童貞探偵 綱禎（どうていたんてい つなよし）

Case #002-02 思考するDT

　時計は、午後五時を回ったところだ。

　マチコは15時頃、私用があるからと自宅へと戻っていった。マチコはいつも、この時間に一度自宅に帰り、19時頃に再び事務所に顔を出す。

　一方のオレは、昨晩の不倫調査のプロファイルをまとめていた。IT会社社長、遠藤弘の不貞を暴いたこのドキュメントは、明日所長から遠藤の妻に手渡される予定だ。

　キーボードを打つ手が止まった。タイプしすぎて、オレの頭の中の語彙辞典がオーバーヒートしたのかもしれない。文章がひとつも思い浮かばなくなってしまった。

　冷めてしまった、ミルクたっぷりのコーヒーを飲む。ハードボイルドにブラックを飲みたいところだが、あの舌に刺さるような苦味は苦手だった。甘いコーヒーならカフェインと脳味噌の燃料たる糖類が一緒に摂取できる。いいことづくめじゃないか。

　一休みしながら、パソコンデスクの前に貼り出された吉村町の地図に目を移した。

　妙齢の淑女がバッグをひったくられたのは、「大島通り」と呼ばれる通りだ。吉村町の南の外れにある裏通りで、昔から営まれている商店や、バーやスナックが並んでいる。騒々しい吉村町の中にあって貴重な閑静なエリアだが、南のマンション街と駅をつなぐ道でもあって、人通りは少なくない。

　このような通りだ。ひったくりにはあまり向かない、と言える。

　それでも今まで逃げ切れているのだから、犯人はこの大島通りの地理に熟知している、と考えるのが自然だろう。捕まらない自信がなければ、大島通りでひったくりをしようなどとは思わないはずだ。

　オレたちも吉村町の住人であるが、かといってその全てを知り尽くしているわけではない。地の利は間違いなく、相手方優勢だろう。

　では人の力はどうか。

　マチコは優れた運動能力を持っている。足も速い。マチコの小柄で細い体は、全てがバネでできているのではないかと思えるほどだ。

　その瞬発力を持ってすれば、ひったくられた瞬間に体当たりして、犯人を足を止められるかもしれない。

　しかし、それが失敗したら？

　パチモンのプラダを掴まされて、悔しがる犯人の姿を想像するのは楽しかろう。だが、オレたちに課せられたミッションは子供のイタズラではないのだ。

　それに「かもしれない」という希望的観測に頼るのは、任務（ミッション）の確度を下げることになりかねない。

　マチコの初動がスカっても、確実に犯人を押さえられる方法。獅子搏兎（ししはくと）をモットーとするテラダ・エージェンシーの構成員であるなら、そこまで考え抜かねばならない。

　天運にゆだねるのは、それら全てを尽くしてからの話だ。

　不意に、ロシアタバコ（Kissオーガニック）の匂いが鼻をくすぐった。

　目を向ければ、組んだ手の上に顎を載せ、ジトッと、こちらを見ている所長の顔があった。

　煙がまるで「さぼるな」と言ってるようであった。

　さぼっているわけではないと言い訳したいところだが、ここはおとなしく、所長の要望にこたえたほうが良さそうだ。

　ある程度の戦略（プラン）は組み上げた。所長チェックも「可」の評価で通せた。あとは実行（ドゥ）に移して結果（アクション）を出すだけだ。チェックはどうしただって？　それは後ほど。

　マチコは定刻から15分ほど遅れて出社してきた。家を出るのにやむ得ない事情で手間取ったらしい。

　所長は遅刻に寛容だ。

　成果が出せるなら、いつ会社にこようが、いつ帰ろうがかまわない。仕事柄、定時を設けずらいためだ。調査内容によっては急な休日出社もある。そのかわり、急ぎの仕事がないときはいつでも休んでかまわないことになってる。

