Case #002-01 ホテル街のDT

 空に浮かぶ月が、銀の弓をひきしぼる。


 騒がしい吉村町とは思えない、静謐せいひつな通りであった。地元の人間は「ホテル街」と呼ぶ。

 色褪せた薄暗い電飾たちは、まるで男女の秘め事を隠しているようだ。流れる雲が月を隠すと、不意に闇が降りてくる。ここが繁華街の一角であることを忘れてしまいそうだ。


「童貞なのにラブホ前にいるのって、どんな気持ち?」


 ぷぷぷとマチコが笑う。

 腹立たしい女だが、ここでは男女のペアは都合が良い。むしろ男一人では怪しまれる。ましてオレのように、身を隠すのに不都合な長身の人間ならなおさらだ。

 こんなマチコとでも、一緒にいれば、そういう風に見られるのだ。ここは、そういう街だ。


「一万円ギャラくれたら腕を組んであげる」

「デート商法かよ」

「特別サービスで五千円にしたげてもいいよ?」

「遠慮しておく」

「じゃあ三千円」


 はぁ、とオレはため息をついた。


「腕を組むと言っても、自分の胸のところで両腕を組むつもりなんだろう? どっかの野球監督みたいに」

「ちっ、バレたか」

 マチコは舌を鳴らすと、お気に入りのガムを口の中に放り込んだ。間もなく、くちゃくちゃと、マチコがガムを嚙む音がしだした。


 遠藤弘。41歳。女性向け中古ファッション用品を扱うECサイトの社長。既婚。妻との間には小学生になる二人の子供がいる。三年前からセックスレス。妻は別の女の存在を疑っている。だが妻の方も、もう夫に愛情を抱いていない。この上は親権と、取れるだけの慰謝料をふんだくって離婚をしようと考えている。


 気が進まない依頼である。結婚がどれほど大変なのか、オレにはまったく分からないが、好き合って死ぬまで一緒と誓った相手との関係が、このような形で終わりを迎えるのは残念であるとは思う。

 だから不倫調査は、気が重い。


「童貞のくせに、結婚に絶望するとか生意気なんだよ」


 そんな話をすると、マチコは決まってこう言う。

 じゃあ、お前は結婚の何が分かるんだよ、と反論したくもなるが、水掛け論になるのでやめておく。こいつと結婚観を言い争っても時間と体力の無駄だし、「童貞が結婚の心配をするな」というセリフは、悔しいが当たっているような気がしてしまうので、言い返しようがなかった。


 それにしても、相手は用心深い。ホテルに入るときは一人だった。その後何人かの女性が入ったが、もちろん誰が遠藤の不倫相手かなど分かるはずもないし、出る時も別々に出てくる可能性はある。


 それでも、現場写真以上に雄弁な証拠はないのだ。


 遠藤が入って二時間がたった。

 デジカメをポケットから取り出し、スリープを解除した。感度ISOは最高に設定してある。ノイズが乗るが、ターゲットの顔がそれとなく分かれば、それでいい。今時のデジカメは、フラッシュがなくても、街灯程度の明かりがあれば写せる。夜の住人とも言える繁華街の探偵にとっては、都合のいい話である。


