第2話 河を治めるには
望帝の前に引き出されたベツレイは、両手首を腹の前で縛られながらも、興味津々であたりを見ていた。彼をつないだ縄の端を持つ衛士へ、頻繁に声をかける。
「この宮は、ずいぶんと水鳥の彫刻が多いですね。あの首のすらりと長いところなど、とても美しい」
だの、
「ここに来るまでに上ってきた二つの城壁、見事な技術ですね」
など、心底感嘆した様子で話しかける。まだ若い衛士は、無表情を続けることに苦心しているようだ。
御簾の内側からその様子をうかがった望帝も、ベツレイのあまりの非常識な態度にほとほと呆れた。だが、何事にも興味を示す様は好ましかった。
「ベツレイとやら。おぬしは、治水の研究をしておったのか」
わざと厳めしい声で問うと、ベツレイは深く頭を下げた。
「研究というほどのものではございませぬ。私は卑しい身分のため、学問を修めるなど、とても縁遠いお話でした。ですが、河がどのように流れ、それをどのように変えることができるのか。それを知りたくて、ろくに畑を耕すことなくほっつき歩いては家族に叱られていた、道楽者でございます」
肩すかしをくらい、望帝の顔に失望の色が浮かんだ。しかし、物は試しと、玉座の肘掛けに身をもたせかけ、今度は退屈そうに問う。
「して、おぬしならあの河をどうする。三年続けて、あの河は溢れた。どのようにしたら、あの河を制することができそうか」
ベツレイは、視線を落とした。うつむいた顔に、今まで見せなかった真剣さが鋭く浮かんだ。
「そう、ですね」
言いおいて、薄い唇をなめる。
「先ほど、わずかに見ただけですが。あの地で河は流れを曲げています。河の曲がりの内側には、年々山から運ばれてくる土砂がつもって、浅くなっているのではないでしょうか。なので、堤を高くするとともに、洲の土砂をあさって河を深くしてやれば、水は河へおさまるものと思います」
「そのような工事を、国元でもやっておったのか」
思わず身を乗り出した望帝に、ベツレイは顔を赤くして首をふった。
「めっそうもありません。そのようなお金は、わが故郷にありません。ただ、畑に掘った水路を使って実験した結果では、そのようなことになるかもしれない、と。実際、あのような大きな河の洲をさらえるかどうか、分かりませぬ」
だが、望帝はすでに、大臣を呼んでいた。ただちに、鵜飼いの川船を集めること、人夫の手配、河をさらう道具の作成を命じる。
早急な命令に、大臣は渋い顔をした。
「対岸が霞むほどの河の底をさらえるなど、信じがたいものです。異境の者に、容易に心を許しては危険でございませぬか」
「かまわぬ。今まで、手の施しようがなかったのだ。少しでも改善の望みがあるなら、やってみるしかなかろう。河を制してはじめて、この地は豊かになる」
ようやく頭を垂れた大臣は、各役所へ指令を伝えに下がった。
「ベツレイ」
天井の竜と水鳥の絵画を見上げていたベツレイは、あわてて額を床につけた。勢いあまって、鈍い音が響く。
笑いをこらえ、望帝は命じた。
「おぬしを、河さらいの指揮者に命ずる。来年の雨期を無事越せたなら、それ相応の褒美をとらせる。ただし、失敗したなら、その場でおぬしの首を斬る。覚悟しろ」
頭をあげたベツレイの顔がひきしまった。細い一重瞼の端も鋭く、頬に赤みがさした。
「おおせのままに」
縄を解かれたベツレイは、衛士の甲冑をみあげてしみじみと問いかけた。
「見事な青銅の甲冑ですね。これを、さっき見た城下の工房で作っておられるのか」
助けを求める衛士のまなざしに、望帝は腹筋を揺らした。
ベツレイは、翌日から河の調査に出た。望帝がつけた測量士をつかい、図面をひかせて河岸で考え込む。興味本位で視察に出かける望帝があれやこれや質問すると、しごく丁寧に答えた。
見ていると、その態度は相手が望帝でなくとも同じだった。各地からかき集められた人夫たちにも、持っている知識を惜しげもなく語る。独学とはいえ、実験に基づいた知識に説得力があった。
その様子に、望帝は頬をゆるめた。
「思ったよりいい拾いものになりそうだ」
だが、側に控える侍従長は馬上で露骨に眉をひそめた。
「さて、いかがなものでしょう。本当に、河底をあさることで、水害が治まるものでしょうか」
望帝は、鼻で笑った。
「神に祈っても治まらないものが、我が手で治まるのか、信じられぬというのだな?」
非難めいた口調に、侍従長は顔を真っ赤にしてうつむいた。侍従長のみではない。望帝の世になり、国の様々な支障が改善されてもなお、古くからの神を信じつづけるものは少なくなかった。
ベツレイは、作業の合間を見つけて頻繁に宮へ参内した。工事の状況を報告し、望帝の問いに丁寧に答える。ときには望帝の求めに応じ、故郷の話をした。
「懐かしいものだ」
ふたりきりで語り合う夜更け、望帝は風もなく揺れる灯りをみつめながら、ほろりと呟いた。ベツレイが首を傾げる。
「懐かしい、とは?」
