雲路をたどりて

かみたか さち

第1話 流れ着いた男

 黒ずんだ木々の間を霧が流れる。標高のわりに、空気はむしろ温もりをはらんでいた。

 木立の向こうから、複数の女人の声が近づいてくる。控えめだが楽しそうだ。霧を透かして、鮮やかな朱色が浮かび上がった。

 先頭に立つのは、かなり高齢な女王だった。白い髪を頭頂に結い上げ、髷に通した横棒の両端から金製の飾りを下げている。彼女の後ろに続く女人達は各々、弓や矢筒、そしてきらびやかな黄金の杖を携えていた。

「獲物は、もうじきであろうか」

 しばし立ち止まった老女王が、周囲の霧を透かし見た。耳元へ手のひらをかざし、茂みから獲物の足音が聞こえはしないかと耳をすませる。静かに流れる霧のなかに、音はなかった。

 女王が足を踏みだそうとした瞬間、側の茂みで弦がうなった。息をのむように、細い体がのけぞる。勢いよく飛びだした矢は、女王の体へ確かにくいこんでいた。

 低木が揺れ、弓を手にした男が立ち上がる。平たい帽子から背に垂れる弁髪に筒袴といういでたちは、この国の一般的な男子のなりだ。だが、女王は苦痛の中でも口の端をひきあげた。

「異境の民が」

 男は、身を明かされても動じなかった。その様子に、女王はさらに楽しそうに顔をゆがめた。

「そんなに、この国が欲しいのかえ?」

「王が、己を神だと偽る政は、うんざりだ。そんなことをせずとも、この国は豊かさで民に平穏を与えられる」

 女王は、にやりとした。

「ならば、わらわは得仙して、おぬしの行く末をとくと見せてもらおう」

「得仙など」

 男は、脇の草むらに唾をはきすてた。

「死ねば、それで終わりだ。仙人になるなど、まだそんな世迷い言を」

「信じぬなら、それでもよいわ。別に、この地の王はわらわでなくともかまわぬ。誰でもいい、この神の地を、栄えさせることができるなら、な」

 女王の体が傾いだ。側に仕える女人たちは、目をみはりながらも騒ぎ立てることはなかった。その女人に、女王は小刻みにふるえる手を伸ばす。

「杖を」

 王の証である黄金製の杖を、男へ差し出した。

「やってみるがよい。おぬしに、どれだけの、力があるか」

 言い残し、女王はその場に倒れ伏した。たちまち生気が失われる。付き添いの女人は皆、武具を男へ向けようとはしなかった。互いに目配せをすると、懐から出した丸薬を口にして次々に白目をむいて倒れ込む。

 その様を、男は冷たい目で見ていた。王が死ねば仙人になる。そして、もっとも近くに仕えるものたちも、死してともに仙人の世界へ旅たつ。

 そのような信仰が、何故国を支えているのか。故郷を追われ、この地に流れ着いた男には、理解できなかった。信仰のみで国が守られるなら、自分はここに立っているはずがない。

 男は、地面に転がった黄金の杖を拾い上げた。肩にかかる弁髪をうるさげに背へ払うと、下草を踏み分け、森を後にした。

 王を倒した。あとは、宮に乗り込んで王を神とあがめる司祭たちを葬り去り、国中に己の存在を知らしめるだけだ。

 望帝という、新しい王を。


 百余年の歳月が経った。

 先王の世以前から、この地は神の降り立つ地として周辺諸国に知られていた。一年のほとんどが曇り空で、日照は少ない。が、険しい山から流れ出す豊かな水は大地を潤していた。標高が高いにもかかわらず、周辺より温暖な気候が、この地を豊かに、そして、不老不死の妙薬が育つ国という虚像を生んでいた。

 もしかしたら、実際に人命に作用するなにかがあったのかもしれない。

 望帝は、まだ存命だった。

 背に垂らす弁髪が真っ白ではあるが、しわだらけの顔にも骨太な肉体も、百歳を越していると信じる者はいないだろう。

 だが今、彼は馬上で肩を落とし、暗い目をしていた。いつもよりは老けてみえる。浅黒い額に、苦悩の皺がよる。鼻の下にたくわえた真っ白な髭が、小刻みに震えた。

 眼下は泥の海だった。かろうじて重い粘りをはねのけた稲が空へ葉をのばしているが、それもまた、乾ききらない茶色にまみれている。

農耕地帯を囲む河は、山懐にいだかれた国土に恵みを与えてくれる。だが、そればかりではない。夏から秋にかけて降る雨は、時として河をあふれさせる。一度牙をむくと、河はたちまち広大な田畑を飲み込んだ。

「下りるぞ」

 望帝が馬の向きをかえると、従者が続いた。

 水たまりの残るぬかるみ道を下り、泥の中、馬を進める。足音に気がついた農民が、いっせいにひざまずこうと腰を折った。

「そのままで良い」

 見た目の老体から予想もつかない張りのある声に、農民はあわてて立ち上がった。立ったまま可能な限り身を縮めている。その目の奥に、後悔の念が光るのを、望帝は見逃さなかった。

 ここで稲作に励んでいる者達は、数年前まで鵜飼いをしていた。あのまま鵜をあやつり魚を捕る生業をしていれば、貧しいながらも食いぶちは稼げただろう。彼らが胸の奥底に溜め込んだ暗い思いが、ひしひしと望帝に伝わった。

