。
「おぬしへの刑は、濁流にのませる水刑ではない。王自らの手での斬首刑だ。それに、忘れたか。おぬしは一度、水死から蘇った。水で死ぬる保証がない」
「申し訳ございませぬ」
うなだれるベツレイに、望帝は手を差し伸べた。ためらうベツレイの腕をとり、立たせる。
「それに、工事が十分に進まなかったのは旧都のバカどものせいだ。おぬしを処刑するなら、同時に奴らも罰せねばならんだろう」
「それは」
「かまわぬ。それで不満を募らせるというなら、軍を出してねじ伏せるまでだ。王になった当初に行ったことを、もう一度やつらに思い出させるいい機会になる」
不適な笑みを浮かべる望帝に、ベツレイは表情を曇らせて河へ視線を戻した。うねり、渦巻き、瞬時に下へ流れる泥の水は、じわじわと堤をはいあがる。堤の上の一同は、無言で河をみつめていた。
ついにこらえきれなくなったのか、ベツレイが望帝に付き添っていた宰相へ避難を促した。すでに透き通るほど青ざめ。恐怖に支配されていた宰相は、望帝の足下にしがみつかんばかりの勢いで高台へ移動するよう訴えた。
が、望帝はがんとして動こうとしなかった。
そのとき、上流から大木が流されてきた。山の斜面に生えていたものが、この雨で根こそぎ流されたのだろう。太い根をおどろおどろしく広げ、ちょうど一同が水面をのぞき込んでいる辺りへ突進してきた。
恐怖の声があがり、足下に重い衝撃が響く。根の先を堤の土へ突きたてたまま、幹が水にひきずられる。不快な音をたてて、弱った堤が削られた。
哀れな悲鳴をあげた宰相が、とっさに両手をすりあわせて山へ叫んだ。
「お助けください、西王母さま」
とたんに、望帝の顔に鬼が宿った。泥だらけの沓が振りあげられ、ベツレイが口を開く前に宰相の体は石ころ同然、渦巻く水に落ちた。
「おやめください」
ようやくベツレイの声が耳に届いたときには、宰相の赤い帯が完全に視界から消え去っていた。
「ひどいことをなさる」
歯を食いしばったベツレイの呟きを、望帝は笑い飛ばした。
「西王母に祈るなら、生け贄が必要なのだ。旧都では、祭殿を建てるために人柱が使われておる。のう」
同意を求められた兵が、ためらいながら答えた。
「申し訳ございませぬ。私どもには、分かりかねます」
「そうか。おぬしは若いから、知らぬか」
激しくのたうちまわる河へ向きなおり、望帝は冷ややかに呟いた。
「祈ったところで、雨は止まらぬ」
そのときだった。
突然、光が目を刺した。どす黒い雲が割け一条の光が水面を照らすと当時に、急速に雨足が弱まる。
堤の上に、どよめきが走った。
縦に大きく開いた雲の切れ間は、中ほどが広く、丁度そこへ朧に太陽がはまりこんでいた。まるで、旧都の神殿で祭る西王母の額にあるという、第三の目のようであった。巨大な空の目は、ゆっくりと瞳を動かし望帝を見やる。意に反して背筋が震えた。
たちまち雲が晴れていく。泥で濁った水面すら、銀色に輝き始めた。ここかしこで、兵がおもわず跪き、神に感謝する。しかし、望帝にはもう、彼らを罰する気力が残っていなかった。
秋になった。
さらに川底を深くしたことで、その後の雨にも耐えた堤のもとには、金色の稲穂が風に波打っていた。
「おぬしの功績だ」
望帝は、足元の稲田へ巡らせたあとの眼差しを、側のベツレイへ注いだ。
「もったいない、お言葉でございます」
「褒美を取らせねばならぬな。そうだ、宰相の席が空いた。そなた、宰相として仕えるがいい」
「しかし」
うろたえ、ベツレイは河へ目を戻した。