「家臣や民には、この国の貴族出身だと信じさせている。しかし、若い頃は小国の兵として、東国周辺を転々としていたものだ」
すっかりくつろぎ、肘掛けにもたれていたベツレイが目を丸くして頭をもたげた。望帝は、自嘲気味に頬をゆるめる。
「お主と同じ、卑しい身分の出身なのだよ。国を焼かれ、兵になったが軍の将にも見捨てられ、さまよっているうちに山を越え、この国へたどりついた。豊かになる可能性を秘めていながら細々と暮らす人々を見るうちに、どうにも悔しく思えて、王になろうと決意したのだ。己の手で、この国を天下で一番豊かな国にしてやろうと」
「そのための、稲作でございますか」
「さよう。稲作は、各地で広がっておる。いまに、流通の中心になるに違いない。それには、河を治めることが絶対不可欠なのだ」
身を偽り、この国の者として貴族の娘を娶った。すべては豊かな地を我が手でより豊かにせんと走り続けてきた。気が付けば一人長寿となり、妻も従者も死んでいった。子は授からなかった。側へ寄ってくる者のほとんどが、身分や地位欲しさで表面を繕ってばかりいる。隙あらば王座をかすめ取ろうと虎視眈眈と構えている者も多い。望帝はたくさんの従者に囲まれながら、常に孤独だった。
ベツレイは座り直すと、背筋を伸ばした。そろえた膝の前に両手をつき、深く頭を垂れた。
「このベツレイ、必ずや、望帝様のお力になれるよう、全力を注ぎます」
きっちりと髪を結い上げ露わになったベツレイの白いうなじが、夜の闇に浮かんだ。望帝は、しみじみとうなずく。久しく感じなかった安らかな心持ちが、望帝の目を窓の外へ、天へ向けさせた。
星空を背景に、険しく連なる山々が闇色に立ちはだかる。
この男となら、水害を越えていける。そんな希望が瞬いていた。
ところが、灌漑工事を阻むものが現れた。
冬も差し迫ったころ、近衛長が旧都からの不穏な情報をもたらせたのだ。
「せんだって、大地の神の怒りが旧都を揺らし、祭殿の一部が崩壊いたしました。先王の時代からの祭りが滞っているだめだと、祭司を中心に民が不満を募らせております」
望帝は、いらだちを含んだ吐息をもらした。
「地震なら、神を信じぬ他国も揺らしたわい。その証拠に、北方の小国からは豆などの穀物を多めに売ってくれと要請がきた」
「しかし」
侍従長が目をそらせた。
「旧都の民は、もともと先王を西王母としてあがめる習性をもっております。国を治めやすくするために、一度は追放したものを呼び戻して住まわせた以上、なんらかの手当を」
「わかっておる」
望帝は、侍従長をにらみつけた。
「破損した祭殿は、旧都の財源で修理すればよいではないか。祭司どもが、ひそかに金を集めていることは分かっておるのだぞ」
近衛長が靴のかかとを打ち合わせた。甲冑の白い房飾りが揺れ、青銅の薄板を閉じあわせた鎧が冷たい音をたてた。
「は。しかし、この度はそれでも足りぬほどの崩壊であったと」
「しかし、治水のための道具がまだ、すべての人夫に行き渡っておらぬ。次の雨季までに工事を完成させぬと、再び田が浸かってしまうではないか」
「そのように、祭司どもへ言い渡したのですが、やつらに治水は関係ないこと。説得するにも限界がございます。金を出してもらえぬなら、課せられた人夫の役を断ると息巻いております。出兵も必要になるやもしれませぬ」
望帝は唸った。髭の先が小刻みにふるえる。真一文字に結んだ唇に苦渋がにじむ。
「仕方あるまい。人手を手配して、可能なだけ早く直せ」
その声はあまりに小さくくぐもっていたので、近衛長が聞き直さねばならなかった。
一人になった望帝は、宮の高欄に寄った。
その日も空は、薄い雲に覆われていた。城壁に囲まれた町には、草葺きの家々が建ち並び、米粒ほどに見える人々がたち働いている。玉石加工の工房からは石を研磨する音が聞こえ、青銅加工の工房からは金属を溶かす釜の煙突から煙が立ち上っていた。
養蚕が盛んだったこの地では、絹織物の産出もある。しかし、それだけでは民の生活を満足に支えることはできていなかった。望帝が政を執り行うようになり、稲作を広めたことによって、人口が増え、民は豊かになった。それでも、周辺国から身を守るほどの余裕はまだない。灌漑をすすめ、より豊かな国にしなければならないことを、どれだけの民が分かっているだろう。
振り返り、室内に飾りたてられた水鳥の一群と目があった。民の心をまとめあげるために、共通の神の存在は偉大だ。だが、神は今までに一体なにをしてくれたというのか。
幼い日の体験の苦さが口に広がり、望帝は衝動に任せて腕を振りあげた。
けたたましい音に、見張りの兵が駆け込んできた。床にちらばった焼き物の破片に唖然としているのを後目に、望帝は告げた。
「出かける。馬の準備をしろ」
その年の雨季は訪れが早く、工事の完成を待たずして雨が降り始めた。
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