 望帝は、馬からおりた。沓が泥をはね、絹織りの上着に散るのも気にとめない。

 農民たちは、一様に顔を青くして震えていた。田を守れなかった咎で責められるものと覚悟した者もいただろう。

 望帝は青ざめる農民の前を通り過ぎると、地面におかれていた鍬をとりあげた。青銅製の刃先から柄まで泥にまみれ、小バエが数匹飛び立った。

 いきなり望帝は、鍬をふるうと、田にたまった泥をすくい上げる。驚き、細い目を丸くする農民と従者に、望帝はニッカと笑った。

「さあ、皆のもの。もう一度耕そうではないか」

 不器用な手つきで泥をかきだす望帝が、ぬかるみに足をとられてよろめく。あわてて駆けつけた従者諸とも膝を汚し、望帝はカラカラと笑った。

 農民たちは互いに顔を見合わせ、誰かが動くのを待った。やがて、まだ幼い少女が畦から下りた。それを機に、おのおの手に道具を持って田へ足を踏み入れる。

 田に活気が戻った。農民たちの頬に、明るい色がさす。

 満足し、望帝は泥がついたままの衣服で馬にまたがった。馬が荒い鼻息をふきだす。

 国の貯蔵庫には、まだ蓄えがある。この年は不作でも、どうにかなるだろう。問題は、次の年だ。それまでに、なんとか手をうたねばならない。

 考えあぐねながら次の視察地へ馬の首をむけた。その望帝のもとに、村役人が駆けつけた。

「今しがた、そこの河原に、異国民と思われる死体がうちあげられました」

 従者の間にざわめきが走った。

「大雨で流されたのか?」

「いや、しかし、上流に国はない」

 甲冑のなかでかわされるささやきに、望帝は唇をひきしめた。

「行こう」

 言い終わらないうちに、望帝の乗る馬は駆けだしていた。


 河原はすでに、野次馬でにぎわっていた。望帝のおなりと聞いて、役人が大衆をひざまずかせ、矛先を天にむけて整列した。

 望帝は下馬して、石を踏んで人垣にかこまれた身体へ寄った。見下ろし、眉をしかめる。

 確かに、この国の者ではない。肌は白く、この国の者がもつ浅黒さがない。男だが、頭を剃らず、結い上げた黒髪の一部がほどけ、水を含んで長く胸のあたりまで張り付いていた。着ているものも、簡素な貫頭衣のようだ。

「見たところ、東方の民のようだが」

 望帝の呟きに、役人頭が同意した。

「しかしなぜ、下流の民が流されてきたのか、分かりかねます」

 望帝は、思案顔で髭をなでた。他国の偵察かもしれない。

「ほかにも仲間が潜んでおるかもしれんな」

 重い呟きに、従者の一人が深々と頭をさげると役人頭から数名の役人を借り、即座に捜索にうつった。

 ふと望帝は、男の首もとに光る玉石をみとめた。翡翠を亀の形に彫った首飾りだが、遠目にみるだけでも見事な細工だ。男の貧しい身なりにつりあわない。

 もっとよく見ようと身を屈め、土に汚れた玉石に指を触れたとたん、望帝は顔をゆがめた。反射的に手を引く。従者があわてて駆け寄った。

「どうなされました?」

「いや、なんでもない」

 言いながらも望帝は、まだしびれの残る指先を見つめた。

 玉石に触れたとたん、刺すような痛みを感じた。毒虫でもいたかと注意深く玉石をのぞき込んだが、うごめく姿はない。

 思考にしずみかけた望帝は、役人の、恐怖にひきつった叫びに我を取り戻した。

 見ると、先ほどまでぐったりとしていた異国人の胸が、ゆっくり上下している。水にふやけた肌に張りが戻り、青い唇が小さく震えた。さらに、みじろぎをする。

「生きて、いたのか?」

「心の臓は止まっていたはずだが」

 従者の一人が、震えながら望帝の前にたちはだかった。

「妖怪のたぐいかもしれませぬ」

 多数の青銅製矛先に囲まれ、異国の男はゆっくりと瞼を引き上げた。焦点が定まらない様子であたりを見回し、状況を察すると全身をこわばらせた。

「ここは、いったい。私は、どうして」

 やはり、東方の訛がある。望帝には、懐かしい響きだった。

 従者が鋭く問う。

「何者!」

「私は、ベツレイと、申します。平原のはずれにおりました。河の流れを調べようと、水辺におりましたところ、水に落ちて。ああ、私の木簡は、筆は、どこへ」

 うろうろと腰や懐をさぐろうとするベツレイを、従者の矛がはばんだ。

 望帝は、ベツレイの発した言葉に惹かれた。

「その者、取り調べのため宮に引き立てよ」

 従者に命じると、ひらりと馬にまたがる。手綱を荒く引くと、すでに望帝はかけだしていた。遅れて従者の一部が後を追う。

 鍬をふるう農民が、雨に濡れた木々が、飛ぶように後ろへ去っていく。馬上で望帝は声を出さず笑っていた。ベツレイと名乗る男は、治水の知識を持っているに違いなかった。取り調べれば明確になるだろう。

 望帝の心に、一条の光が射していた。

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