「このたびは、危ういところで難を逃れております。それに、底をさらってもまた、すぐに土砂は流れてきて積もります。さらに安泰した治水をせねば、次の雨季には耐えられぬかもしれませぬ」
「なにかいい案があるのか」
「はい」
つと腕をあげ、ベツレイは河の流れを指さした。
「この河は、あの山をすぎた辺りからこちらへ来て、ここで大きく曲がり、下流の、あちらの今かすんでいる中州でもう一度反対の方へ曲がっておりましょう。ちょうど、椀を半分に割った断面のような形ですね。そこで、山と中州を結ぶ直線上に水路を掘ろうかと」
「なんと」
望帝は目を見張った。曇り空のもと、山も中州も青く霞んでいる。指摘された土地は取水も困難なため、低木の茂る荒れ地になっている。広大な荒れ地だ。望帝はうなった。
「しかし、そうなるとかなり長い水路となる。完成を見届けることができようか」
髭をなでつける望帝に、ベツレイは頭を垂れた。
「必ずや、水路を完成させ、豊かに実った一面の田をお目にかけます」
「うむ。新たに人夫をつける。楽しみにしておるぞ」
ふと望帝は、手を打った。
「そうだ。水路が完成した暁には、おぬしの名を水路に冠しよう」
ベツレイが、はじかれたように顔をあげた。
「そんな、滅相もない」
「謙遜する必要はあるまい。それだけの偉業、国に名を残すにふさわしい」
満足して何度もうなずく望帝に、ベツレイも頬をゆるめた。
「ありがたき幸せにございます。日夜、水路作りに励みます」
大きくうなずいた後、望帝はこそりとベツレイの耳へ口を寄せた。
「ときには、宮へ参内も忘れぬよう。どうにも、そなた以外に気楽な話し相手がなくて困る」
「かしこまりました」
兵が馬を引いてくる。ベツレイは、望帝を見送るため堤を下りた。
望帝が鞍にまたがった時だ。河下から甲高い女の声が響いた。
「ベツレイ様」
粗末な異国の服を着た若い女が、髪を振り乱しながら駆けてくる。振り返ったベツレイの顔に、驚きがあふれた。望帝は眉をひそめて知人かと問うた。
喉仏を上下させ、乾いた唇をなめたベツレイが、女から目を離さずうなずいた。
「国に残してきた、わたくしの妻でございます」
女は、長い旅に疲れた様子もみせず参内した。付き添ったベツレイが、望帝の問いに答えた。
「妻は、国で巫女の修行をしたことがあります。このたびは、河で行方不明になったわたくしの身を案じているうちに、不思議な夢に導かれてここまで来たと、申しております」
望帝は、ベツレイの妻だという女をしげしげと見た。
年の頃は、ベツレイとおなじ三十代だろうか。参内にあたって湯を貸したため、香油を塗った髪は黒々と張りがあった。はっきりとした大きな目に、ひきしまった形のよい唇。身なりは粗末だが、小粒の水晶を思わせる美しさがあった。
ベツレイは、城壁内にあてがわれた家で妻と暮らすことになった。妻は水路を掘る現場にもついて行き、人夫の妻たちとともに炊き出しなどをして働いた。青銅器工房も工事道具の生産にかかれるようになった。着実に工事はすすみ、人工的な河となる太い溝が地面を這った。
望帝は工事の進行具合に満足していた。妻の支えを得て、ベツレイはさらに活き活きと、人夫を指導して難関を突破する。各地から集まる人夫同士のいさかいには、妻自ら仲裁に入り、時に歌や舞いで人夫をねぎらった。その様子が、視察に赴いた望帝には、透き通った御簾を幾重にも重ねたあちら側で動いているように思えた。
ベツレイが参内する時間は日に日に短くなり、ついには月が巡る間一度も足を運べぬほどになった。大臣が持ち込む諸事の問題に命令を下し、ひとり部屋へ戻るたびに、望帝は室内の広さを持て余すようになった。次第に望帝は、宮に引きこもる日が多くなっていった。