「あたし、もうちょっと入口の方で張ってる」


 同じカメラを右手に携え、マチコはホテルの入口へと向かった。マチコの小さな身体は夕闇の中に溶け込んだ。

オレはそのまま、電柱に身を隠しながら、カメラを構えた。

 そんな時だった。


「ちょっと君、何をやっているのかね?」


 ふりむけば警官サツがいた。


「こんな場所でカメラなんて持って。盗撮かね?」


 しかも二人組である。逃げるのは無理そうだ。

 身分を証明するために、名刺を取り出そうとした。

 だが、ポケットには、サラリーマン時代から使ってたステンレス製の名刺入れがある感触がない。胸ポケットやジーンズにもない。

 探偵の名刺は大変便利なアイテムだ。探偵であることが証明できれば、いろいろな事が大目に見てもらえる…ことがある。

 そんなマジックアイテムを忘れてしまうとは。なんたる不覚だろう。


「私は、探偵でして」


 ダメもとで言ってみた。


「探偵だって?」


 どうやら、ダメだったようだ。警官はますます鋭い眼光を向けていぶかしむ。そりゃそうだ。いかにも、その場逃れの言い訳みたいではないか。


 通りをゆく発情寸前、もしくは事後のカップルたちの視線が、こちらに向けられている。なんという敗北感だろう。まるで童貞であることを笑われているようだ。


「事務所はどこだ?」

「テラド・エージェンシーです」

「寺戸さんのところの探偵かね」


 さすがボス。名前を出しただけで警官が分かってくれた。

 形式張った職務質問をされた後、オレは解放された。所用時間はおよそ10分。大きな時間ロスだ。ターゲットはどうなっただろうか…。



「…と、マヌケなDTが職質されている間に、あたしがバッチリ証拠写真を撮りましたとさ」

「デカした、ハマチ」


 我らがボス、寺戸てらどルミ女史が小さな手で拍手を送る。拍手するたびに、指にはさんだ細いタバコの煙が波うつ。

 ハマチとは、マチコのことである。八里万智子「は」ちり「まち」こで、ハマチだ。


「それにしてもツナはなにやってるんだ」


 ボスの冷たい視線が突き刺さる。ツナと言うのは、もちろんオレの事だ。オレがツナなので、マチコはハマチと呼ばれるようになった。


「ホント、使えない。童貞だし」


 ついでにマチコの視線も当てられた。童貞は関係ないだろ、童貞は。


「まあ、その図体だしね。張り込みに不利なのは仕方ない」


 それは、ボスの手打ちの合図だった。指に挟んでいたタバコKissオーガニックを一口吸うと、それを灰皿に押しつけた。


「だけどね、うちには能なしを雇ってる余裕はないんだよ。ということで、ツナにそろそろ本領を発揮してもらおう」


 ボスは座ったまま、腕を組んだ。


「最近、大島通りでひったくりが増えているの、知ってるか」

「ええ、聞いたことはあります」

「昨日の夜、ちょうどあんたらが張り込みやってる時に、妙齢の淑女がいらしてな。そのひったくりに、大切なものを奪われたそうなんだ」


 その先は聞くまでもなかった。


「うわぁ、なにそれヤバそう…あたしパス」


 マチコはわざとらしく震えてみせた。


「なに、相手の家やアジトに乗り込む必要はない。その先は警察がやる。そういう取り決めになっている」


 なるほど、昨日警官が早々に解放してくれたのは、この話があったからかもしれない。


「でも、その大事なもの、もう換金されている可能性もありますね」

「もちろんな。だが依頼人にとってそれは、よほど大事なものだったのだろうな。例えばバッグ、例えば財布。どれか一つでも戻ってくれば、全額払ってくれるそうだ」


 ボスはオレとマチコを交互にみやった。


「私が言いたいことは分かるな?」


 ボスの頭上に掲げられた、獅子搏兎ししはくとの額縁が光ったように見えた。


「依頼人の期待の上を行く。これはテラド・エージェンシーのポリシーだ。全部返ってくるはずがないと諦めている依頼人に、奪われたものを全部返す。依頼人は、そりゃもうこの世界の全てが光に包まれたと思うくらい大喜びするだろう。どうだい、探偵冥利につきるじゃないか」


 ボスはニヤリと口角をゆがめた。オレたちはうなずいた。それが任務受領の合図だった。


「ハマチ、このバックを貸す」


 そう言って机の下から、黒いレザーバッグを取り出した。


「うわ、ルミさん! これプラダじゃないですか!」


 持ち手の金具の間にはめられた、逆三角形のレリーフ。あまり女性ファッションを知らないオレでも、一目でプラダのバッグであることは分かった。


「それが餌だ。ハマチ、それを持って大島通りを歩け」

「でも、こんな高いバッグ…」


 高価なものに縁がなさそうなマチコは、普段の不遜な態度を隠し、恐ろしく動揺していた。そんなマチコの様子を眺めていたボスは、不敵に笑った。


「心配するな。それ、パチモンだ」


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