　そういう、ある意味で自由で、ある意味で不自由なテラダ・エージェンシーのルールを、俺は気に入っている。曲がりなりにも、所長は俺やマチコを信じていると感じられるからだ。

　もちろん、その分プレッシャーも大きい。今回の件でも、グサグサと釘を刺されまくった。ひとつひとつの仕事のクオリティは、次の仕事につながる。なにしろ、トラブルの見本市と言っても過言ではない吉村町には、多くの同業が事務所を構えている。探偵としてこの街で生き残るには、何より期待と信用に応（こた）えられなければならないのだ。

「遅れてごめんー」

　ドタドタと騒々しい足音を鳴らしてマチコが事務所に入ってきた。

「で、DT、作戦は考えたの？」

「ツナにしては、なかなかおもしろそうなプランだよ」

　所長は口角をあげながら、俺が作ったプランノートをマチコに渡した。

「これ、私の仕事多すぎじゃない？」

　一読するなりノータイムで文句をたれると、マチコは半目で俺を軽く睨む。

　気にすることではない。どうせこの女は、どんなプランでもまずはケチをつけるのだ。

「所長、インセンティブくださいよー」

「ツナからもらえ」

「えー、安月給のDTになに期待しろと」

　安月給は俺のせいじゃないぞ。

「とりあえず、二人で作戦のすりあわせしときなよ。チャンスは、今日しかないんだから」

　それだけ言うと、所長はひらひらと手を振った。これで話は終わりだ、というジェスチャーだ。

　不承不承なマチコを連れて、間仕切り《パーティション》で区切られた応接スペースに移動する。

　壁に貼られた吉村町の地図を外し、テーブルの上に広げた。

　テーブルの下に置かれた黒い革製のトレイには、ボードゲーム用の木製トークンが入っている。飾り気のない立方体や人や何かをかたどったもの。様々な形のトークンが、トレイの中に収められている。

　俺は手早く、今日の作戦通りにトークンを並べていく。

「俺は赤、ピンクはマチコ」

　大島通りに二つの人型トークンを置いた。

　マチコは不機嫌そうな顔のまま、革張りのソファーに身を預けた。

「私は大丈夫だとして、あんたホントに、それやるの？」

　そして腕と足を同時に組んだ。

「やるしかないだろ。マチコにやらせるわけにはいかないしさ」

「男の仕事ってこと？」

「どっちかと言えば、立案者の責任だな」

「ふうん。まっ、いいけどさ」

　作戦案は、先ほどの書類で理解しているはずだ。マチコは見ての通り学はないが、バカじゃない。

　ここで行うのは、視覚的な確認だ。地図とトークンを使って実際の動きを机上でシミュレートし、書類では不明瞭だった部分を明らかにし、作戦のほころびなどを見つけていく。

　現場ではやりなおしなど効かない。だから机上シミュレーションで、何度も「やりなおし」、作戦の確度をあげていくのだ。これがチェックだ。

　もっとも、アクションはぶっつけ本番なのでサイクルとして回すことはできないのだが。

　三十分ほど話し合い、プランに修正を入れた。俺もマチコも納得したところで、最終案は完成した。

「ねえ、やっぱり私がやろうか？」

　トークンを片付けている俺に、マチコは言う。

「プラダ持って歩くのだって、それなりに危険だろう？　俺だけが、後ろで見てるってわけにはいかないよ」

「なにそれ。DTのくせにかっこつけてるの？」

　わざとらしく、マチコはクスクスと笑い出した。

　ちょっと気分を害したが、わざわざ抗議するまでもない。壁に地図を戻すと、俺は応接スペースを後にした。

　日が落ちた窓の外は、まもなく夜のとばりが降りようとしていた。

「そういえばさ」

「ん？」

「あんた、明日誕生日だよね」

　この口うるさいギャルが、俺の誕生日を覚えているなんて心外…いや、以外だ。

「まーね。こう見えて、私記憶力いいほうだから」

　そう一言言うと「用があるから」と、マチコは事務所を出ていった。