山々が霞を帯びてきた春先、久しぶりにベツレイが宮を訪れた。
「少し、お痩せになられましたか」
気遣うベツレイに異国から来た職人に作らせた揚げ菓子を勧めながら、望帝は意気揚々と応えた。
「なに、気のせいだろう」
「少しは、外へも出てこられたほうがよろしいかと」
「そうは言ってもおられぬ。旧都の馬鹿どもが、またなにやら文句を言っているようだからな」
渋い顔をして、望帝は髭をひねると、からまって毛玉になったものを引きちぎって捨てた。髭は、幾度となく望帝がいらだちに任せて引きちぎるために、香油で形を整えても荒れている部分が目立つ。
ベツレイは、形の崩れた望帝の髭をみて、顔をしかめた。
「しかし、先王は政と信仰をともに重んじてこの国を支えておられたのでしょう?」
ますます剣呑に眉間の皺を深める望帝に、ベツレイは静かに続けた。
「侍従のひとりから伺いました。あなた様が今の地位に就かれたとき、一刻も早い国の平定のため、国を捨てた祭司たちを呼び戻し、乱れた民の気持ちを鎮めたと。神の前での自らの姿を水鳥だということにして、先王を敬う形をとられたのだと」
「そうだ。見るのも忌々しいのに」
望帝が頷くのを見ると、ベツレイは細い目をいっそう細くした。
「あなた様は、すでに尽くすべき手を尽くしておられます。これ以上、あなたさまのお心を乱さぬよう、この件については、私が引き受けましょうか? あなたさまの代理としてあちらに赴き、彼らの話を聞いてきましょう。よそ者ゆえに心を開いてくれるかどうか分かりませぬが、却って遠慮なく不満をぶつけることで、解決に近づくこともあるかもしれませぬ」
望帝は、つくづくとベツレイをみつめた。ベツレイの目には、主君に対する媚がみられない。心底望帝の身を案じ、無用なストレスを軽減させたいという思いがあふれていた。
「そなたのような良い宰相を持てて、幸せだ」
うなるような呟きを、ベツレイは聞かなかったのか。眉すら動かさず、いかがなされますかと尋ねる。
「しかし、水路の工事はどうする」
望帝の問いにベツレイは、河底さらいの時から熱心だった人夫の名をあげた。
「彼は、多くのことを学んだ上に、他の人夫から人望も厚いので、わたくしの留守中、工事を進めてくれることでしょう」
「妻はどうするのだ?」
「旧都の件が落ち着くまでは、留守を頼もうかと」
弱っていく語尾から、妻をひとり残す不安が感じられた。河に流された夫の身を案じ、日夜思い続けてあてのない捜索の旅へ出た女だ。しかし、ベツレイも、一度口にしたことをやり遂げようとする男だ。
望帝はベツレイの旧都行きを認めた。
旅立ちの日、水路の工事は休みとなり、人夫がそろってベツレイを見送った。群衆の中に、ベツレイの妻の姿もあった。皆の後ろから、不安に満ちた目で夫を見つめている。両手を胸の辺りでしっかりと組み、涙を必死にこらえている様子だ。
望帝は、その様子を宮の縁側から見ていた。彼女が故郷では巫女のようなものであったことを思い出す。ベツレイの行く末か、または旧都での交渉の成り行きに不穏なものを感じているのかと、胸騒ぎを覚えた。が、静かに頭を振る。
巫女の力を信じるのは、愚かだと思いなおした。この世の成り行きは、人の行いで決まる。行列が峠道に消えるのを見送りながら、全て必ず上手くいくと心で唱えた。
ベツレイが旧都へ旅立って数カ月が経ったある日、夫妻の屋敷に賊が入った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます